シン・コワイハナシ

常陸乃ひかる

01 じこぶっケん(発覚)

  1


 女がある。

 彼女は、心理的瑕疵かし物件――いわゆる事故物件に住んで一ヶ月弱が経つ。

 近ごろ耳にする、客寄せパンダ並に香ばしい格安賃貸を契約した理由は、決して貯蓄ゼロ世帯だからではない。薦められるまま民間保険に入ってしまう、金融リテラシー低い系女子だからでもない。

 単純に吝嗇家ケチなのだ。

「別に大丈夫だって。スプラッター現場なんて、わたしには関係ないし」

 二十二時半。家鳴やなりがした2DKのリビング。

 女――澪奈れいなは、机の上に投げ出したイヤホンの延長コードが、体勢を変えるたびに太ももにずり落ちてくるので、それを机上へ戻してはまた太ももに落ちてくる――という動作を繰り返していた。

 が、そのうち煩わしくなり、モニタの左右に鎮座する手乗りサイズのシーサーにコードを絡みつけることで、不毛な動作に終止符を打った。

 心なしか、オスのシーサーが憤りを表しているように見える。

「そんなに心配なら実際に泊まりにきなよ。じゃあ金曜ね。はい、おやすみ」

 ひとつのルーティンとして就寝時間がやってきた澪奈は、二歳年上の恋人との雑談を終えると、通話用のソフトウェアを閉じ、パソコンをシャットダウンした。

 赤いマウスから離した手を金属製タンブラーに伸ばし、残った硬水を飲み干したあと背伸びをする。入眠への手がかりとばかりにあくびが誘発され、一日の終わりがやってくるのだ。

「ふぁぁ……なにが幽霊だよ」

 外し忘れたイヤホンを両耳から抜いて、ふと思う。ここの家賃を七万五千円から五万円まで値下げした、価格推移の殺人鬼マジシャンのほうがよっぽど怖いと。

 今夜も自分しか映らない鏡を見ながら歯を磨き、金縛りも起きないベッドに体を横にしているうちに澪奈はまどろんでいった。

 暗闇の中、目の裏に浮かんできたのは、部屋の内見ないけん時の記憶だった。


『――被害者はリビングで脇腹を切られたあと、必死に浴室まで逃げ、鍵をかけて籠城したんです! けれど最期はドアを破壊され、足、腕、腹、顔の順に、百均ひゃっきんの包丁でメッタ刺しにされたんです!』

『いや、それ内見ないけんで説明すんなし。さっきも言いましたけど、わたし見えないんで』

『いえいえ、この物件のセールスポイントですから! わたくし、陣内じんない健二けんじが不動産屋として、お客様に熱意を持ってお伝えしたいんです! ほら、まだ浴室に地縛霊が居るじゃないですか!』

『バカだぁ、この人……』


 不動産屋の営業スキルはともかく、家賃が下がったお陰で経済的余裕が生まれているのは事実だ。殺人犯に対して感謝こそしないものの、恩恵は受けている。

 ――ただ、ひとつ。

 ひとつばかり懸念があるとすれば、ここに越して程なく、見知らぬ男が夢に出てくるようになったことか。そいつは両目が離れた面長おもながで、青魚あおざかなに似た、とんと見覚えのない奴なのだ。人間の『恐怖』は、まるで不思議なものを映し出すが――

 考えうるのは、勤め先のエレベータやカフェテリアですれ違った程度の人間だが、記憶の片隅に残った残像を整理するために、たびたび登場されるのも迷惑な話である。実害どころか、実体がないのだから文句の言いようもないのだが。

 こうして今夜の闇も、澪奈の意識も、あすに向かって徐々に薄れていった。



  2


 金曜。

 秋口の陽が落ち、新たな季節をめくるような風が人々の間を吹きすぎてゆく。

 帰宅した澪奈がキッチンで夕食を作っていると、チャイムが鳴った。インターホンで対応すると、エントランスのカメラには恋人の姿が映し出されていた。

 彼は一般企業に勤める一般男性で、一般的に貯蓄がある部類である。ビビりな性格を除けば、伴侶はんりょ候補としてどこにでも出せる人材だ。

「どーぞ」と一言、オートロックを解除すると、恋人は三階まで上ってきて、澪奈の居城でもある事故物件に初めて足を踏み入れた。

 彼は家に上がるなり、あちこちに目を配り始めた。頭と目の動きが尋常ではなく、なにかを感じている風だった。愉快な動きだったので動向を見守っていると、しばらくして吸い寄せられるように浴室へ足を運び、

