評判の悪い病院

増田朋美

評判の悪い病院

暑い日であった。その日も暑い日であった。こんな暑さがいつまで続くんだろうと思われる暑さだった。毎年夏のことだから、仕方ないと思われるかもしれないけれど、暑い日であった。

その日蘭は、ものもらいが右目にできてしまったので、近隣の眼科へ行こうかと、スマートフォンで調べていた。そんなときに限って杉ちゃんがやってきて、買い物にいこうと催促するのだった。

「悪いけど、今日は行けないよ。ものもらいができてしまって。」

「はあそうか。じゃあ、すぐに病院で見てもらってくれば?」

杉ちゃんの答えは単純であった。本当に単純な答えしか言わないのが杉ちゃんである。

「今、眼科を探しているんだけど、近くにないんだよ。」

蘭は地図アプリを開きながら言った。

「じゃあ、バスかタクシーで行けば?」

「そうだねえ。」

蘭はもう一度地図アプリを見てみたが、駅の近くには無いし、バスで行けそうな眼科は見つからなかった。ただ一つ、近所のバス停近くに眼科があることがわかった。

「ああ、ここにあるな。杉浦眼科というところが、あるらしい。」

蘭がそう言うと、

「じゃあそこで見てもらってくれば?」

杉ちゃんに言われて、蘭は、その杉浦眼科というところへ電話してみた。受け付けてくれた人は、かなり待つかもしれないけれど、それでも良ければといった。蘭は、そのとおりにしてみた。家の近所にある、入道樋門公園入口のバス停から30分ほど乗って、杉浦眼科というところで降りる。何だこの程度かと、蘭はちょっと安心したのであるが。

自動ドアをくぐって、蘭は眼科の中に入ると、居るわ居るわ、たくさんのお年寄りが待っていた。たくさんの人がいすぎて、新規で座れそうな場所がない。車椅子の蘭は、仕方なく、待合室の片隅でぼんやりしているしかなかった。

「伊能蘭さん。」

と、呼ばれたときは、もう一時間以上経っていた。

「伊能さんこちらへお入りください。」

と言われて蘭は、診察室へ入った。医者は、40代前後で、開業医としては若い医者だった。

「今日はどうされましたか?」

「はい、右目にものもらいができまして。」

と、蘭が言うと、

「わかりました。じゃあ、ちょっと拝見。」

医者は蘭の右目を、確認して、

「ああ、仰る通り、ものもらいです。ですが、薬ですぐに治りますから、大丈夫ですよ。じゃあ薬出しますから、様子を見ておいてください。それでは。」

と、言ってすぐに、

「次の人。」

なんて言ってしまうのだった。薬の説明とか、そういうことは一切してくれなかった。蘭が、

「薬の説明とか、そういうことはしてくださらないんですか?」

と聞いてみても、医者は何も言わなかったのである。

「ええ、薬の説明書がありますから大丈夫です。」

「そうじゃなくてですね。」

と蘭は言ったが、医者は何も言わなかった。結局薬を出されただけで、薬の説明など何も無いまま、蘭は診察室を出るように言われた。

「やれやれ、それだけか。」

思わずそう言ってしまう。会計を済ませて、処方箋をもらい、隣の薬局で薬をもらってくるだけであった。なんだか、何のために病院に行ったのか、良くわからないほど、味気ない診察だった。バスは、一時間に何本か走っていたから、蘭は数分待って帰ることができたのだが、いいことといえばそれだけだった。

「はあ、それで、何も説明のないまま帰ってきたのか?」

杉ちゃんに言われて蘭は仕方なくそうだよといった。

「そうじゃなくてさ、もっとこういう感じなんだとか、聞いてもらうべきじゃなかったの?」

「まあそうなんだけどね、薬がもらえたから良かったのかなあ。いずれにしても、何回か薬つければ治るのかなあって、僕も聞かなかった。」

「呆れた。そういうときは、もっと、こんつめて、こうだったとか、ああだったとか、そういう事言うんだよ。蘭もお人好しだねえ。そういう医者は、どうせろくなやつじゃないよ。それでは、何も役に立たないよ。そういうところだから、蘭は頼りにならないとか、そういう事言われちゃうんじゃないの?」

杉ちゃんに言われて蘭は、それもそうだねえとため息をついた。

「とにかくなあ、医者なんて、頭の良すぎるお坊ちゃんで、患者の世界とは違うところに住んでいるやつばっかりなんだから、それを、こっちの世界へ引っ張り込むようにテクニックを使わなきゃだめなの。」

