宇宙にて
雨乃ミゾレ
第1話
夜のとばりは完全に落ちていた。かすかに生ごみにも近いにおいの漂うここにいるのは、オリバーとエマの二人だけだった。
「ねぇ、早く帰ろうよ。ここ、怖い」
オリバーの服の袖をくいくいと引きながら言う。唇はへの字に曲がっていて、今にも泣きだしそうだ。
「困ったな……ぼくも帰り道がわからない。聞けるような人もまわりにいないし……」
本格的に迷子になったことを理解して、ついにエマは泣き出す。わっ、という高い声は、二人を囲む無数の廃墟の壁や天井、床に反射して、よく響く。
「やめろバカ、変な人に見つかっちゃうかもしれないだろ!」
「だって……今日……うぇっ……帰れないから……」
こんなさびれた場所に人がいるとすれば、犯罪者か、浮浪者か、いづれにしろロクな人間ではない。十二歳の子供が夜に二人だけでいることの危なさを、オリバーは理解していた。
思い出すのは、今よりもっと小さいころに母親から何度も気化された怪談話。遅くまで子供が一人でいると、怖い宇宙人にだべられちゃうぞ――。子供をしつけるために、EDENではよく用いられる作り話だ。
無論、幼年学校六年次である二人は、このEDENがどれだけの技術の上に成り立っているのか、そしてどれほどの警備力を有しているかをぼんやりとは理解しているし、それ故に怪談話は所詮怪談話でしかないことも理解している。それでも、暗闇は二人に「もしかしたら」と思わせるに十分な恐怖を湛えていた。
二時間前のチャイムで帰っておくべきだったのだ。今思い返せば、いつもどおりの時間に遠くから夕方のチャイムが聞こえていたように思えてくる。
眼を潤ませるエマの横で、今更な思考を繰り返す。帰っておくべきだったタイミングを何度も思い出すたびに自分たちの現状を自覚する。繰り返すうち、思考はよりネガティブな方向へと。次第にオリバーの目には涙がたまり、エマとつないだ左手に力が入る。
「いたい!ねぇ!オリバー!」
気が付くと、エマは瞼を腫らしながらも、泣き止んでいた。
「悪い、ちょっと考えすぎてた」
一応は落ち着きを取り戻し、二人は一晩をどう乗り切るか、考え始める。
「とりあえず、ここから動きすぎない方がいいか。足場もよくないし」
「そうね。私達結構騒いでいたと思うし、少なくとも本当に近い位置には人はいなそう。冷静に考えてみれば、どれか建物に入るだけでも一晩程度ならそれなりに安全に夜を越せるかも」
親のおさがりのテレ・リングのフラッシュライト機能をオンにして、辺りを探る。ハンバーガーショップの破れたのぼりに、アパレルショップの跡が残る看板。どうせなら寝心地の良い場所が良かった。
「オリバー、あれ」
エマが光を当てる先を見ると、かすれて読みにくくはなっているが、「家具」の文字が見えた。二人で顔を見合わせて、はぐれないように手を繋いでその扉へ向かう。中をのぞくと荒れてはいるが、一つだけ、ベッドが置き去りにされているのが見えた。
「ここにしようか」
電気が来ていないせいで稼働していない自動ドアを手で開き、ベッドへ向かう。十二歳のこどもが二人で寝るには十分な広さのある布団だったが、二人は手をつないだまま、小さく向き合って眠りについた。
*****
コツ……コツ……コツ……。
廃墟の森に軽めの足音が反響する。
二人が眠ってから十五分ほど。泣き疲れて深く眠っている二人は、足音の接近に気づかない。
足音の主はハンバーガショップで立ち止まり、中に誰もいないことを確認して再び歩き出す。また、アパレルショップでも足を止めて、中をのぞく。そうやって周囲の店を何軒か回ったのち、次は二人が眠る家具屋で立ち止まる。
いつも扉は開いていただろうかと思い出しながら中をのぞき、少年学校か幼年学校の生徒であろう位の男の子と女の子の姿を見つける。
「これくらいの子供には、親御さんの心配の気持ちなんぞわかりゃせんのかねぇ……。あいや、似たようなことをさんざんやっていた儂が言うのもおかしいか」
*****
瞼越しに光を感じる。それが朝浴びなれた人工太陽のオレンジがかったものではなく、もっと冷たいフラッシュライトの白色光であることに違和感を覚える。瞬間、ぐるぐると無秩序に回る記憶から、現在おかれている状況が整列する。
「だれっ!」
飛び起きると同時に、エマを隠すように右腕を広げる。
「んん……?どうしたの?」
オリバーの動きと人の気配に気づいたエマの目をこすり体を持ち上げる。なんとなく状況を察したエマは再び涙目になって、オリバー後ろに隠れるように移動した。
二人を照らす光に隠れて顔は見えないが、目の前にいる人物のシルエットはオリバーよりも大きい様子であった。
「いや、すまない。怪しいもんじゃあない。……と言っても信じられんか」
老いを感じさせる、少ししわがれた声の主はぽりぽりと頭を掻いてからフラッシュライトを消し、腰から下げたランプに明かりを切り替えた。
赤みがかった光に照らされて浮かび上がるのは、声の印象とたがわず、白い口髭を湛えた老人の顔であった。幾重にも皺が重なる肌と長くなって垂れた眉毛の奥から除く瞳は、しかし二十代の力強さを思わせるものであった。
「住処で寝とったらお前さんたちの声が聞こえてな。見たところ十二、三歳くらいか?家出でもしたのかね。ここはお前さんらのような子供が来るところじゃあないぞ。それもこんな時間に。」
髭を撫でながら言う。その所作と話し方から、オリバーは目の前の老人が危険な人物である可能性は低いと判断する。エマも同じことを感じ取ったのか、涙は奥へ引っ込んでいた。
