ソウマトウヒ

結騎 了

#365日ショートショート 224

 音もなく近寄られ、脇腹が焼けた。


 黒いフードを被った人物は、ぱっと手を離した。一瞬にしてまどろみ、祇園囃子の鐘の音がぬるりと耳に滑り込んでくる。右に逃げたが、いや、左か。山鉾やまぼこを写真に収めようとスマホを掲げる群衆に、黒い影は一瞬にして溶けていった。

 いや、これは。ちがう。腹が焼けたわけではない。手にべったりと塗りたくられた赤い血を見て、俺は事態を察した。足元には家庭用の包丁がひとつ。先端が赤黒くぬらぬらと光っていたが、誰かに蹴られ、音もなく視界から消えた。

 男衆の掛け声と共に、山鉾が近づいてくる。こんこん、ちきちん。こんちきちん。祇園囃子が耳に刺さる。ぶぱっと、水風船が割れたような音を立て、半径一メートルに血が散る。まるでアニメのように、身体中ががくりと音を立てて崩れていく。誰かの甲高い悲鳴も、救急車を呼ぶ通話の様子も、祇園囃子にかき消されていくようだ。こんこん、ちきちん。こんちきちん。こんこん、ちきちん。こんちきちん。指先のひとつひとつまで震えが止まらない。ひゅるひゅると、唇からか細い息が漏れる。どうして。どうして。


 どうして刺されたのだろう。


 誰に刺されたのだろう。


 気づくと、そこは居間だった。

「出張の準備、終わったの。ほら、前はシェイバーを持っていくのを忘れたって、大騒ぎしていたじゃない」

 妻のマイミが洗濯物を畳んでいる。俺は……。俺は、缶ビールを片手にソファに腰掛けている。部屋の隅には機内に持ち込める大きさのキャリーバッグ。ついさっき、荷造りを終えた記憶がある。

 ……

 あの焼けるような感覚はなんだったか。手に残る、ぬめりとした感触は。あの記憶が嘘ではないと、本能が告げている。しかし、これは。

「この時期に京都に出張だなんて、ラッキーな話よね。祇園祭をタダで見に行けるようなものじゃない。いいなぁ、私も行きたかった」

 マイミはその整った顔をあえて崩し、俺に微笑んでみせた。じとっ、とした視線すら可愛い。しかし、缶ビールに残ったぬるいビールの味すら、今の俺には分からなかった。京都には行ったはずだ。そこで。祇園祭の群衆の中で。「なあ、マイミ。俺は……」

「そういえば。ねぇ、高校の同窓会の案内が来てたよ。行くでしょ、一緒に」

 無視されたのか、聞こえていないのか。分かるのは、頭の後ろ。ぱかり、ぱかりと、馬の蹄のような音が微かに聞こえることだ。しかもそれは次第に速さを増し、近づいてきている。ぱかり、ぱかり、ぱかりぱかり。

「来るかなぁ、みんな。もしタクマが来たら、私たちが結婚したこと、驚くだろうね」

 ぱかりぱかり。ぱかりぱかり。……蹄の音はすぐ後ろまで迫っていた。追いつかれる。このままでは追いつかれる。。しかしどこへ。どうしてこんなことに。


「もしタクマが来たら、私たちが結婚したこと、驚くだろうね」


 気づくと、そこは部室だった。

 タクマがバットを磨いていた。坊主頭の親友は、親から買ってもらったバットを常に大事に持ち歩いていた。宝物だと言っていたっけ。

 むんわりと漂う、男の汗の臭い。高校球児だけが持つ独特な臭気。忘れもしない、これは俺が三年間を過ごした野球部の部室。どうしてこんなところに。

「なあ、聞いてるか。俺の話」

 ぱかり、ぱかり。タクマはあくまでバットを見つめながら、俺に問いかけていた。また蹄の音が聞こえる。だめだ、速い。すぐにも追いつかれそうだ。

「俺さ、告白しようと思ってるんだ。マネージャーに」

 逃げられない。このままでは逃げられない。

「つまり、マイミのことが好きなんだよ」

 ぱかりぱかりぱかりぱかり。頬を赤らめ胸の内を吐露する親友のそばで、俺は頭を抱えていた。視線を落とすと、ユニフォーム姿。なんで。ぱかりぱかり。どうして俺はこれを着ている。ぱかりぱかりぱかり。