「詰めが甘かったかなあ。」

杉ちゃんに言われて蘭はそう答えるしかなかった。

それから、数日後、蘭は毎日、医者からもらった薬の説明書を読んでそこに書いてあるとおりに、目薬を注したのであるが、一向に良くならなかった。それでは、仕事に支障が出てしまうので、もう一度、杉浦眼科へ行くことも考えたが、たしかに杉ちゃんに言われた通り、うまく説得しないとだめだろうなと言う気持ちも湧いてしまうのであった。蘭は、どう行動しようか悩んでしまうのであった。

「おーい蘭、買い物行こうぜ。早くしないと、うまいものはとられちまうよ。はやくいこう。」

杉ちゃんに言われて、蘭は、わかったよと言って玄関先に行ったが、どうもものもらいが痛くって、買い物に行く気にはなれなかった。

「もう、しょうがないなあ。また、ものもらいが痛いのかい?そういうことなんだったら、早く医者に行ってなんとかしてもらえや。そういう事出来るのは、素人じゃできんよ。医者になんとかしてもらわないと。」

杉ちゃんに言われて蘭は、

「まあ、そうだけど、どうもあの杉浦眼科に行くのも気が引けるんだよね。なんかまた行ったら、冷たい扱いしかされない気がして。」

と、杉ちゃんに答えた。

「それはそうだけど、ちゃんと見てもらったほうがいいのでは?素人にはできないこともあるだろう。」

「まあ、まあ確かにそうだけどさあ。」

杉ちゃんに言われてしまうのもなにか気が引けた。

「もう、今日の午後でも行ってこいや、蘭は、一応医者を選べる立場なんだからさ。それに感謝して、ちゃんと行くべきじゃないの?もしかして、医者なんかに見てもらえないで、何もできないやつだっているかも知れないんだぞ。それに比べたら蘭は恵まれてるよ。それがちゃんと出来るんだから。それは感謝スべきじゃないの?」

「杉ちゃんそれどういうことだ?」

蘭は、杉ちゃんの話にすぐ割って入った。

「誰か、そういう人物でもいたのか?」

「まあ、そういうことだ。具体的に誰かというと、お前さんはすぐに興奮するから、それは、辞めておく。」

杉ちゃんにそう言われて、蘭はますます気になってしまう。

「もしかして、もしかしてそれは、水穂のこと?」

「だからやなんだよ。お前さんに話すの。」

杉ちゃんはそういうのであるが、

「ちゃんと話してくれ。やつはどうしてる?まさか何もしていないとか、そういうことでは、、、?」

蘭は、やっぱり杉ちゃんの言うとおりなのだ。水穂さんのことになると、一気に興奮してしまうのが蘭だった。

「そのとおり、何もしてないよ。みんな医療従事者は、さじを投げちまうのが落ちだよ。そんな事蘭が一番わかってるんじゃないの?水穂さんが、医療関係の人からバカにされるの。そういうことは、しょうがないの。もうみんなわかりきってることじゃないか。」

「そうは言ったって、人間の命の話だぞ!」

「まあ落ち着けよ蘭。そんな綺麗事は通用しないよ。医者なんて、金儲けのためになる患者じゃないと、動きはしないよ。世の中なんてそんなもんだよ。蘭は、それがわからないから、いつまでも綺麗事言ってられるんだ。」

蘭は杉ちゃんに言われて、水穂さんになにかあったかと聞いた。杉ちゃんも黙っているわけには行かないと思ってくれたのだろうか、実はねと言って、こう語り始めた。話を聞いてみると、数日前のことだったという。

いつもどおり、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようと、製鉄所の四畳半へ行ったところ、水穂さんが、えらくというか激しく咳き込んでいるのが見えた。杉ちゃんには直ぐに動くことはできないのであるが、それが出来る由紀子がすぐに四畳半に飛び込んで、大丈夫?苦しい?と、彼の背中を擦ったり、叩いてやったりした。水穂さんが激しく咳き込むと、赤い内容物が出て、畳を汚した。

「あーあまたやる。畳の張替え代がたまんないなあ。」

杉ちゃんはわざと明るく言った。とりあえず、薬を飲ませなきゃと枕元においてあった、水のみを取った。すると、由紀子がそれをむしり取るように取って、

「これ、これ飲んで!」

と、強く言って、水穂さんの口元に、無理やり押し付けた。中身を飲ませようとしたが、水穂さんは、それに応じることができず、咳き込んだままだった。吸い飲みは畳に落ちて割れた。

