03 ジこぶっけん(解決)
6
6インチで
「これ……」
男が股間をこすりつけているデスクには、シーサーが
それらの物質が澪奈の脳で処理され、固まった体が震え始めた。が、彼女の心情を弄ぶかのように、男の行動は再生時間とともにエスカレートしてゆく。
金属製タンブラーを左手に取り、飲み口に舌を這わせる。
右手に赤いマウスを握り、幾度と口づけをする。
撮影用のスマートフォンを手にすると、ベッドに飛びこんで布団にくるまる。
フロントカメラに切り替えると、おもむろにフェイスマスクを取って、
やがて、澪奈は感情を表すための導線を見失ってしまった。主演男優が晒した素顔は、澪奈が毎日のように夢で見ていた面長の男――通称『サバ男』だったからだ。
感情の
現実の一片を認知した刹那は、あまりにも気が遠くなりそうだ。
「なっ……?」
断末魔さえ秘めていそうな疑問符は、彼女自身のものとは思えないほど動物的で、細々としていた。澪奈は反射で立ち上がったあと、
あゝ、動画の撮影場所として使われた部屋が今ここに
圧倒的な絶望があるにも関わらず、その心には疑似的に自分を安堵させようとする衝動が膨らんできた。澪奈はいやに落ち着きを取り戻していた。
――取り戻そうとしていたのだ。疑問を呈することで。
まず、動画の人物はどうやってマンション内に潜りこんだのか?
ありえない。この物件はオートロックだ。
『おいズボラ。ほかの住人に紛れて変な奴が入ってくるぞ』
それに、部屋に侵入するには鍵を突破する必要がある。
ディンプルキーはピッキングしにくいし、鍵さえかければ安全なのだ。
『やべ、またやっちゃったか』
そもそも、送られてきた動画がこの部屋であるという証拠がどこにある。
インテリアが類似しており、恐怖によって勘違いしただけだ。
この部屋に誰かが侵入していた物証なんてひとつも――
『隅に牛丼屋のレシート落ちてたよ? 珍しいね、こんなの食べるなんて』
もし、他人がこの部屋に潜んでいたのならば臭いで気づく。
そんな違和感があっただろうか。
『わたし気がつかないうちにババアになってたのか……?』
大体、問題の男の姿がまったく見えない。
潜んでいるのなら、いったいどこに身を隠しているというのか。
クローゼットは開けっ放しだし、トイレは帰宅した際に行った。
あと考えつくのは浴室くらいだが、あんな狭い場所――
『か、壁を叩けって! 天井裏のネズミかよ!』
[いや、だから…実体ない地縛霊が音を発せるわけないでしょ]
心の外に不安要素を放っても、あとからあとから生まれる懸念が膨張し、恐怖心として形成されてしまう。
「あっ……あぁ……!」
胸の痛みを絞り出したあと、澪奈は本能的にスマートフォンを握り、距離感を失った四肢を柱やドアノブにぶつけながら玄関に走った。命の危険を感じていたのだ。
家の鍵を取るのも、靴を履くのも忘れた彼女の行動は、余裕のない心情の表れだった。寄りかかるようにして玄関のドアを開け、秋風で冷やされたコンクリートの感触を足裏で感じながら階段を下り、はっとするとそこはマンションの駐車場だった。
体を縮めるようにへたりこんだ街灯の下、パジャマの中の汗が冷たくなってきた。カーディガンの一枚でも引っかけてくれば良かったか。部屋を飛び出してきたのは良いが、今からなにをすれば良いのだろうか。
見上げた
「ケ、ケーサツ……!」
三階の
12――114――11*――
四度目でようやく通信指令センターにつながる番号をタップし、緑色の音声通話に澪奈の指が伸びた。ほどなく、『事件ですか? 事故ですか?』という、オペレータの冷静な問いが聞こえてくると、
「知らない男が家の中に居る! い、居るかもしれない!」
溜まっていた恐怖を吐き出し、しどろもどろになって現状を説明した。
オペレータからは、すぐにパトカーを向かわせてくれる旨と、それまでどこか安全な場所に避難するよう指示をもらった。が、彼女には立ち上がる気力がなく、通話を終えてすぐ、安全よりも安らぎを求めて恋人に電話をかけていた。
何度目かのコールを経て、聞き慣れた声が耳をまさぐった途端、澪奈は悲鳴のように「助けて、今すぐ来て――」と連呼していた。彼はまだ会社に居たようだが、その尋常ではない様子を抱きとめるように、『すぐに向かう』とだけ告げてきた。
わかっている。
偏った心理的尺度によって、人肌なんて求めている場合ではないのだ。
心理的瑕疵物件から飛び出してきたサバ男に襲われる可能性があるのだから。
それでもこの場から離れる心理的な勇気がなく、硬い地面で途方に暮れた。
7
同じ体勢でどれほどか。
澪奈が無言で震えていると、帰宅したマンションの住人が、その異常さに気づいて声をかけてきた。澪奈にとって、くたびれたスーツを着た見知らぬオジサンに過ぎなかったが、その『実体』に対して、
「家に知らない人が居るかもしれない。さっき警察を呼んで――」
と、テンプレート化されたヘルプを放っていた。
大方、『頑張ってね』なんて軽薄な言葉をもらって終わりだと思った。このご時世、他人の厄介事なんて誰も介入したくないのだから。
けれど、オジサンから返ってきたのは、
「警察が到着するまで付き添おう」
という意外な語りかけだったのだ。同時にオジサンは、二の腕に提げていたコートを、震えている澪奈の肩にかけてくれた。
初めて他人が優しく見えた。オペレータも、性格がまるで異なる恋人も、初対面のマンション住人も、声を交わした全員の言動が温かく感じた。
怨霊が見えないという理由で、万人に理解されずに生きてきた澪奈だった。が、犯罪に直面し、ようやく人間らしく扱ってもらえたのだと、虚しさに似た笑いがこぼれていた。これなら、ずっと被害者で居るほうがラクなのかもしれない。
――コオロギの音がやけにうるさかった。
ほどなく到着した警察官に経緯を説明した上で、例の動画を観てもらい、付き添ってくれていたオジサンにエントランスを開けてもらった。
玄関のドアが閉まってから巡らせる――室内でなにが起きているのだろうか、隅々まで物色されているのだろうかと。
心ここにあらず。パトカーの後部座席で、呼吸さえ忘れてしまいそうな空白を過ごしていた。それから五分ないし十分が経つと、ようやく三階の部屋に動きがあった。
ふたりの警察官が出てきたのだ。紺色の制服とは異なる、よれたシャツを着た男を取り押さえた状態で。
「え、え……?」
やはり居たのだ。
懸念などではなく、自分の部屋には『人間』が潜んでいたのだ。いつ、どこから、どのように入りこんだのか定かではないチャバネゴキブリのごとく。
私生活に紛れこんだ異物を直視した瞬間、澪奈の頭には
それからは怒涛の騒ぎだった。
被疑者は澪奈の目が届かない場所に連れていかれ、応援のパトカーがやってきて、少し遅れて恋人が到着して、その日は彼の家へ向かって、そのままベッドで死人のように動かなくなって――
澪奈は翌日から他人に会えなくなった。
彼女の代わりに、恋人が会社や家族に連絡してくれた。
そのお陰で、彼女の周りは滞りなく日常を過ごしていった。
幽霊なんて怖くない。居てもどうせ見えないから。
――おかしいのはこの世界か?
人間は万物で最も怖い。見えるだけで脅威だから。
――おかしいのは自分なのか?
万人との意見の相違は、今それほど脅威ではなかった。
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