稀覯本の君、古書に埋もれる僕。

綾波 宗水

第1話

 僕は日本最大級の古本市へやってきた。その僕はと言えば、きっとこの場に群体しているかのように、同じく読書家で愛書家で、比較されれば名乗れなくなるだろうけど、ある程度は蔵書家だと思っている。だからこそ、認知しているにもかかわらず、今までこの期間限定古本市場、通称『夏フル』へ買い手として参加したことがないのはいささか自分でも不思議である。これまで来なかった理由はあまり思い当たらない。だからきっと他に用事や彼女がいたというわけではなくて、単純に資金繰りなど、きわめて単純な、記憶にも残らないような些細な理由なのだろう。

 ところで、愛書家だと公言したとして、では次に、僕がいわゆるビブリオマニア、ビブリオフィリアの類かと誰彼に問われたとすれば、すかさず僕は否定する。否、我は書物のみに愛を注いでいるのではなしに、読書という行為に根ざしているからこそ、たとえ稀覯本きこうぼんと呼ばれるマニアの間、もしくは歴史・書誌学的に希少価値のある書籍であったとしても、ただちに欲しいとは思わないはず。一介の大学二回生には、そもそもそのような真価が問われるような場面を体験したことはないのだけれど。その上、繰り返すようにこの『夏季大古本まつり』、略称夏フル自体未経験なのだし、人生経験と同じく、読書家としても半人前であるということか。


 ところで、他人に文化資産たる蔵書の一部を売るというのは一体どんな気持ちなのだろう。いや、さすがに愛書家ぶっていてあざとかったか。事実、僕だって古本屋にお世話になったこともある。

 つまり、僕が言いたいのは、誰に買われるかは分からない、通常ルートと違って、古本屋ないしは個人で出店している人と僕ら買い手は対峙し、手渡しされる。交換というのは昔からむず痒いものだった。相手のモノが欲しい一方で、手渡すのも惜しい。けれど、こんないいモノをむしろ渡してあげたい気もしなくはない。子ども心に悩んだ交換条件は、なるほど社会人による社会通念の社会利益のためのビジネスとは全く異なる“大人の世界”のものだろうけれども、趣味の世界の古本売買は、幾分か童心をくすぐる作用もある気がしてくる。

 僕はもう、新作ゲームを誕生日プレゼントに親から買ってもらう子どもではないし、精神心理的にも若干の違いがあるけれど、それは目的意識に則った今も誰でもする普通の欲求と行動で、むしろ現状を表すなら、何が欲しいかも分かっていなかった遥か昔の、冒険や宝探しごっこに近い。


 宝探し。これはよく言われる比喩ゆえにもはや陳腐な修辞かもしれない。けれども、多くの古書店がたちならぶその場は本しかないからこそ、どんな本があるか分からないという期待感を煽ってくるのだった。

 外会場と屋内会場の二つがあり、基本的に外の方が本の値段が安いようだ。これは古書店側の事情というより、日焼けしてはいけないような高価な書籍が屋内を占めているかららしい。それなりに多めには予算設定しているが、大学生の『多め』など、その道の人からすれば少し良さげな昼食代程度だろう。

 買う本、すなわち読む本は分不相応を心がけるべきだ。

 背伸びすることは悪くないが、過度にレベルの異なった書籍を集めるのはナルシシズムに基づいていると思われても仕方がないだろう。

 しかしだ、このイベント、入場料は不要。万引き対策はどうしてるのか知らないが、来場者の行き来がランダムで、ともかく冷やかしというものが非常に成立しずらい状況にある。

 だからこそ、後学のためにも、僕は意を決して読書家の階段を登る。


 扉も窓も開け放たれているため、冷房も効いていないものの、業務用扇風機のおかげか、古書の香りも立ち込めていないので、やはり屋外よりは環境として良さげだ。

 なるほど、客層も心なしか変わっているように思われる。これが冬なら、コートなどの素材でより明らかだったかもしれないが、老若男女問わず薄着なので、そこまで服装からブルジョワジーだと断定することはできない。