「あの、ぼくたち家出とかじゃなくて……遊びに来ていたら帰れなくなっちゃって……」
「助けてください!」
*****
「迎えに来てくれるそうだ。当然じゃが、お前さんたちのことをひどく心配していたぞ」
部屋を仕切るカーテンの向こうから、電話を終えた老人が戻ってくる。
二人が助けを求めた後、老人は「ついてこい」と言い、この場所に案内してきた。ランプの薄明りに照らされる壁面には所狭しと本が詰め込まれていて、また、床の上には何か紙束の山がいくつか積みあがっていた。
「わざわざありがとうございます」
「なあに、構わん。まあ、これに懲りたらちゃあんとチャイムが鳴ったら帰るんだぞ」
老人はにこやかに笑う。
「親御さんたちが到着するまで、自由にしてくれて構わんよ。……とはいえ、お前さんたちが読めるような本は殆どないがの」
無数の本と紙束。自由にしていい、と言われた二人は、思い思いにそれらを物色し始める。
「あの、これは何の本ですか?」
エマが一冊の本を手に取り、尋ねる。赤いハードカバーの一冊は、難しそうな数式と図形で埋め尽くされている。
「うん?それはえーっと……『物理学』っちゅう学問の入門書だな。もうあと三、四年勉強を頑張れば、お前さんたちも理解できるようになる」
「じゃあ、これは?」
今度はオリバーが尋ねる。
「それは『生物学』の本じゃな。ちょっとばかし難しい内容だから、かなり勉強しないと理解できんだろう」
何冊か尋ねるうちにわかったのは、老人の部屋にある本は、ほとんどが何かしらの学問に関する本である、ということだった。老人の言の通り、二人に読み解けるような本は殆ど見当たらない。
そんな中、エマが最後に見つけた本は一冊だけ薄く、また大判でそのほかの者とは様子が違っていた。
「ねえおじいさん、これは?」
埃をかぶった表紙を老人に見せると、少し驚いたように目を見開き、「そんなところにあったのか」とつぶやいた。
「それは……そうだな、儂らの起源に関する本……といったところかの。今のお前さんたちでも一応理解はできるだろうが……聞きたいか?」
はじめて見つけた、自分たちでも理解できるであろう本。オリバーとエマは顔を見合わせて、声を合わせて言う。
「「聞きたいです!」」
老人の中で嬉しさと、「教えるべきではない」という理性が混ざり合い、苦笑いする。
「一つ、約束するんだ。今から聞くことは、だれにもしゃべっちゃあいけんぞ。儂とお前さんたちとの秘密だ。いいかの?」
葛藤の中で理性は敗北し、老人は話すことを選択する。
二人がこくりと頷くと、老人は話し始めた。
「二人は、ここがどこだか知っているかの。この廃墟街のことじゃあない。今儂らが立っている地面。これは何だ?EDEN……そうEDENだ。お前さんたちはそう答えるしかない。じゃあ、EDENとは何か。答えは船だ。各トーラスを結ぶ定期便を利用したことはあるかの?あれが途方もなく大きくなったものがこのEDENだ。つまり、我々が立ち生活しているこのEDENは実は移動手段なんじゃよ」
オリバーとエマにとって、EDENはEDENでしかなかった。それが何か、など考えたことが無かった。思考が広がっていく感覚、自らの前に未知が立ちふさがる感覚が芽生える。
「移動手段であるというのなら、そのたびには始まりと終わりがあるはずだ。EDENは我々をどこから連れ出し、どこへ導くのか。その答えは星だ。」
老人の目は少年のように輝き、話は加速する。
「我々はかつて星に立ち、そこに暮らしていた。……うん?ああ、お前さんたちの疑問ももっともだ。お前さんたちにとって星と言えば、橋の下、宇宙の奥に見える火の玉のことだろう。しかし見えていないだけで、宇宙にはそのほかにも星が存在する。そのうち一つに、惑星と呼ばれ、我々がかつて暮らしていたものがある。膨大な土地に大量の資源、そのほかにも今の我々には無いあらゆるものが、惑星での生活にはあったんだ。」
途方もない話、荒唐無稽な話。未知にあふれたそれを受け入れるだけの柔軟さが、十二歳の脳にはあった。二人の意識はEDENを離れ、未知なる宇宙を飛び回る。無数の火の玉の中に浮かぶ資源の塊のイメージは実際の惑星とはかけ離れているが、少年たち大きなインパクトを与えた。
「この本には、そんな惑星での……うん?」
ジリジリというテレ・リングの呼び出し音で話が途切れる。それは、オリバーとエマの迎えが到着した合図だった。
「今連れていきますので。そこで待っとってください。」
受話した老人は最低限だけ伝えて、通話を切る。
「……迎えが来たようじゃの。もう少し話していたかったが……仕方ない。さあ、行こうか」
一気に現実へと引き戻される。もはやそこは想像上の宇宙ではなく、赤みがかったランプが照らす本だらけの部屋に戻っていた。
*****
「くれぐれも、今日話したことは秘密にするんじゃぞ」
車の窓越しに、念を押される。先ほどまで少年のように輝いていた瞳は、大人のそれに代わっていて、真剣に諭していることがうかがえる。
「わかりました。秘密にします」
「ようし、いい子だ」
老人が、二人の頭を撫でてから車を離れる。
「本当に、ありがとうございました」
オリバーの母がそういって、低い駆動音とともに車が動き出す。
それぞれの自宅に着くまでの間、母親たちにこってり絞られるオリバーとエマだったが、二人の耳に叱責の言葉は届かない。
((わくせい?のことを、そこでの生活のことを、もっともっと知りたい!))
宇宙にて 雨乃ミゾレ @amenoyuki
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