牛尾 仁成

 若武者を思わせる凛々しくも精悍な顔つきを一目見た時、彼は生まれて初めて誰かを美しいと感じた。立ち振る舞いや、手に取る武具がごとき張りのある唇から紡がれる言葉は、青々とした涼を運んでくる。


 放課後の教室から、弓道場を見やると彼女はいつも的目掛けて弓を引いていた。すらりと背が高く、艶のある黒髪を後ろでまとめて、後頭部から垂らしている。首の動きに合わせてざばざばと波打つ滝のようである。


 弓を引く彼女の姿勢はやはり美しかった。露わになった白い額も、シャープな眉も、ツンと尖った鼻の頭から口、おとがいと続く輪郭も。一つ一つのパーツの造形がシンプルでありながら完成されている。それらが非常に小さな顔の中でここしかない、という場所にきっちり配置されている。そして目だ。まっすぐに、まさしく射抜くような目線はそれそものが矢と同じような鋭さを持つ一種の圧が込められている。彼は弓道のことは何も知らなかったが、姿勢や精神が大切な武道だということは知っていた。きっと、矢を射る姿勢と動作に少しのブレや淀みが無い彼女の射は素晴らしいものなのだろう。


 高く重い音を発てて、彼女の矢が的を射抜いた。


 そんな彼女の姿を遠くから眺めているだけで彼は満足だった。別に話しかけたいわけじゃない。そもそも何と話しかければいいか分からない。向こうが自分に気づかない、この状態が一番自分にとっても良いのだ、と思っていた。


 だが、毎日毎日そんな姿を見ているうちにどうしてもそれだけでは我慢が利かなくなってきてしまった。


 彼女のことをもっと知りたかった。ただ、弓道場に立つあの姿以外の彼女を知りたかった。あの怜悧な彫像の横顔以外の顔を見てみたかった。


 だから彼はこっそりと弓道場の裏手へと回り込んでいた。裏手は土手のようになっており、木造の矢避けが上に立てられていた。この矢避けにへばりつき、板の隙間を覗き込むと、彼女の姿が見える。


 正面から見る彼女の姿は、控えめに言って女神の様だった。天にすっくと伸びあがるような、それでいて地にしっかりと据えられた足腰は遠くから見るよりも遥かに生き生きとしていた。瑞々しいエネルギーが薄皮一枚の下で滞留し、射に入る一挙手一投足が痛々しいほどに静かだった。


 矢を番え、弓を引き絞る。


 最も力のこもる作業においても、彼女は揺らがなかった。綿をちぎるやわらかさで。太陽が地平線から昇る自然さで、構える。


 彼はその様子を食い入るように見つめた。自分の足元の的を狙う彼女の視線は、距離があればあるほど、彼の視線とぶつかり合う。彼女が矢を放つその一瞬だけ、彼女の視線は彼だけのものだった。一心かつ無心に矢を射る彼女はまさしく彼を狙っているのだ。


 真剣で冷徹な、身を切られるような二つの視線が自分だけに注がれている。こう認識する時、彼の中では言い知れぬ何かが、恐怖とも歓喜ともつかぬ感情となってその身を蹂躙した。


 高く重い音を発てて、彼女の矢が的を射抜いた。


 足元に小さな振動を感じる。その瞬間を逃さず、彼は一目散にその場を離れた。離れがたい気持ちを振り切って走り出した。もう、自分がどうにかなりそうだったのだ。


 とても後ろ昏い想いが彼の中で膨れ上がっていった。同時に抗いがたい魅力を見出し、誘われそうになる。走ったせいなのか、興奮のせいなのか荒く息を切らして、玄関前と至った。胸を貫かれたのかと思うほど苦しい。


 ざわり、と体の芯を何かが駆け巡る。


 彼は息を整えながら逡巡した。この時、彼は自身の胸にわだかまる想いの名を自覚したのである。


 


 

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牛尾 仁成 @hitonariushio

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