「バーカ。何やってるんだよ。これじゃあ、薬さえもぶっ壊した事になっちまうじゃないかよ。」

杉ちゃんに言われて由紀子は、

「こうなったら、すぐに病院につれていくべきでは無いかしら?私、問い合わせて見ましょうか?」

と言ったのであるが、

「ああ、無理無理。どうせ、こんなやつを受け入れることができないって言って、追い出されるのが当たり前だ。絶対辞めたほうがいい。」

と、杉ちゃんに言われて、かっとなる。

「そうはいっても、ちゃんと話せばわかってくれると思うわ。それに、命だけは平等だとか、そういう言葉もあるんだし。」

由紀子は急いでそう言うが、

「いやあ、無理だねえ。僕が頼んでも、断られてばっかりだったからねえ。そういうやつをうちの病院に入れることはできないってさ。」

杉ちゃんは間延びした様子で言った。由紀子は、スマートフォンを取って、119番通報しようとするが、杉ちゃんによせ、やめろと言われて、スマートフォンを叩き落されてしまう。

「そんな、可哀想なこと、水穂さんにさせたくないんだ。だから、通報しても意味はない。」

杉ちゃんに言われて、由紀子はやるせなかった。水穂さんが布団に寝たまま、わずかばかりに咳をしたのが、なんとも言えなかった。

「こんにちは。」

と、誰かの声がした。杉ちゃんが、玄関先に行くと、柳沢裕美先生だった。

「いいところに来てくれたね。水穂さん、今大変だったぜ。丁度いいや。見てやってくれるか?」

杉ちゃんが言うと、柳沢先生はわかりましたといった。

「どうせさ、病院に連れていくのも、可哀想だからさ。もう放って置くしか無いのかなと思ったよ。でも由紀子さんが、薬の水のみ割っちゃったけど。ほんと、困っちゃうよね。なんで、こういうところで、同和問題が出ちゃうんだよね。」

「そうですねえ。人種差別問題は、どこの世界にもあるものです。例えば、アメリカなんかでは、肌の色が違うということで、病院に入れなかった例もあります。」

杉ちゃんと柳沢先生は、そう言いながら四畳半に言った。四畳半では、由紀子が、落ちた水のみのかけらを拾っているところだった。畳は水穂さんが吐いた大量の血液で、真っ赤に汚れていた。

「あーあ、こりゃ、派手にやりましたね。もちろん夏が暑いということもあるんでしょうけど。色々負担がたまりますよね。」

柳沢先生が、別の水のみを出してくれて、粉薬を水で溶かした。そして、中身を水穂さんに飲ませた。やっと落ち着いてくれた水穂さんは、それを静かに飲んだ。

「どうもありがとうございます。いいところに来てくれて助かりました。」

杉ちゃんが、頭を下げてそう言うと由紀子が、

「なんとかして、本格的に治療をというわけには行かないでしょうか?なんとか楽にさせてあげたいんですけど。」

と、申し訳無さそうにいうと、

「そうですねえ。こういう問題は、日本だけでは無いですからね。さっきもいった通り、アメリカでは肌の色で病院を断られることもありますし、他の国では、例えばユダヤ人だからといって、医療を断られる例もあります。それと同じですからね。それは、仕方ないというか、なんと言いますか、、、。」

柳沢先生が、杉ちゃんの言葉を代弁する様に言った。

「まあ、そういうことだ。空がひっくり返りでもしない限り、水穂さんが医療を受けることはできないだろうね。まあ、諦めな。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は涙をこぼした。水穂さんが薬で楽になってくれて、ウトウト眠って居るのが、なんだか虚しかった。

「また来ますよ。ほんの僅かなことしかできないかもしれませんが、それでも出来ることはしますから。」

「出来ることならするかあ。出来ることは、ほんとに少ししか無いけどさ。まあ、水穂さんが楽になれるんだったら、お願いします。」

杉ちゃんと柳沢先生がそういうことを言い合っているのが、本当に、虚しいことのようだった。つまるところ、由紀子も、杉ちゃんも、水穂さんに出来ることは、何も無いのだ。

「そういうわけだから、水穂さんを楽にさせてやれるやつなんていないの。柳沢先生が、なんとかしてくれたから良かったようなものの、僕もあれだけ派手にやられたら、ヒヤッとしたよ。でも、そうするしか無いんだよね。」

杉ちゃんは、でかい声で蘭に言った。蘭は、嫌な顔というか、呆然としているような顔で、杉ちゃんの顔を見た。

「もし、水穂さんが医療関係者を動かせるんだったら、それはよほど偉いやつになんとかしてもらうしか無いんだよね。それは、僕達には動かせないだろ。だから、もう干渉できないの。水穂さんの現状なんてそういうもんさ。仕方ないというか、そうなっちまうんだ。」