「ひぇ……!」

 折戸を開くや否や、咳をするような悲鳴を上げたのだ。

「どしたの?」

 澪奈の細腕にしがみついてきた蒼顔を覗くと、危機を覚えた小動物のように両目を見開いて、一点ばかりを注視している。

「どうしたって……い、居るじゃん! ふ……ふ、風呂に!」

 腕まくりしたワイシャツから伸びる腕には、現代アートのごとく大量の鳥肌を散りばめているのだから、これまた面白い。

 とはいえ、凄惨せいさんな香りが洗い流された浴室では、ハンガーストライキをしている影さえ確認できなかった。浴槽や鏡など、いたって普段のようである。

「居ないってば」

「居るって……! そこに――」

 とはいえ、初めは面白いと思っていた挙動も、それを繰り返されれば嫌気がさしてくる。ここが新居なら尚更だ。

「うるさい。冷水シャワー浴びせるよ?」

 澪奈は普段の優しさをかなぐり捨て、容赦のない言葉を浴びせた。その憂い顔を知ってか知らずか、恋人は「こっち見てるのに……」と絡繰からくり人形のように不甲斐ない口を動かしつつ、恫喝どうかつに観念していた。


「――事件が起きたのって八月くらいだったよね?」

 リビングのソファへ腰を下ろし、夕食後のコーヒーを一口、二口ときっしてから、事件を深掘りし始めたのは恋人のほうだった。わざわざ苦手な話題を広げるあたり、どこまでも人間らしい言動である。

「うん、スプラッター事件簿の犯人はまだ捕まってない。まあ、犯人の名前が報道されるのも時間の問題でしょ」

 対して澪奈はうんざりしながら言った。

「そうかな? もしかして、まだ犯人が近くに潜んでたりしない?」

「暇だなその犯人。遠く逃げろよ」

 対照的なふたりの意見は、たびたび食い違う。一般人の討論によって導き出した、散文詩ポエムさながらの成果アウトカムなんて、しょせん漫言に過ぎないというのに。

「でも安心して。地縛霊が出たら、『棲むなら家賃払え』って説教するから」

「それは霊がかわいそうかと」

 一拍。恋人は笑みを浮かべながら、空になったふたつのマグを持ってキッチンへと歩んでいった。ほどなくリビングに戻ってきた彼の手には、一枚のレシートが握られていた。

「隅に牛丼屋のレシート落ちてたよ? 珍しいね、こんなの食べるなんて」

 それは澪奈にとって、まるで覚えのない紙切れだった。外食なんてここ数ヶ月していないし、ましてや印字された『チーズ牛丼』なんて頼んだことは一度もない。

「わたし外食しないし、スーパーの袋詰めのとこで紛れこんだのかも。それよりPCのホラゲ買ったから一緒にやろ。死んだら交代ね」

 けれど、身に覚えのないレシートや地縛霊に関する推察、憶測、考察なんて与太話よりも、ふたりで笑い合っているほうがよほど有意義だった。

「俺もやんの……?」

「ぬふふ」

「俺は今、れいより澪奈れいなが怖い」

 澪奈は受け取ったレシートをクシャクシャに丸めてゴミ箱に捨てると、嬉々としてパソコンの電源を入れた。

 しかし、不動産屋に続いて恋人まで同じことを言い出すとは。もしそれが本当なら、毎日ダイレクトな覗きの被害に遭っているわけで――

「それはそれで腹立つ」

 言い表しがたい怒りを覚えた澪奈は、ゲーム内で敵として現れるゾンビたちの肉体をスプラッシュしまくった。



  3


 浮世はすっかり赤黄色を着飾った、翌週の土曜。

 事故物件に興味を持った友人からランチの誘いがあり、駅から最寄のカフェで待ち合わせした。名をのぞみと言い、彼女も心霊現象の類を怖がらないマイノリティな女子なので、本日はキャーキャーやりたいわけではなく、

澪奈れいなはもう小金持ち一直線ってことね。あたしも断捨離だんしゃりして、家賃が安い事故物件に引っ越して、固定費下げて、インデックス投資でコツコツ増やして、まあまあな男と付き合いたい」

