月影

コルヴス

宿屋にて

「おやすみなさい、いい夢を」

『おやすみ』

 今日一日の別れを告げ、二人はそれぞれに部屋へと戻る。アクイラは途中で歩みを止め、廊下で顔を覆いへたりこんだ。

 俺は今何を……

 右手を見つめる。この手は部屋へ戻るリラの髪を撫でようと、引き止めるために腕を掴もうとしていた。……更に本音を言うならば、唇を合わせようと。彼女は人に触れられることを嫌う。少し触れただけで痛がり、怯え、そんな自分を悲しむというのに。リラを悲しませたくない。嫌な思いをさせて嫌われてしまいたくない。そう思うのに、その一方でこの抑えられぬほど大きな愛を伝えたくて狂ってしまいそうだった。

 リラの手を引いて歩きたい。太陽の香りのする髪に触れ、壊れそうなほど滑らかな頬を撫で、まだ誰にも穢されていない清らかな唇を奪って、その小さな体を壊れるほど強く強く抱きしめたい。


 限界だ。


 アクイラはすくっとたちあがりリラの向かった方へ歩いていき、廊下の奥、半開きになった扉に体をねじ込み暗い部屋へ入る。いつも方向音痴でなかなか目的地にたどりつけないのにこういう時だけは絶対に迷わない自分に苦笑した。

 三日月の夜はとても暗い。音を立てないように忍び足で部屋の奥まで手探りで進んで行った。部屋の間取りは昼間見たのを何となく覚えていた。ベッドは窓際にある。

 窓枠に腰掛けて、彼女が枕をぎゅっと抱えて眠っているのをずっと見つめていた。何を見ているんだろう、目が慣れてきて見えた苦しそうに歪んだ寝顔はこちらまで心を痛めるほどだった。

 布の摺れる音が大きく聞こえて、起こしてしまわないかと心配になる。大丈夫だったようだ。床に座って枕元にそっと両肘と頭を埋める。目の前に愛しいリラの寝顔があった。

「リラ……」

 囁き声がつい漏れる。その名前の響きが脳を溶かしておかしくさせた。

 恐る恐る長く柔らかな赤茶色の髪へ手を伸ばす。ひと房だけ持ち上げて、そこにそっとキスをする。いい香りがした。昼間だったらこんなことしなかったと思う。

 組んでいた両腕を解いて、右手をリラの頭へ近づける。衝動的に頭をくしゃっと撫でた。

「あっごめん……」

 リラがぼんやりと目を開け、いるはずのない不審な人影を怖がり毛布を頭まで持ち上げた。アクイラも手を離し、やはり傷ついて震える毛布の塊を見つめる。

 何者か分からない侵入者が恐ろしいのだろう。昼間幽霊は苦手だと言っていたが、今の自分はリラから見ればまさにそれだ。

 いつものように筆談をしようとして、それでは何も伝わらないことを思い出した。部屋は暗く、文字を読むことは出来ない。

 しかし、声を出すことは恐ろしかった。アクイラの声は人を服従させる力を持つので、下手なことを喋って他人の人生を狂わせたくはないのだ。

 でも、喋らないとリラをもっと怖がらせてしまう。今必要なのは布の摺れる音ではなくアクイラがいるという確証のはずだ。

「……俺だよ、アクイラ」

 迷って迷って、ようやく言葉を選びながら声を使った。リラの前では一度も話したことがなかったから、名前を名乗ったところでアクイラだと思ってくれないかもしれないと祈るように唇を噛んだ。

「……手を」

 布団の中から右手の指先だけが控えめに出てくる。声が震えていた。

「握ってくれませんか」

「……」

 刹那思考が停止した。怖がられると思っていたのに、勝手に部屋に入ったことも勝手に触れたことも怒られて酷く拒絶されると思っていたのに。

 嬉しいやら怖いやら、リラが自ら手を差し出すのは初めての事だった。

 細い指に触れるとまたぴくりと嫌がるように手を引っ込めてしまう。しかし、今日はいつもと違いもう一度求めるように差し出された。そっと手を重ねるとリラは毛布から目元までを出し、アクイラと目を合わせた。

「アクイラ様……怖い夢を見るのです。傍に居てくれませんか」

 うん、と頷き小さな手を包み込む。両手で、逃がさないように。暖かくて柔らかくて、とてもとても小さい。嫌がるかと思ってリラの顔を見ると、今度はとても穏やかな顔で寝息を立てていた。胸がいっぱいになる。よかった、君の役に立てて。

「愛してる。大好きだよ、リラ」

 柔らかく小さな手を優しく握ったまま枕元に顔を埋めた。

 ああ、この手を通して夢の世界を旅するリラへ俺の声が届けばいい。気持ちを伝えきるには本当はこんなものじゃ足りないけれど、手を握るだけでも十分幸せだな、とそっと息を吐いた。そしてこっそりリラの手で自分の頬に触れる。キスはまだいい。気が付かない時に押し付けるんじゃなくて、ちゃんと受け入れてくれた時がいい。




***

 朝起きたリラは手に違和感を覚えて布団を捲った。右手に自分のものでは無い左手が乗せられている。反射的に手を引っ込めようとして、不思議と嫌ではないことに気がついた。


 ……いつの間に


 枕元で突っ伏する白い髪が朝日を反射して煌めいていた。昨日の夜何かあったのだろうけど、残念ながら全く覚えていない。

「ん……ぅ……リラ……」

 変な体勢でベッドに寄りかかって眠るアクイラが寝言を零した。リラはアクイラの大きな手に左手を乗せ、両手で挟み込んで顔を寄せる。そして、額に触れる指に顔を赤らめ二度寝に入るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月影 コルヴス @corvus-ash

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