たった一度だけの魔球

 そこへ行っても決して治ることはないとわかっていながら、僕はまた向井むかい先生の病院を訪れ、診察を受けた。


「ケムマキ! 有名な整骨院に通ってるって? 薬は飲んでる?」

「いいかげん藤巻ふじまきって読んでくださいよ。その呼び方、やめてほしいです。……薬は飲んでます。なにも変わりませんが」

「あぁ……」向井先生は腕を突きあげ、椅子の背をきしませて伸びをした。僕の診察は終了したのだ。「ケムマキ君、シュークリーム好き? 看護師の岡松さんが買ってきてくれたのよ」

「え? それは……ほかの患者さんが──」

 待合室に出ると、たくさんいたはずの患者さんたちは一人もいなくなっていて、看護師さんが入口のガラス戸に薄手のカーテンを引いているところだった。

「もうお昼だったんですね」

「あなた結構ギリギリに来るんだもん」向井先生も診察室から出てきた。

「すみません……」

 看護師さんが僕に箱を突きだし、シュークリームを勧めてくれた。向井先生は自分のカップにコーヒーを注ぎ、鼻歌とともに蟹のように横移動してくる。


「みーどりーの中を走り抜けてく、まっかな緑!」

「なんちゅう歌詞なんですか」と僕はすかさずつっこむ。「山口百恵、好きなんですか? 前にもなんか、歌ってましたよね?」

 受付カウンターの前に立って、こちらに背を向けている先生を僕は見る。白衣を着ているところはほとんど見たことがない。なので、どんな格好をしていてもいつもさらされているような気がする先生のすらりとした肢体を、僕はついつい眺めてしまう。治らない右腕は無様ぶざまだけれど、この整形外科をたまたま選んだ幸運には感謝している。

 それがきゅっと曲がって、こちらを向いた。

「山口百恵は知ってるんだ。忍者ハットリくんは知らないのに」

「ハットリくんについてはこの前調べました。なおさらケムマキ君はやめてもらいたいと思うようになりました」

「なんでよ、ケムマキ、かわいいじゃないのよ」

「僕は好きじゃなかったです。しかも敵役だし」

 看護師さんたちは皆、ランチバッグや小ぶりの湯呑みを手に、給湯室や休憩室に消えていく。先生はまた昼食をコーヒーとお菓子で済ませる気なのか。いいのかな、そんな不健康で。

「この美人女医の腕にかかっても治らないってことは、もう治らないのかもね」我慢できずに半分以上にやけてしまっている憂い顔を僕に見せる。

「治りませんよ」と僕はシュークリームを頬張りながら言う。「これは呪いなんですから。でも、じくじくうずくのがたまらないんで、痛みが少しでも収まってくれたらと思って、それで通ってるんです」

「呪いって」向井先生は前髪を払って、今度は本当に困ったような顔をした。「野球の試合に勝つために〈おまじない〉をしただけなんでしょ?」

「違いますよ。おまじないなんかじゃ──」


 そんなことを信じて、やっぱり中学生なんだなとバカにされたとしても構わなかった。僕だって、自分のくだらないヒーロー願望が見せた悪夢だと最初は思っていた。現実に、こんな厄介な痛みをもたらすものだなんて。

 先生と二人きりでゆっくり話せることは滅多にないだろうと思ったので、僕は「野球の森」のことを話してしまうことにした。そう遠くない距離で看護師さんたちのおしゃべりが聞こえていたけれど、それは好都合で、こちらはこちらで世間話をすればいい。

「誰かが土に埋めたボールから木が生えて、何百年かかって森になったんです。それが『野球の森』。そこの奥深いところに祠があって、誰も知らない魔球の投げ方が書かれた巻き物があるんですよ」

 陳腐なRPGの筋書きみたいだよな。立ったままの向井先生が笑っていないことを確認すると、続けた。「その魔球を投げると、その試合に絶対勝利できると言われているんです。でも、たった一度しか使えない。だから僕も、ここぞというときに使おうって思っていました。僕が高校に入って、大事な大会とか、甲子園にもし出場できたら、そういう試合で使おうって思ってました」

「それを使っちゃったんだ。中学の、なんでもない試合で」

 なんでもない、というわけでもなかった。でもそれは先生にも話さない。誘惑にあらがえなかったってことは、そういう弱さは、先生くらいの大人なら全部を言わずとも想像できるはずだ。ここまで話しても、腕より本当に疼いている場所に迫るような話はしたくはなかった。結局あの試合に勝っても、上野うえのさんは僕に振り向いてくれたわけでもなかったし、僕はこの腕を抱えて野球を辞めなければならなくなった。魔法は呪いだった。まだ十四歳のガキだから仕方ないのかもしれないけれど、誰かに教えてほしかったな。だいたいそういうものは、リスクがつきものだぞ、と。

「その森ってどこにあるの? この辺?」と向井先生は、今度は歯ブラシをくわえていて、訊いた。

 僕は首を振った。「教えませんよ」

「なによ、呪いなら解いてもらえばいいじゃない」

「どうやって……」

「うーん、神主かんぬしさんに頼むとか?」


「シュークリーム、ごちそうさまでした」僕は長椅子から立ちあがった。「僕の話、信じてくれたんですね? カウンセリングを受けろとか、言わないですよね?」

 先生は口をゆすいだ後、タオルで手を拭いた。「……その魔球ってさ、消えたりとか、すごい曲がったりとかするわけ?」

「漫画じゃないんです。漫画みたいな話ですけど、平凡な変化球なんです。バッターに打たれないとかでもないんです。ただ、試合には絶対に勝てるんです」

「何点差、開いてても?」

「多分……」僕はなんだか急に泣きそうになってきた。


 実際の試合では、僕のチームは二点リードしていたんです。九回裏で、ノーアウト一、三塁になりました。あんなに心臓が早鐘を打って、マウンド上で気分が悪くなったのははじめてでした。一発出たらもちろん逆転されてしまうし、外野フライでも一点入ってしまう。

 球児だったら、そんな場面はいくらでもありそうなのに、たった一度しか使えない魔球なんて、ほんと、ひどいですよね……。しかも、投手にとって大事な腕を引き換えにするなんて。ま、それが呪いなんでしょうけどね。


 僕の唇は糊付けされたようにくっついていた。向井先生……そうだ。もし九回表で、五点も六点も入れられてしまった後で魔球を投じたとして、それでも勝てるなんてことあるのかな。味方が必ず、何点差であろうとひっくり返してくれるなんていう話が──。

 先生の手が肩に置かれ、頬にも熱が伝ってきた。先生はすり抜けようとする僕の目を捕まえて、やさしく言った。

「野球は九人でやるもんじゃん? チームは何人いたか知らないけどさ。あなた一人がすごい魔法使いになって、それで勝ったってさ……」

 僕の痛みと交じり合って、その魔法で呪いが解けると教えられたとしても、僕は恥ずかしくて逃げだしていたかもしれなかった。

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野球の森 崇期 @suuki-shu

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