第2話

 レイカと名乗った少女は話し疲れたように、ふわりと椅子へ再び腰掛け、まるで古いオルゴールのように、再び本の山に囲まれて、金で彩られたページをか細い指でなぞる。どれも様になっており、全てがある場所にある。

 だが、その場所がここでなければならないの不思議に目を背けることもまた、不可能だ。

「つまり、この本は売り物じゃないってことだよね?」

 何を読んでいるのか、こちらには視線をあげず首を縦に軽く振るのみ。

「どうやってこの本をここに?」

 今度はちらり。なにいってんだこいつ。年下の女の子にそんな目を向けられるのがどれだけ辛い事なのか、僕はしかと心に刻み込まずにはいられなかった。

「ずっとここに」

 それはおかしい。いや、おかしいのは厳密に言えばだけではないが、それにしても、期間限定で開かれるイベント会場で、知らないが、きっと明後日には別の催し物がなされているんじゃないかな。もし仮に空きがあったとして、それが彼女の居住を許可する、いや、稀覯本を置いておくスペースとして貸されているとは考え難い。こちらの方こそ、なにいってんだこいつと声に出したいくらいだ。

「本は今までもこれからも、誰から貰ったものなんです」

「ええっと、それは貰い物ってことなのか…………」

 それとも哲学的な話だろうか。ショーペンハウアーも似たようなことを言っていた気もするが。

「モーセは神の言葉を言い伝えたんじゃないんです、本として受け取ったんです」

 そこらの女の子が相手だったらきっともう少し気楽に話せたのだろうけど、彼女の独特な雰囲気が茶化したり、ましてや生半可な返事をさせない。

「本はいつだってわたしのそばを離れません」

「お天道様がいつも見てる、みたいな感じ、かな」

 さりとて僕の返事が意識していい加減じゃないだけで、無意識にバカを晒しているとも限らない。まさに沈黙は金である。

 ちなみに、返事といえば、彼女はおよそ返事らしい返事をほとんど返すことは無かった。一応、文脈上の繋がりは担保されている気がするものの、それが独り事、否、自身との対話であると誰か保護者のようなヤツから説明されれば納得するレベルの会話だったから。

「お兄さんは、何が一番哀しいですか」

「唐突だなぁ」

「わたしは選択肢がひとつ無くなることです」

「選択肢?」

「いろんな本を読んでいると思うんです、世界は分岐の上にあるって。だから、その選択肢が失われるのは、一番切ない世界の側からの選択なんじゃないかって」

「考えた事もなかったよ」

 彼女のような子が実在したなんて。自分もそれなりに幼い頃から考えるのは好きな方だった。大人を見下すまではいかなかったと信じたいが、彼女の場合、大人と子どもの境界線もなさそうだ。それを超越的、といえばなかなか彼女の特異性も表せているように思う。だが、常人は狂人の存在によってはじめて確定されるように、彼女の存在は、ここにいる誰よりも読書の虜であり、いたいけな鋭さを隠すことも無い。


「ダメ!!」


 銃弾のような彼女の言葉は、会場に響き渡りはしなかったものの、少なくとも僕の動きは神経反射により棄却された。なんとなしに一番近くにあった本に手をのばしたことが、はじめて彼女を人間らしくさせたのだ。いや、生きていることが実感されはしたが、むしろ圧倒的なテリトリー意識の現れはもはや小動物に近いといえる。

「ご、ごめん!」

「はぁ、はぁ」

 もともと声が大きくない彼女にとって、一言とはいえ、その小さな肩を幾分か上下させるほどには興奮し、そして疲れもあるのだろう。そういうところも本能的で、ややもすると気味悪い印象を覚えてしまいかねない。

「それは、わたしの」

「勝手なことしてごめんね」

「わたしの全てだから」

「すべて?」

「はい………本以外に、何も無い、から」

 先ほどから結局聞けず仕舞いだったが、今こそ核心に触れる時なんじゃないか?