 蹄は、俺を捕まえた。


 


 どん、っと視界が明転する。エンジン音。揺れ。機械音。管。白。人、ふたり。ゆっくりとした覚醒が続く。

 脇腹に当てられた無数のガーゼは赤く滲んでいた。耳まで冴えていく。ああ、これはサイレン音だ。近づいてくる時と通り過ぎた後で音程が変わるのを、ドップラー効果と言ったっけ。では、ずっと車内にいる人間にはどう聞こえるのだろう。……そんなことをぼんやり思考していると、救急隊員に話しかけられた。

「意識がありますか。今、救急車の中です。あなたは祇園祭の観客で、その最中に刺されました。ご自分で理解できていますか」

 刺されました。刺されました。刺されました。……改めて第三者からその事実を突きつけられると、脳にひどくリフレインする。祇園囃子はもう聞こえない。代わりに、意識に滑り込むのはサイレン音だ。

 そうだ、俺は刺されたのだ。あの黒いフードの人物に。凶器に使われた包丁は、誰かが拾ってくれただろうか。

 しかし、あれはなんだったのだろう。居間でマイミと話したのは、京都に来る前の晩の出来事だ。部室でタクマの告白を聞いたのは、更にその十数年前。断片的な記憶が、追いつけ追い越せと俺の脳にかぶりついていた。

 走馬灯。そんな言葉を思い出した。死ぬ間際に見る人生の情景。回り灯籠のようにそれらが過ぎ去り、遂には命が果てるという。俺の命は消えかけていたのだろうか。だから、あんな夢を。しかし、どうせ見るならもっとまともなシーンがあったはずだ。なぜあんな、どうでもいい日常のひとコマが巡ったのだろう。

「うわっ!なんだあの車は!」

 ぼんやりとした思考は、悲鳴とブレーキ音にかき消された。運転席の方からだ。「こっちに突っ込んでくるぞ!」。運転手の叫びから一瞬、ぐわん、と揺れた。俺が寝ている簡易ベットは跳ね上がり、車の天井と鼻先が掠った。ぐにゃりと世界が歪み、重力が迷子になる。誰かがわざと車をぶつけたのか。どうして。どうして。


 もしかして、俺を確実に殺すために。


 気づくと、そこは居間だった。

「出張の準備、終わったの。ほら、前はシェイバーを持っていくのを忘れたって、大騒ぎしていたじゃない」

 妻のマイミが洗濯物を畳んでいる。俺は……。俺は、缶ビールを片手にソファに腰掛けている。部屋の隅には機内に持ち込める大きさのキャリーバッグ。ついさっき、荷造りを終えた記憶が


 記憶、なのか。これは記憶なのか。


 まただ。また。


 救急車の事故。瀕死の俺。誰かからの殺意。そしてまたこの走馬灯。同じシーンだ。


「この時期に京都に出張だなんて、ラッキーな話よね。祇園祭をタダで見に行けるようなものじゃない。いいなぁ、私も行きたかった」

 ぱかり、ぱかり。また蹄の音が聞こえる。くそ、これまたすぐに追いつかれてしまう。逃げなければ。しかし、どこへ。なんのために。なぜ俺は逃げるんだ。なにから逃げているんだ。

「そういえば。ねぇ、高校の同窓会の案内が来てたよ。行くでしょ、一緒に」

 頭が痛い。すぐ後ろまで来ているそれは、容赦なくスピードを上げている。しかし、思い出してきたぞ。このシーンに、があることに。さっきの走馬灯の時に、俺はマイミの言葉から次のシーンに飛んだ。あの部室へ。タクマがいた部室へ。ぱかりぱかりぱかり。だめだ、もう追いつかれる。限界だ。マイミ、早く次のあの台詞を……