「しかし、僕は、もうちょっと、踏み出しても良かったと思うぞ。せめて救命病院に電話してみるとか、そういう事しても良かったんじゃないか?はじめから諦めてしまうのではなく。」

蘭はすぐそういったのであるが、

「まあ例えばなあ。病院に大金払ってくれるんだったら、水穂さんの事なんとかしてくれるかもしれないが、そんなことは、まずできないじゃないか。医者なんて、大したこと無いよ。殆どがお坊ちゃま育ちで、水穂さんの事わかってくれるやつなんかいないの。それで当たり前になっちまってる。差別することでね。」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「だから、蘭みたいにね、医者を選ぶことで、悩めるなんてことは、贅沢な悩みなんだ。それを言ってるんだったら、早く、医者に見てもらって、ものもらいを治してもらうことだな。」

杉ちゃんに言われて、蘭は、そうだなと考え直した。

「でも、杉浦眼科には、行きたくないよ。だって、何も説明もしてくれなかったもん。ただ、薬出されてそれで終わりでは、なんか、嫌な気がするし。」

蘭が思わず本音を漏らすと、

「でも蘭は、医療関係者にもんくいうことだって出来るじゃないか。だからちゃんと、言うの。この薬では良くならなかったってさ。もし遠すぎるとか、そういう事があったら、タクシーよんで、それでなんとかするんだよ。蘭はそれが出来るんだよ。十分幸せなことじゃん。」

杉ちゃんにそう言われて、蘭は、そうだなあと考え直した。

「そうか。じゃあ、ちょっと遠方でも、行ってくるか。今度はできるだけ評判が良い医者を選ぶよ。」

蘭は、ものもらいで痛い目をこすりながら、病院の口コミサイトを見た。確かに、高評価の病院もあった。蘭が、そこへ電話をかけてみると、応対に出た人は、

「いつから来られますか?」

と優しく言ってくれた。蘭が、これからすぐにいけますというと、応対の人は、じゃあ来てくれます?と優しい声でそう言ったので、蘭は、それならいってみることにした。その病院は富士駅から、ちょっと距離があり、バスでは行けなかった。蘭は、富士駅までバスに乗り、そこから先はタクシーに乗って、桜ヶ丘眼科連れて行ってくれと運転手に頼んだ。運転手は、ハイと言ってくれて、蘭をそこまで連れて行ってくれた。病院までは、25分かかった。

その桜ヶ丘眼科と書かれている小さな病院は、本当にこんなところで評判いいのだろうかと思われるほど、人が少ないところだった。蘭は、受付に行き、先程電話したものですがというと、受付はにこやかに笑って、はい、こちらですと言ってくれた。まずはじめにこの病院では、看護師が出てきて、蘭の症状を聞いた。蘭がものもらいができて痛いというと、看護師は少しお待ち下さいといった。蘭が、そのとおり待っていると、

「伊能蘭さん。」

と、中年の女性医師が、彼の名を呼んだ。蘭は、看護師に付き添われて診察室へ入った。

「今日はどうしましたか?」

優しく聞いてくれる女性医師に、

「はい。ものもらいができてしまって痛いんです。以前、杉浦眼科に行ったんですが、良くならなくて。」

と蘭は答えた。

「拝見します。」

と女性医師は、蘭の目を確認して、

「ああこれはひどいですね。薬を変えてみましょうか?大丈夫ですよ。薬なら、選択肢は色々ありますし、他の薬でやってみましょう。」

と言ってくれた。

「別の薬を出しておきますから、それで取れないようでしたら、また来ていただけますか?」

優しく言われて蘭は、はいわかりましたと答えた。医者はもういいと言った。蘭はありがとうございますと言って、診察室を出た。そして、受付で会計を済ませ、処方箋を受け取って、蘭は隣の薬局で薬をもらった。また帰りもタクシーで自宅に帰り、早速、ものもらいができているところに、目薬をさして見る。何回か注してみると、ものもらいの痛みはなくなっていた。蘭は、これは良かったと思ったが、簡単に自分がこういう医療を受けることが出来るというのがちょっと恥ずかしいと思った。水穂さんのように、医療を受けられない人もいる。世の中なんて不平等なんだろう。そして、不平等であると同時に、自分たちは、ここで生きているということを知ったのであった。

蘭は、目が良くなってから、もう一度、杉浦眼科の口コミサイトを見た。確かに評判は悪かった。それは、そうだった。でも蘭は、そこには、評判の悪い書き込みはしないことを誓った。



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評判の悪い病院 増田朋美 @masubuchi4996

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