02 じこぶっけン(疑惑)

  4


 外を歩いても、もうキンモクセイの香りは感じられない。

 季節の片隅には、麗らかな気候がぽつんと配置されている。と同時に、澪奈れいなの心身にも小春日和が蔓延していた。そういう時はさっさと早退が吉である。

 仕事をしたくないサボタージュ衝動に駆られた彼女の頭は帰宅でいっぱいで、自宅に着いたらなにをしようか考えるだけで、ニヤニヤが収まらなかった。

 迫真の演技をもって、オフィスからエスケープする理由をこじつけた澪奈は、片道三十分の電車に揺られて自宅に到着した。普段どおり玄関の鍵穴にキーを突っこんで左に回す。

 が、どうも手ごたえが感じられなかった。不思議に思いながら、今度は右に回してみると鍵の閉まる音がした。続けて鍵を開けて、閉めて、開けて――

「やべ、またやっちゃったか」

 朝の記憶はすっかり消失しているが、痴呆のような動作を繰り返した末、澪奈は鍵をかけ忘れたのだと判断した。こないだ友人から、有難くない防犯説法を受けたばかりだというのに、ここまでセキュリティが欠如しているのは、もう生まれつきとしか言いようがない。

 よほど疲れているのだろうか。玄関を開けるなり、普段と異なる匂いを感じた。もし、自らが発する加齢臭だとしたらショックで寝こんでしまいそうだ。

「わたし気がつかないうちにババアになってたのか……?」


 風呂から上がった十七時前。

 澪奈が惰性に任せ、冷えたビールを飲もうかと思った矢先、心臓まで届くようなチャイムが一室の空気を変えた。チルしている時間帯に聞かされるピンポンは、奇襲にも似た恐怖を孕んでいる。

 電子音を聞く限り、エントランスの呼出しではなく、部屋のチャイムが直接押されたようだ。扉を一枚隔てた向こうには今、見知らぬ誰かが立っている。

 エントランスはオートロックなので、や宅配業者ではなく、考えうるのは個々の住人だ。

 恐怖と立腹の狭間でドアスコープを覗くと、魚眼レンズの先には気弱そうな様相の女が、両手を腰の後ろで組みながら立っていた。

 ――悪しきトレンドになりつつある、無敵の人には見えない。澪奈はひとまず安堵し、畳まれたドアガードを立てて、扉を開けた。

「どちらさま?」

「あ、すみません。私この下に住んでる者です……。ちょっと、上からの物音がうるさかっ……くて、できれば、その……もう少し静かにしていただけると……」

 ここに越してきて一ヶ月弱。秋風とともに舞いこんできたのはナチュラルな苦情だった。同時に、近隣住民に挨拶する文化が形骸化けいがいかした現代において、見知らぬ人間の来訪に合点がいった。

 メタ認知が極めて低い現代人のごとく、日々大きな生活音を立ててしまっていたのならば、素直に反省しなくてはいけない。近隣トラブルが原因で殺人事件が起きたとしても、なにひとつ違和感を抱かない時代なのだから。

「わたし、そんなに大きな音を? 自覚なかったか……申し訳ないです」

 澪奈はすっとぼける反応を見せながら、謝罪を口にした。反面、その後ろ手になにを握っているかを警戒しながら、ドアガードは絶対に外そうとしなかった。

「は、はい! いつも、朝の十時くらいから昼過ぎくらいまで……です!」

 下手したてに出た澪奈を見て、下の階の住人は先ほどよりも饒舌になっている印象が見受けられる。言葉で押せば言うことを聞くと思い、態度を変えたのだろう。

 けれど、掌を返すような言動よりも苦情の内容に意識をもっていかれた。

「十時? じゃあウチじゃないですよ。その時間は仕事なんで、誰も居ませんし」

 どこにでも居る独り暮らしのOLが、平日の朝から優雅に騒音を立てている暇なんてないのだ。非課税で資産運用をしながらも、必死に労働しないと、安泰な老後なんて訪れない時代である。

「え? あ……すみません、部屋が違ったのでしょうか……。でも、この隣って空き家ですよね。え、じゃあ誰が物音を……?」

 その女が言うように、隣人は事件が起きてすぐに転居している。そうなると、住人以外のアクション――例えば清掃業者が入ったり、別の者が内見ないけんに訪れたりというパターンが考えつくのだが、それも何日と続くわけではない。

 当然、真下や真横の部屋からも騒音の被害は受ける。そこにバイアスが上乗せされると、『上の住人がうるさい』という結論に至る場合もある。木造や鉄筋を問わず、賃貸におけるフラストレーションは、住人の心に棲んでいるということだ。