「その…………レイカちゃんには、本以外に選択肢が無いってこと、なのかな」

 まどろっこしい口調になってしまったが、その意味をのみ込んだ時、彼女は眼を見開き、そして俯いてしまった。

 彼女は

「僕が触るのも嫌なほどに君は本を大切にしている。けれど、それは貰ったものだと言ったよね」

 こんなこと言うべきじゃない。

「世界の一番切ない選択は、選択肢を失うことって言ったよね」

 間違っているのは僕の方だ。精神科医でも解剖医でもない、ましてや友人ですらないただの大学生に、どうして彼女の歯車が狂っている、あるいはボタンを掛け違えているなどと指摘することができるんだ。そんなこと誰も望んでいない。言っている僕自身でさえも。

「レイカちゃんは、本当は」

「お兄さんだって」

 下を向いたままだが、ページをめくる気配は既にもう無かった。綺麗な瞳が何を訴え、そしてどんな表情をしているのか、僕には知るよしも無かったが、少なくとも声はさっきみたく荒げてはいない。

「僕はここに中古本を探しに来た。レイカちゃんは?」

「わたしは…………」

 確かに彼女の言う通り、本を読むという行為はなるほど自身で考える種を得る最良の選択だが、所詮先人の受け売りに過ぎないともいえる。ましてや中古本の多くは、英知へ抱かれる理念とは異なって、事実、自然淘汰された内容。

 芭蕉の句をもじるならば“数寄者すきものどもが夢の跡”といったところ。僕も含め、古本に接するのは単なる数寄。古本屋の店主という言葉から連想されてきた人物像も大抵そんなところ。

 彼女だけが、数寄ではなしに、姫だった。本の城に囲まれた知愛ずる姫君。

 そして同時に、牢獄の中のお人形、それがレイカという少女の実態なんだろう。

 彼女があくまでも姫だったならば、僕は同じく読書好きの王子様になれたかもしれない。だけど、僕こそ、脱獄をそそのかす悪魔の手先、理性の大敵なんだ。

 だからもう、彼女のその言葉を聞いた時、躊躇はしなかった。

「ずっとここに置いておきます」

 読書家のほんの一部とはいえ、全国から大勢集まったこの日この会場で、いったい誰が想像しただろう。

 飲みかけのペットボトルをとりだし、僕は本を濡らしまくった。中身はそんなに無かったが、それでも、彼女が抜け出すくらいの脆さは作れただろう。



「もしかして、まだお兄さんは自分を読書家だと思ってます?」

 僕の肩越しに彼女はモニターを見て、そう尋ねた。もちろんだとも。

「結局さ、あの本はどうやって担ぎ込んだの」

 僕は古本屋でもコレクターでもない。だから僕らが、まぁ実行犯は僕だが、台無しにした稀覯本のいわゆる被害総額というものは結局知らないまま。もしこれをして、悪行だと告訴されれば、僕は言い逃れができない。けれどもそのつもりもない。

 彼女はお返しにといって、あの後、僕の自宅に上がり込み、全ての本を風呂場へ持っていった。大学生の一人暮らしアパートの風呂場なんて、いつも狭さを感じていたが、彼女が僕の蔵書をびちゃびちゃに、それこそ僕以上に水浸しにしたときは、ちょうどいいサイズに思えた。

 僕らはきっと間違っている。むしろもっと本を読むべきだろう。

 だから手始めに、僕はその日のことを書き起こしている。

 僕らがあくまでも読書家なのは、本当にたった一つの物語に接しているからだ。

 僕と彼女の、たった二人だけの物語。ゲリラ豪雨であっても、この稀覯本は失われない。拙いからこそ、かえって構成なんか気にせずに済む。

 僕とレイカ、作者と読者、青年と少女、二人の読書家。


「共犯ですよ」

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稀覯本の君、古書に埋もれる僕。 綾波 宗水 @Ayanami4869

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