ふつうのぶっけん(後日談)

 先日、友人れいなが事件の被害に遭った。

 暴行はされていなくとも、知らない男が家の中に入りこんでいたというのだから、その心的外傷は相当なものである。もし、が同じ立場だったら――

 思わず浴室があるほうへ目をやってしまう。


 事件から二週間弱。

 彼女は警察の事情聴取に行けるくらいには回復したようだが、社会復帰は当分先だろう。見舞いに伺おうとしたが、彼女はまともに話せる状態ではなく、代わりにその彼氏から事情を聞いて現状を把握した。加えて、あちこちで垂れ流されているインフォメーションを元に、今回の事件を整理することにした。


 某日、十七時半過ぎ。

 被疑ひぎ者――四十七歳、住所不定無職の男は、その日も小銭をポケットに突っこんで、牛丼屋へと足を運んでいた。

 その途中、たまたま駅のホームで澪奈れいなを見つけ、たまたま目が合い、たまたま好みの顔だったという理由で、運命的な遭逢そうほうを感じたという。その流れで彼女と同じ電車に乗り、ストーキングした。

 住居を特定したあとは、執拗に彼女の動向を探るようになった。何時に家を出て、どこに出勤して、何時に帰ってきて、誰と住んでいて、何曜日が休みで――

 だが半月が経った夜。とうとう被疑者は渦巻く欲望に呑まれてしまい、マンション住人に紛れてエントランスを突破した。

 リミックスされた鼓動。三階の角には好意を寄せる女の部屋。名前も知らないあの娘は室内でどんな格好をしているか、想像がつかなかった。

 被疑者にとって『澪奈』という人物は、通勤の服装と、街を歩く姿以外に、なんの知識もないのだから、プライベートを妄想するだけで体中の血が沸騰していたのだ。

 もはや、因果は充分だった。

 被疑者は、彼女の部屋に入りたいという利己的な恩愛によって、チャイムもノックもすっ飛ばし、ドアのハンドルに手をかけていた。

 当然、一般家庭なら鍵がかかっているので侵入は叶わない。――のだが、その日はズボラな澪奈が鍵をかけ忘れていたため、玄関のドアはいとも簡単に開いてしまったのだ。興奮が緊張を突き破った瞬間だった。

 彼女の等身を背後からマーキングするだけでも、充分すぎる薫香くんこうを感じていたというのに、女性ホルモンがこびりついたような部屋は、独身男性にとってファンタジーにほかならず、頭をクラクラさせた。

 ありのままの自分に従い、ゆっくりと室内を確認した被害者に流れこんできた情動は、新たな緊張だった。浴室から――かすかな水音が聞こえるではないか。

 玄関が破られた時点で両者を憚るものはなく、本来ならそこで澪奈はゲームオーバーだった。しかし被疑者は、凌辱に至ろうとはしなかった。それは憐憫れんびんや罪悪ではない。犯罪者目線で語るなら、『先見せんけん』である。

 要は、『今すぐ百万円を使うか、百万円を投資して楽しみを増やすか』という問いに対して、後者を選んだのだ。一時の誘惑に打ち勝ち、より自分に利のある選択をしたに過ぎない。

 被疑者はこれ好機と、玄関のシューキャビネットを漁り、無造作にまとめられていた合鍵の一本を丁重に拝借すると、マンションをあとにしたのである。

 その日以降、一方的なルームシェアが始まった。被疑者は、澪奈が出勤している間に部屋へと侵入し、リビングにカメラを設置したり、クローゼットや洗濯機をあさったり、テザリング用のスマホから個人情報を盗んだりとドッタンバッタン。

 いわく『オレの宝島だった』だそうだ。とはいえ、彼女の部屋に通うリスクやエクスタシーが日ごとに薄まっていったのも事実だった。


 事件当日、十四時過ぎ。

 被疑者はこの日もルームのシェアを終え、澪奈が帰宅する前に退散していた。が、盗撮用に使っていたカメラの回収を忘れていたのだ。家に到着する寸前で大事だいじに気づいた被疑者は、急いで彼女が住むマンションへと引き返し、改めて部屋に侵入した。

 十六時前。

 カメラを回収後、映像を軽くチェックし、満足げに玄関のドアに近づいた時である。ドアの向こうから聞こえてきたのは、鍵穴を幾度と回す音だったのだ。

 エンカウント寸前。かたや鍵穴と格闘するアウトサイド、かたやオッサンが冷や汗を流すインサイド。鍵が開いていたのだから、さすがのズボラな澪奈でも困惑を禁じ得なかったのだ。

 被疑者は突然の事態にパニックを起こし、浴室へ逃げると、血まみれの地縛霊になんて目もくれず、風呂場の点検口に鳴りを潜めた。同時に、逃げる機会を失った被疑者は、夜が更けるまで息を潜めようと考えたのだ。


 点検口に身を潜めて一時間が経つと、部屋のチャイムが鳴った。しばらく、玄関で女同士の会話が聞こえていたが、そのやり取りが終わるとすぐ、軽めの足音が浴室に入ってきて、

「ちょっと、あんたのせいで苦情もらったんだけど?」

 文句をつけられたのだ。

「わかったら壁を一回、嫌なら二回叩いて返事して」

 続けざまに、高圧的な言葉が浴室に反響する。

 この時の澪奈が、地縛霊に向かって文句を発しているとも知らず、今までのやましさが被疑者自身を責め立てた。なにか返事をしなくては――錯乱する頭で、被疑者は点検口から天井裏を二回叩いた。