 だが、手荷物が少ないようにも思われる。おそらく彼らは僕みたいに大きなトートバッグに詰め込むのではなしに、後日郵送の手続きをしているのだろう。

 なお、リュックにしなかったのは案外、正解だったようだ。各本棚の隙間は狭く、リュックだと塞いでしまい、ゆっくり見るにも気が遣って仕方がなかっただろう。

 もちろん、塞ぐことで得られるものも無いわけではないが。


 日差しから逃れられたことによって、今度は水分が欲しくなってきた。向こうの方にお手洗い&休憩スペースがあるようなので、そこまで左見右見して行く。洋書に和書、金で細工されている本などなど。

 均一料金じゃないため、値札はそれぞれに紙が挟まれているようだ。そのため、結局、文字通り手が出せないままにさっさと到着してしまった。外に近いからだろう、再び蝉の鳴き声と車の通る音が、会場での話し声をかき消しだす。

 財布に残る数百円の差が、今後の古本購入を左右するかもしれない。そんなことを感じつつも、倒れてしまっては元も子もないので、大人しくペットボトルの水を買う。ここでジュースなどにしなかったのは、そうは言いつつもお金を出し渋ったがためであるのは恥ずかしながら事実。

 ペットボトルではあるが、もし肩でもぶつかって、本にこぼしたりでもしたら、それはもう大変な事態である。うだうだと述べたがりな僕だが、この想像ないしは危険予測についてはこれ以上、考えたくもない。

 休憩ついでに再びあちらこちらを見渡してみると、入ったときには気が付かなかったが、まだ別の販売スペースがありそうだ。屋内会場は、左端から入って、一周して右側から出るというのが一応の順路らしい。もちろん、それを守るきまりはないが、あまりウロウロしていてはかえって目立つのが、外との違いのもう一つの特徴なのだ。

 休憩スペースは入口から真っすぐ進み、行き当たりを左折した小さな一角。そして、もう一つのスペースとは、そこから真っすぐ順路に出て、その奥にある階段の先、二階のこと。言わばここは体育館のような作りになっているため、わずかだが二階も存在しているようだ。下からは対角線上とは言え、あまり見えないし、人もそういないようだ。実際、水を飲んでいるこの数分の間に、上にいたのはひとりの少女だけ。

 大学生でも浮くのに、少女となると店主の付き添いか何かかと思われるが、別にきょろきょろとしている訳でもなく、ゆったりと歩いているようだった。

 今いる一階が比較的お年を召した方の割合が高かったせいだろうか、無性に僕は彼女の求めている本が知りたくなってしまった。

 畳んだハンカチを広げてペットボトルを包み、本が濡れないようにバッグにしまうと、僕は再び縫うようにして人の間を進み、時折、高価な本をチラ見しつつも、階段へとわたった。途端に人気はなくなり、雑居ビルのような薄暗い階段をのぼる。何だかんだで、既に僕の足腰は疲労を蓄積しているのが今更ながら分かった。なるほど、それ故に誰もよりついていないのかしら。


 今思えば、この時、僕が平静であったのかどうか、いささか怪しい。

 初参加のすえに数冊の良書を手に入れ、水分補給と数分の休憩、そして読書家だけの世界というアットホームさが、僕を気が付けば大胆にしていたとしても否定はできない。


 17段の階段をのぼりきった先には、本の山が築かれていた。下からはその影さえも見えなかったが、先ほどまで目を保養していたどれにも増して高価であり、そして年代物であることが窺えた。

 その真ん中に彼女はいた。地層が崩壊せずに保たれているのは、本がどれも分厚いからではなく、そこに彼女がいるから、そんな風に思える光景に、僕は今日初めて会話をしようとしていた。