「そ、そんな……! ゆ、ゆゆ……幽霊が、音を立てているんでしょうか……。とにかく、あなたの家の地縛霊なんだから注意しといてください! 迷惑なんです!」

 そういった現代人の闇を知ってか知らずか、女は言語化したストレスをぶちまけると、ドアの隙間から消え、階段を下りてゆく大きめの音を廊下に響かせていった。

「わたしのせいにするなよ……」

 もはや、あのような人間は生きているレイヤーが違うのかもしれない。


 納得できないままドアを閉めた澪奈は、その足で浴室へ向かった。

「ちょっと、あんたのせいで苦情もらったんだけど? わたしが居ない間に騒ぐのやめてくんない? わかったら壁を一回、嫌なら二回叩いて返事して」

 そうして口にしたのは、心底バカらしいと思いながらの苦言だった。彼女の余韻が消えて数秒すると、天井からは二回、トントン――とラップ現象が響いてきた。

 澪奈の眉が吊り上がる。

「絶対ナメてるだろこの野郎……。おい、マジで追い出すからな! あと、わたしの夢に出てくるのもやめて! どうせあんたでしょ!」

 言い終わるか、終わらないかで耳に届いたのは、ふたたび澪奈の感情を逆撫でするような二回のラップ現象だった。発信源は当然、浴室の天井である。

「か、壁を叩けって! 天井裏のネズミかよ!」

 感情に任せて意見してみたものの、

「地縛霊って、スマートスピーカーよりめんどくさ……」

 反響する自分の声で急に我に返ってしまった。



  5


 なすりつけられたストレスとともに、途中だった晩酌を胃へ流しこんだ澪奈れいなは、スマートフォンのロックを外し、メッセンジャーアプリを開いた。この気持を友人にぶちまけずには居られなかったのだ。


  れい[なんかうちの霊がうるさくて苦情もろた。ほら男の霊]

  nzm[お前はなにを言ってるんだ?]

  れい[下の階から苦情が来たの]

  れい[わたしが仕事行ってる間、ドッタンバッタンうるさいとか]

  れい[浴室の霊が騒いでるんだろうけど、マジ勘弁]

  nzm[いや、だから…実体ない地縛霊が音を発せるわけないでしょ]


 澪奈はに配慮し、話を合わせたつもりで居た。が、返ってきたのはその意に反した、現実味溢れる意見だった。


  れい[え? 地縛霊ってそういう設定じゃないの?]

  nzm[設定とか草]

  nzm[じゃあ逆に、あんた今までそういう音聞いたことあんの?]

  れい[え…それならわたしが聞いた音ってなんだ]

  nzm[なんか聞こえたわけ? どうせ家鳴りでしょ?]


 のぞみは簡単に返してきたが、さきほど天井から聞こえた音は、家鳴りとは思えないタイミングで、澪奈の質問に返事をしていた。あれを単なる偶然と呼んで良いのだろうか。むしろ故意的だった気がする。


  れい[音の正体って地縛霊かとオモタ 風呂の天井から聞こえたの]

  nzm[天井…?]

  nzm[あと、あんたん家の霊って女だかんね? 野郎じゃないから]


 画面をタップする澪奈の手が止まった。夢に出てきた面長のサバ男が、地縛霊の正体だと思っていたからこそ、合点がいかなくなっていたのだ。

「……どゆこと?」

 ――やり取りの最中、普段は耳にしない着信音が割りこんできた。訝しげに確認したそれはプッシュ通知で、画面上部から引っ張り出すと、【新着のSMS】と表示されていた。差出人は不明で、本文にたったひとつのURLが貼りつけられている以外に文章が見当たらない。

 シンプルかつ奇怪な一通。URLのドメインを見る限り偽装はされておらず、単純に動画サイトへの誘導のようである。フィッシング詐欺ではないと判断した澪奈の人差し指は、吸いこまれるようにURLをタップしていた。不思議なほど自然な動作で、どこまでも警戒心を失っていたのだ。

 一瞬のラグ。ブラウザが起動し、見慣れた動画配信サイトが表示された。

「え、なんの動画……」

 動画の投稿日時はほんの数分前で、そのタイトルは、

【ⁿ⁧⁥【⁒⁄⁊⁼₊₆ₑ⁠₺₹

 稚拙な感性によって選び出したような記号の並びだった。澪奈は恐怖を認めたくない思いから、自動再生された約三分の動画に視線を移した。

 場所は薄暗い一室で、被写体は半裸の男がひとり。素顔は目と口が露出するフェイスマスクに覆われ、陰部は厚手の黒タイツで隠れている。が、机やベッドの角に下腹部をこすりつけ、黙々と腰を振っている様子は容易に確認できた。

「キモっ、なにこれ」

 演者の身形みなりは、冷蔵庫の底にへばりついた謎の粘着物、および掃除し忘れたグリルの油くらい不快だというのに、澪奈は動画を閉じようとはしなかった。

「え、違っ……これ……」

 再生バーが右に進むにつれて、この世の終わりのような映像へ目線が釘づけになる理由を理解していったからだ。

 動画内のインテリアとレイアウト。

 また、コンディションやアトモスフィア。

 夢と現が合致してしまったかのような、いとわしい心地だった。

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