「来るかなぁ、みんな。もしタクマが来たら、私たちが結婚したこと、驚くだろうね」

 タクマ。その三文字が、脳にぴりりと響いた。ずっ、どん、と前のめりに体を倒すと、スキューバダイビングのように意識が落ちた。海面から水中へ。記憶という名の果てしない海へ。ぐんぐんと、スピード上げて潜り続けた先で、俺は座っていた。あの部室に。

「なあ、聞いてるか。俺の話」

 タクマはバットを磨いていた。知っているシーンだ。当時、一回。さっき、二回。これで三度目。親友の顔がゆるやかに紅潮する。

「俺さ、告白しようと思ってるんだ。マネージャーに」

 ちくしょう、また蹄の音が聞こえる。ぱかり、ぱかり。次のはどこだ。どこにそれがある。こうして逃げ続けなければ、俺はいつか追いつかれてしまうのだろう。そうなれば、本当に死んでしまうのか。それとも救急車の事故現場に戻るのか。どちらにせよ救われない。俺はなんのためにこの走馬灯を過ごしているんだ。なにか、なにかせめて。

「つまり、マイミのことが好きなんだよ」

 ぱかりぱかりぱかり。マイミ。ここだ。この文字だ。ずっ、どん。息が詰まる。記憶の海は俺の心をぎゅうぎゅうに締め付けるようだ。全てが過ぎ去っていく。順番もわからない。あれは結婚式。あれは高校受験。あれは入社式。あれはプロポーズ。あれは、あれは、シーツを掴む女の指……


 潜り続けた先で、俺は立っていた。夕暮れの屋上。遠くにカラス。見飽きた街並み。狭くて嫌気が差していた、地元の景色。ここにいては何も叶えられないと、そう強く思っていた。

「それで、本当に私のことが好きなの?」

 屋上の柵を後ろ手に、女子高生が問いかける。その整った顔をあえて崩し、微笑んでみせた。

「まさか知らないわけないでしょ。うちの部、恋愛は禁止だって。それもマネージャーに手を出すなんて、いけないんだぁ」

 マイミだった。マイミだ。十七歳のマイミ。そうだ、俺は彼女を屋上に呼び出し、そこで……。

 ぱかり、ぱかり。

「でもね、私って結構、嫉妬深いところあるから」

 ぱかり、ぱかり。

「付き合うのはいいよ。君に興味があるのは嘘じゃない。でも」

 ぱかり、ぱかり。

「もし私以外の女に手を出したら」

 ぱかり、ぱかり。

「その時は、殺してやるから」


 蹄は、俺を捕まえた。


 


 明転。ヘリの音が聞こえる。粉塵の向こうには、スマホを掲げる通行人たち。俺が乗っていたはずの救急車は、商店街に頭から突っ込んでいた。脳が揺れる。四肢が今にも分解しそうだ。どうして。なんで。走馬灯を巡る中で聞いた言葉。「その時は、殺してやるから」。マイミの冷たい目。あれは……。

 道の反対側に横転する、突っ込んできたと思わしきシルバーのバン。そのドアが開いた。黒いフードの人物は、自身の頭を振りながら周囲を観察している。その手には、またもや包丁が握られていた。


 


 どうしても、俺を殺したいんだな。


 もう一度、走馬灯を見れば分かるかもしれない。奴の正体が。その動機が。これは決して、通り魔なんかじゃない。俺の息の根を絶対に止めたいという、明確な殺意。どうしようもなく分かる。あれは、俺の半生が生んだ存在だ。


 身体中が軋む音を聞きながら、ゆらりと立ち上がり、両手を広げてみせた。ただじゃあ、やられない。もうこの命が助かるかどうか、俺だって分からない。


 フードの奥と目が合った。ぜぇ、ぜぇ、という息遣いに合わせるように、二人の距離が縮まっていく。いいぞ、刺せ。致命傷を食らわせろ。俺をもう一度、彷徨わせろ。


 今度こそ、逃げ切ってやる。見つけてやる。

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