「君も、本が好きなの」

 カラーコンタクトかもしくは義眼ではないかと疑いたくなるほどに煌めく大きな瞳の少女は、やはり独りらしい。

「…………」

 窓が開け放たれているせいで、彼女の小声は届かなかった。椅子から彼女が立ち上がると、背の高低差がより明らかになる。おそらく女子中学生くらいか。

 僕がまじまじと見ているのを、彼女は聞こえなかったと解釈してくれたようだ。確かに、先ほどの僕みたく、もし高価な本に手が出せず、天を仰いでいる者がこの会場にまだ居たとして、今の光景が見られでもしたら、一体、どんな下世話な想像をされ、瞬く間に会場を騒然とさせるか知れたものじゃない。

「本しか好きじゃない、です」

 内容に対して無表情だった、その声色さえも。まるで僕も含めてここに居る皆にとって当然のことのように。彼女はこちらをうかがっていた。

「これって」

 近くでみると、素人目にもわかる。これは貴重なものだと。

 古さは勿論、保存状態がいい。大切に読まれ、今でこそ、無造作に積まれているが、しかしそこに他意はない。乱雑さも傍若無人さもない。書架に慇懃に並べられているよりもむしろよっぽど自然体に思える。

「私の本」

「君の……!?」

 しかし実際、そこまで驚きはしなかった。本棚をみればその人が分かるというが、この場はまさに彼女のひとつの城のようだったからだ。おかしな話ではあるが、不可解な出来事ではない。きっとこんな風に思うのも、今日という日が普段以上に、古今東西の書籍と触れあっているからに違いない。

「ここにある本はすべて、いまでは稀覯きこう本と呼ばれる。人々の手元から失われて、もう読む人がいなくなってしまった本。この本たちは、今、世界中でもしかするとわたしだけが読んでいるのかも」

 稀覯本、すなわち希少本、または珍本。彼女のいうことは乙女チックのようでもあり、その実、ニヒリスティックにも感じられた。

「そう思いませんか」

 彼女は同意を求めているんじゃない。この下にいる人々との違いを探っているんだ。

 試されていると言ってもいいだろう。

「君はそれを売って、より多くに人に届けようとしているの?」

 そして僕は赤点をとってしまった。フラットに彼女は、違います、と答えた。

「わたしは、売りません」

 そもそも、どうして彼女がこれだけの蔵書を持っているのか、そこを冷静な思考を有しているならば問うべきだったのだ。

「わたしは、ただ本が好きなだけです」

 背中に汗が流れる感覚がした。今も下は賑わっているようだ。

 そういえば彼女の出で立ちはヴィクトリア朝英国における喪服を彷彿とさせる黒衣であった。しかし、汗一つみせず、むしろ涼し気でさえいる。

 女の子の服装の知識はきわめて疎いため、正確に描写することはできかねるが、半袖で、ドレス…………ではなくてワンピースかな。もしかするとシャツとスカートのセットアップかもしれない。ともかくこれで白系統だったら清楚なお嬢様風と言ってしまえるのだけれども、ゴスロリ調なので、場所が違えば、ここは撮影スタジオブースですかと尋ねてしまいかねない。

 腰まで髪を伸ばす社会人は昨今ではそうそう見かけない気がする。その意味で、やはり服装だけに頼らない少女性の存在が否めない。

 黒髪、黒衣、黒めの輝き。


「君は…………」

 もっといろんなことを聞きたかったが、彼女はいたいけな素直さでもって僕の言葉を待たずに返事をした。

「レイカといいます」

 ぺこりをおじぎをする彼女に、不甲斐ないが、僕は圧倒されていた。好奇心は猫をも殺すというが、黒猫のような少女に出逢ってしまったことに、僕は名状しがたい感覚を抱かずにはいられなかった。単なる不安でもなければ、百年の知己にあった感慨でもなく、ましてやこれが恋なのかとひとりどよめく事もなく。

 ただただ、レイカの特異な言動とその出で立ちにたじろいでしまっているのだった。まっすぐこちらへ向けられる黒い眼差しに。

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