 こうして生々しい話題をお茶の子にし、カフェインを楽しむのが目的だった。

「欲の塊か。五個いっぺんに言うな」

「賢い選択肢と言うべきね。で、実際どうなのよ新居は?」

「エントランスがオートロックだから、安心してたまに家の鍵かけ忘れる」

「おいズボラ。ほかの住人に紛れて変な奴が入ってくるぞ」

「あ、そうだ。その、まあまあな彼氏も不動産屋も変なこと言うんだよ」

 ふと一息。澪奈はガラスの向こうに、気だるそうな鋭い目つきを向けた。数秒して、通行人を睨みかけたところで目線をのぞみへ戻し、

「――浴室に、んだとさ」

 ありのままを言いきった。

 ほどなくのぞみも同じように外へ目を向けたあと、すぐに右手のネイルに目を落とすと、親指の腹に人差し指のツメをこすりつけ始めた。

「あぁほら、あんたが驚くトコ見たかっただけじゃん?」

 本来であれば肉声のひとつでも上げる場面で、この反応はあまりにも女子力が低い。男が寄りつかない要因を本人は気づいていないようだ。

「反応薄っ……。もうちょっと驚けよ」

「鍵かけ忘れる危機管理能力の低さには驚いたっつーの」

 のぞみの主張は一理あるが、彼らのトーンはいたって真面目で、お道化どけている感じはなかった。続けてのぞみは、「うーん」と歯切れの悪い返事をすると、カフェラテが入ったマグをテーブルに置いた。

「そんじゃ、あんたんに行って確かめたげる。あわよくば悪霊退散するから」

 そうしてドヤ顔を作り、ゴーストスイーパーりに胸を張る姿は、中学時代から変わらず頼もしい。彼女にかかれば、

『霊だと証明できるデータあるんですか? YesかNoで答えてください』

 とか、

『霊っておっしゃいますけど、それ明らかにあなたの感想ですよね?』

 とか、死人の存在証明を理詰めし、ほとほと嫌になった地縛霊が成仏してゆく様が容易に想像できる。彼女なら幽霊論破王になれるだろう。

 なにより、のぞみを新居に招く良い機会でもあった。


「おじゃまー」

 ベージュのパンプスを脱ぐなり、のぞみは室内をしきりに見回し始めた。この家を訪れる者は皆、行動原理が似ている。澪奈はシューキャビネットと併設されたチェストに家の鍵を置き、そのあとをついてゆく。

「風呂って言った? どれどれ、見てやるわよ」

 玄関のすぐ右にトイレがあり、同じ廊下に浴室がある。友人は先頭に立ち、意気軒昂と折戸おりどを開けた。その途端、一歩後退して「げっ……」と低い肉声を上げたのだ。

「ちょっと……本当に居るじゃん。うわぁ……マジか」

 友人は距離感も忘れ、背中から澪奈にぶつかってきた。それほどの戸惑いを目の当たりにするのは、はすコラを初めて見た十六歳の夏以来か。いや、受験票を家に忘れた十八歳の冬以来だったか。

 どちらにせよ、不動産屋、恋人、友人と、つながりがなさすぎる人物が同様のリアクション芸を見せるのだから、あまりにも不自然な光景だった。

「あ、あんた誰? 友達ん家に棲みつかないでくれる? はい? いや、あたしは遊びに来たんだっつーの。あんたこそ、なんの権限があってそこに居んの?」

 友人はわずかに怯みながらも、負けん気の強さを発揮し、誰も居ない浴室に文句をぶちまけ始めた。

「いや、それは無理。澪奈は見えないもん、昔から。あぁ、それで機嫌が悪いの。うん、この子は悪くないから目くじら立てないで。いや、こちらこそゴメンね、あたしも言いすぎた。え? いや、澪奈れいなは漢字で霊奈れいなじゃないから。ははっ、確かに」

 迷信を受けつけない友人と、なにもない浴室との対話。その異質すぎる光景は、討論、和解、終戦へとどんどん進んでゆき、最終的には澪奈の名前をイジり始めているではないか。

「あの……ちょっと、のぞみちゃん?」

 澪奈の心は疑念と憤怒に、ちょっとばかりの悲哀がアイシングされ、口を挟まずにはいられなかった。熱に浮かされたようなのぞみは、やりきった様子で小さく呼気を整えている。横からその顔を覗きこむと、彼女は一瞬ばかり顔を逸らしてうつむいた。が、一息ついてから向き直り、

「……実はあたしも、例に漏れず怨霊系が見える体質なのよ」

 どこか観念に似た低い声を漏らしながら、顔を上げた。

「じゃあ中学の頃からずっと見えてたの? なんで見えないフリを?」

「浮世では、誰もが霊を目視できるでしょ? そんなマジョリティな自分が嫌で、マジで見えない人にずっと憧れてた。そんな時、あんたに出会ったの」

「単純に羨ましかった……? それでわたしに話しかけたの?」

「そりゃ正反対のあんたが羨ましかったのもある。でも、なによりハブられてる澪奈を見てらんなかった。だから、あたしもとして生きようと思ったの」

 友人としての言葉を耳にし、いつだって少数派だった過去が蘇ってきて、今度は澪奈がうつむいてしまった。

 技術室で首を吊った男子中学生とか、屋上から毎日十三時きっかりに飛び降りる律義な女子高生とか、澪奈には怨霊の類が今まで一度も見えたことがなかった。

 現在勤めている会社では、カフェテリアの隅に座り続ける永遠の新人OLがホットな怨霊なので、それとなく話を合わせているが。


 ――おかしいのはこの世界か?


