帰宅の道

考えたい

嗚呼、帰宅は易からざるもの也。

 或る男子高校生はとあるビルから出てきた。

 ヨレヨレの制服のシャツとズボンを身につけている。そして其の目は他の高校生達とは違って、スーパーの冷凍鰯のような光のない目をしていた。げっそりとした頬をマスクが隠しているのがせめてもの救いかな。

 この高校生の日常は酷く擦り切れたものであった。朝六時に布団から叩き起こされ、すぐに満員電車に揺られる。学校に着くとまずする事は睡眠ではなく、課題や小テスト勉強である。あっという間に始業チャイムが鳴って、一限から四限までずっと授業を受ける。昼休みは飯を食うが、日に日に食べられる量が減っていくのが見て取れる。かつてはラーメンにチャーハン、そしてうどんに唐揚げ定食と幾らでも食い物が胃に入ったが、今ではコンビニの塩おにぎり一つを胃に収めることも精一杯。それ以上食べようとすると、後で大便器に真正面に顔を向けて酸っぱい白い物体を吐くことになる。そのまま五、六限を受けて放課後になると塾に行く。そして授業が始まるまで自習室に籠るがやる事といえば課題課題課題のオンパレード。気が付けば授業開始三分前に教室にダッシュ。息を切らしながら授業が始まる。終わったらまた満員列車に乗り込む。そして家に着いたらすぐに風呂入って布団に飛び込む。そして気が付くと朝日が昇りそれに涙する。

 この高校生はまた、珈琲を飲むようになったが、最初は微糖、今ではブラックを一日に何本もがぶ飲みしている有様。そして、珈琲で一息ついている瞬間は途轍もなくどんよりとした空気がながれる。

 また、以前は何とも思わなかった朝焼けや夕焼けを綺麗に思い、その綺麗さに感動した瞬間に知らず知らずのうちに涙が零れ落ちる。美しさに感動する心を弱冠十六にして初めて身に着けたのだ。そうさせたのがこの擦り切れた日常であることは何たる皮肉かな。

 そしていま、この高校生はとぼとぼと駅に向かって歩を進めている。駅近辺のビル群が美しく目に映る。ビルの窓から零れ出る光が漆黒の夜に木霊し、キラキラ輝いて見えるのが美しい。また涙した。

 ところが、この高校生の足は突然限界を告げた。そのまま駅の改札に続く歩道橋の隅に腰を下ろした。そしてしばらく思索して過ごす。

 どうして皆、あんなに元気なのだろうか。この塾は三時間授業に延長居残りがおまけされて四時間以上は続く。それが終わったらげっそりしているものだが、皆元気だ。

 そこで考えたついた阿保理論其の一、「元気とは、経済にとっての金と同じようなものである。」

 元気な連中とこの高校生の違いは何か、それは友達がいるかいないかである。この高校生は塾に友達がいない。

 友達がいる連中は会話の中で、自分の元気を友達に与えつつ、自分も元気をもらう。そしてそうしているうちに、元気が増幅して笑顔が戻る、アダムスミスが国富論の中で唱えた「神の見えざる手」の如く。

 そこで一旦思索は途切れた。立ち上がろうとするけれども、体に力が入らない。自分の姿勢はまるでトラックで輸送されている陸軍兵の様だろうなと客観的だか主観的だかわからないことも思った。

 また、自分の学校の制服について考えてみた。印象は、「明治初期の陸軍軍装か海軍陸戦隊の格好」に似ている気がした。そう思うと銃剣持って敵陣めがけて突撃する自分の姿が思い浮かばれる。

 そんな想像をしだしてしまうと、何だかガダルカナルで絶望的な戦いを強いられている戦中の兵隊のような気がする。傍から見たらぱっと見そう見えるかもしれない。


 数週間前のことである。この高校生はいつも通り、死んだ目をして、重たい足を引き摺りながら駅のホームを歩いていた。

 ホームには沢山の擦り切れたリーマンたちが並んでいたが、彼らの目を見ると失礼ながら「嗚呼、自分と同類だなあ」と思えた。

 無論、彼らの働きのおかげで今のGDP約五兆ドルの世界第三位の経済大国である大日本帝国が成立しているのは重々承知である。それでも生産力ゼロの自分が日本の産業戦士と同等に疲弊しているのは、何かと申し訳が立たない。

 そんなことを思いながら日本の国力のみなもとたる産業戦士たちに心の中で敬礼をしながらホームで列車を待っていると、或る産業戦士に肩をポンポンと叩かれて「元気出せよ、青年。」とありがたいお言葉をいただいた。

 すぐに深々とお辞儀をした。


 今となっては、その産業戦士は立派に戦っているのだろうか業務を果たしているだろうかと思う。そうでおられたら尊敬いたします。

 そう思っていると何か投げられて自分の顔に当たった。

 ちゃりーん、という金属音を響かせて、その物体が地面に落ちる。

 十円硬貨だった。

 すぐにまた、ちゃりーん、ちゃりーんと次々に道行く人々が硬貨を投げていく音が聞こえてくる。

 本来なら「俺はルンペンや傷痍軍人じゃねえぞ。」と一喝ぐらい入れるべきなのだが、口を動かせない。

 やはり、傍から見たら自分は背格好的にも傷痍軍人みたいに見えるのだろうか?


 暫く、何も考えられない時間が続いた。

 そして、不意に、身体がフワフワと軽くなった気がした。

 そのままその男子高校生は、軽い足取りで帰宅の道に向けて歩き始める。


 翌朝、駅には救急車、警邏巡回車、報道陣が集まっていた。

 ブルーシートで覆われた場所はまさに、その男子高校生が座っていたその場所。

 救急隊員がブルーシートに包まれた物体を救急車に乗せて走っていった。


 後日、現場検証の結果が公表された。その男子高校生は、まさに典型的なガダルカナルでの日本兵のようだった、と報告書に記載された。

 また遺留品は、学校のカバン、制服、そして所有者不明の刀と四十九枚の硬貨であった。


 

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