「か、壁を叩けって! 天井裏のネズミかよ!」

 被疑者は純粋に恐怖を覚えていた。警察に突き出されることよりも、澪奈の気迫にである。その反面、心の片隅に浮遊していたのは、『オレのほうが年上だ』という、社会的価値ゼロのプライドだった。

 そんなちっぽけな誇りが、最終的なトリガーになってしまったのだ。捕まる前に恐怖を与えるという、破滅的思考の要因トリガーに。


 とはいえ被疑者は、隠れて他人の私生活を貪る、卑劣な臆病者だ。

 自分よりもうんと年下の女に臆し、なにも言い返せなくなってしまう中年男だ。

 面と向かって襲いかかる肝っ玉なんて、微塵も存在していなかったのだ。

 勘案の末、被疑者はこれまで撮影してきた映像から、選りすぐった一本を動画共有サイトにアップロードし、そのURLをSMSに乗せて澪奈に送りつけた。

 被疑者にとって、それが最大級の爆弾だった。

 ――ほどなくリビングから、酷く動揺した肉声が響き、バタバタと家を出てゆく音が聞こえた。効果はバツグンだったのだ。ギリギリのところで逃走のチャンスが訪れた被疑者は、点検口から浴室に降りようとした。

 ところが、そこでハプニングが起きた。点検口のフタを開けた際、眼前には血まみれの地縛霊がおり、引きずり降ろされるようにして浴室に落っこち、頭を強打したのだ。警察官が部屋を調べた際、被疑者は浴室で気絶していたというので、あながち嘘ではなさそうだが。

 あの血まみれの地縛霊、澪奈に情でも移ったのだろうか?

 その後、被疑者宅からは、澪奈の私生活を盗撮した動画ファイルがいくつも発見された。余罪も追及しているが、その部屋で起きた殺人事件との関与は否定しているらしい。とはいえ澪奈にとって、以前の殺人事件なんて枝葉の話だ。下手をすれば、ふたりめの地縛霊になっていたかもしれないのだから。

 たったひとりの無敵な愚行が、他者の人生を狂わせる。被害を拡散しているのが、歯牙にもかけない他人なのだから余計やるせない。

 あたしも、澪奈とまともに接することができなくなってしまった時点で、少なからず被害者なのだろう。

 こうして、平凡で粗悪で――万人の側に潜んでいる事件が幕を閉じた。


 ――年の瀬。

 日付の感覚がなくなってしまった澪奈にとって、師走の慌ただしさはまるで他人事で、今でも廃人のごとく彼氏の家で暮らしているらしい。それでも、部屋のどこかに誰かが潜んでいるのではないかという疑心暗鬼によって、とてもじゃないがひとりにできる状態ではないようだ。

 近いうちに実家に戻ると聞いたが、あのマインドでは住処がどこであっても、心の傷を癒すのは難しい。


 大掃除の片手間、あたしはサムネイルに釣られ、Webの報道番組のアーカイブをタップした。そこでは【性犯罪専門家】とやらがリモート出演し、彼女の事件について語っていた。

『以前に起きた殺人事件と、今回のストーカー事件とは極めて関連性が低いです。殺人犯は未だに捕まっていませんが、ところどころに虚栄心が見受けられるんですね。要するに、自分が起こした事件の内容も他人に話したがるんです。承認欲求――他者承認が強いので、息を潜めることもなく、今も現場の近くで普段どおりの生活を続けている可能性が非常に高く――』

 専門家とやらは整然としている反面、論拠に乏しく、感情的な意見も多かったのでコメンテータたちに多くを指摘されていた。が、あたしは批判的な出演者やコメント欄よりも、自称専門家はどこか的を射ている気がしてしまった。なぜだろうか、友人に対する情が、そうさせたのだろうか。

 一方、今回の事件についてSNSでは、

『不審者が入りこんでるのになにも言わない地縛霊が悪いだろ』

『これだから霊は・・・』

『ワイ霊と住んでるが意外と住み心地悪くないで?』

『幽霊特権、永住権を認めるなよ。今すぐ成仏させろ』

 非難の矛先が変わり始めているのは一目瞭然だった。

 幽霊を批判する世間の声もまあまあ気持ち悪いが、SNSで無関係の人間に口出ししている連中は、便器の隅に張りついている陰毛くらい気持ち悪い。

 人間の『恐怖』はまるで不思議なものを映し出す、か。

 それを投影する先が、SNSというだけなのだが。

「……とはいえ、どこまで合ってんだか」

 専門家の意見、被疑者の供述、被害者の証言、あたしの想像四割のまとめ。

 それらすべてに信憑性がなく、大半の民衆は『報道どおり』という安易な落としどころを見つけるのだろう。

 ――年越しの前に、野暮ったい想像をするものではない。

 二十三時五十分。あたしは自ら恐怖を生み出してしまい、浴室に移動したあと、一分ほど天井の点検口を見上げていた。

「まさか……ね」

 ありえない。想像が現実を凌駕することなんて、ありえないのだ。これから行う確認は、あたしの妄想が妄想であることを証明するための、儀式なのだ。

 恐る恐る腕を伸ばし、点検口のフタを浮かせると、わずかに横へずらした。闇の中にはうっすらとパイプのようなものが見えており、人が入るには相当きつそうなスペースだった。

 良いほうに思考が向かわず、ただ硬直して浴室の天井を眺めていると、あたしの腕に細長い物体が落ちてきた。

 よくよく見ると、あたしの人生では出逢ったことのない巨大なムカデだった。

 あたしの悲鳴は、除夜の鐘と良い感じにデュエットした。


                                   了

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シン・コワイハナシ 常陸乃ひかる @consan123

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