 学生時代、怨霊を見たクラスメイトが一目散に逃げてゆく場面を、幾度と経験してきた。澪奈は事態を把握できず、形而上けいじじょう的存在と相席を繰り返すうちに、

『どうせ見えないし、どうせ害もない』

 と、悟りに似たアイデンティティを強引にインストールして、精神に平穏を与えるようになった。親兄弟からは、『見えないお前がおかしい』と罵られ、生徒や教師からは異端児として忌避されるようになっていった。


 ――おかしいのは自分なのか?


 次第に皆と違うことに不安を覚え、『見えないほうがおかしい』と、自己否定にも似た懸念を覚え始めていたのだ。

「えと……ありがと、本当のこと言ってくれて。それに、こんなわたしに……」

 けれど、澪奈が前向きに生きられたのは、のぞみの存在が大きかった。羨みだろうと、あわれみだろうと、学生時代から付き合ってくれたのは紛れもない事実である。

 過去を巡らせているうちに、澪奈の口からは無意識にお礼がこぼれていた。

「いや別に、友人の家に棲みついてる奴を見たら黙ってらんなかっただけよ」

 受け手は少しはにかみながらも、澪奈と似た表情をしていた。両者、互いの顔を見ない。本心を語るのが苦手で、照れ隠しが下手なところもどこか似ていた。

「マジでのぞみちゃんには感謝だな。うちの地縛霊とも話つけてくれて――」

「え? 話なんてついてないわよ。上から下まで血まみれで、まだここに居る」

「いや、居んのかよ! なんか霊と和解して、成仏した感じだったじゃん!」

「てか、どうせ見えないんでしょ? あんたのビビりな彼氏が、恐怖でたなくなっちゃうんじゃ困りモンだけどさ」

「いや、それは大丈夫だけど……」

「じゃあ、澪奈は実害ゼロね。まあ気にしない気にしない、よしホラゲやろ」

 口下手なふたりが過去を語り合って、良い話で終わるのかと思えば、ごく自然に下ネタを挟まれ、パソコンデスクを奪われてしまった。

「ったく……」

 が、澪奈の日常から考えれば、この結果は現状維持にほかならない。霊が居ても居なくても、生活はなにも変わらないのだから、実害ゼロは正しい表現だった。


 のぞみが帰宅する頃にはもう、町に人工的な明かりが灯っていた。

 ラップ現象のひとつも起こらないリビングで、澪奈は本日の会話を思い起こした。

 仮に、澪奈以外の人間が霊を目視できているとしよう。であれば、なぜ現世の人間は、事件の真相を怨霊から――要は、被害者から聴取しようとしないのだろうか。それさえ徹底できれば、浮世には未解決事件なんて存在していないはずだし、なにより殺人の抑止にもつながる。

 もしそこで、

『人間から霊に対して事情を聞くことはできない』

 なんて設定が加えられてしまえば、ご都合主義にもほどがある。未練を残して世にとどまり、自分の言いたいことだけをぶちまける怨霊なんて、人々に唾棄されるだけの存在でしかないだろうに。

 はたまた事情を聞けたとしても、

『死人に口なし。実体のない者の証言は信用に値しない』

 と、法律的な問題も突破できなさそうだ。反面、霊の意見を認めない時点で、それはもう霊の存在を否定しているのと同義だ。

 であれば簡単な話だ。霊なんて陳腐な存在は、数百年も前から心霊ビジネスをしている一部の拝金主義者によって、『概念』として世に広まったに過ぎない。それが怨霊の正体なのだ。

「アホくさ。わたしだけ見えないなら役得じゃん。無駄に怯える必要もないし」


 その日の夜も、面長のサバが夢と現の合間で姿を見せ、頭部に染みついた加齢臭をベッドの周りに振りまいていた。五感をフルに活用しているような、やけに現実味のある世界だった。

 寝る前にある事柄を強く念じると、それが夢として現れてしまう。つまり、こいつが霊の正体なのかもしれない。

 できれば浴室で大人しくしていてほしいのだが――澪奈の聴覚は、ミュートをオンにした時のように急激に音を失い、次第に意識がフェードアウトしていった。

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