緑の庭で約束を(後編)

「どうしようマリー。トムが可愛すぎるんだけど」

「あの堅物級長を可愛いなんて形容するのは、キョウぐらいなものだわ」

 手足が伸び、すっかり大人の身体を手に入れたマリーが呆れたように言うけれど、杏はそれどころではない。あれ以来、なんだかトムの顔をまともに見られなくなっている。

「そう? 真面目っぽく見えてたまに抜けてるし、不意をつかれたときの顔とか子どもっぽいし、わりと照れ屋だし」

「照れ屋?」

「うーん、なんていうかね、失敗を見られるのを恥ずかしがっているっていうか。まあ、カッコつけるのは男の性分かもしれないけど」

「どうでもいい相手になら、恥ずかしがったりしないと思うけど?」

「私たちはバディだし、先生たちに都合のいいコンビだから、ちゃんとしないとっていう意識はあるでしょうね」

「……先生方の期待に応えるためだけとは思わないけど」

「ああ……。トムってばいい家のお坊ちゃまだもの。今後のこともあるわよね」

 マリーが深く息を吐く。

 そうか、そんなに大変なのかと、杏は名家の重みとやらに思いを馳せた。

 遠山家は庶民だ。留学なんて派手なことをしているのは、祖父が繋いだ縁があってこそ。スポンサーである三井氏には定期的に手紙を出しているし、成績もきちんと報告している。彼の名は学校でも通っているらしく、ミスター・ミツイが寄贈したという旨の絵画が飾ってあるのも知っている。

 四年も経てば、杏だって気づく。おそらく三井氏は、自分を足掛かりにしたかったのだろう。海外留学事業に着手すべく杏を使った。生半可な気持ちでは、頼れる者がいない異国の地で戦えない。その点、杏は逃げ出すことはないと踏んだ。

 そのおかげもあってか、顔立ちの異なる新入生の数も増えてきている。懐かしい母国語で話しかけられて、涙ぐんでしまったこともあるぐらいだ。

 子どもに対してあくどいと思うが、彼のおかげで今の暮らしを手に入れたのだから、お互いさまなのだろう。けれどこれから先は、杏が自分で作り上げていかなければならない。

 ――だから、せめて今だけ。この学校にいるあいだぐらいは、トムを好きでいたっていいじゃない。

 先日送り出した寮の先輩は、卒業後は親の決めた相手と結婚する。

 五年生になるときに相手に引き合わされていて、幸いにも交際を重ねるうちに好ましく思うようになったという。相手の男性は社会で働いていて、すぐにでも彼女を迎えられる。彼女に懸想していた例の男は、横恋慕以前の問題だったといえよう。

 スクールに在籍している生徒たちは、卒業とともに将来の相手を見定めていく。

 そのためには、最上級生になるまえに相手が決まっている場合が多いし、それが同じ学校の生徒である率は高い。そしてその中に、異国人の杏は含まれていない。

 声をかけてきたとしても、その場かぎりの相手を求めているに過ぎない。四年生にあがると社交練習のパーティーへ参加できるのだが、誘いをかけてくる男子が後を絶たなかった。

 入学当時、こちらを奇異な目で見たり、笑ったり、意地悪を言ってきた奴らがこぞって「おまえが知らない場所を見せてやるよ」とか「興味あるだろ」とか「俺が連れていってやるよ」とか言いながら迫ってくるのはなんの罰ゲームなのか知らないが、他をあたってほしいと心底思う。

 十代後半にもなると、体型には歴然とした差が出てきた。人種の違いはこんなにも明らかなのかと、杏は苦い思いを抱える。

 怖い。

 そんなことは口が裂けても言わないし、態度にも出さないようにしているけれど、彼らに相対するのはひそかに恐怖だ。なぜか一対一で挑んでくるのは、かつて「集団ではなく一人で来い」と言ったことを律儀に覚えているのか。後先考えない自分を少しだけ悔やむ。まさに後悔後に立たず。

 トーマスと付き合っているのかと問われることも増えた。五年生でも相棒の継続をすでに告げられている。連続でコンビを組むのだ。誤解するだろう。

 トーマスが級長として皆を引っ張っているように、杏はいつしか女子代表のような存在になっている。

 クラスの問題ごと、学校に対する陳情、自身の勉強のことなど、あらゆることを話し合う仲になれた。時間が足りなくて、授業が終わったあとや休みの日にも顔を合わせることも増えている。

 生徒同士の逢引場所には、寮ごとに設けられている庭園が使われることが多い。杏が暮らすクレオパトラ寮にある薔薇園は女子人気が高いが、好みではない。あまりにも緑が少なすぎるのだ。杏は新緑を愛している。

 だからいつも、トーマスが暮らすファントム寮の庭園に赴いた。田舎育ちの杏にとって、木々や草花に溢れたそこは気持ちが落ち着くのだ。

 杏が行くと、トーマスはいつも不機嫌そうな顔をして、なるべく人目につかない場所に押し込まれた。堅物級長はからわれるのが苦手なのかしらと思っていた杏だが、別クラスの男子生徒に声をかけられ、その事実を知る。

 トーマス・キングズレーには、幼いころから心に決めている相手がいるらしい、と。

「だからキングズレーのことは諦めて、俺と――」

「べつに、私たちはそういう関係ではないのよ。だってほら、私は」

 私は異邦人だから。

 だから、いずれ国に帰らなければならない。

 長じるにつれて増える話題。将来の話。

 仕事、結婚。

 どちらの伝手つても、杏は持っていない。

 卒業までには地固めもできると思っていた自分は、とんだ甘ちゃんだったと思い知る。外国へやってきて五年経ったが、しょせんは学生なのだ。

 遊学のためにいる子ども。

 周囲の大人はそう思っている。数が増えてきたとはいえ、まだ珍しい東洋人を雇ってくれるような変わり者は、簡単には見つからない。



     ◇



 五年生の終わりにかけて、杏はトーマスと距離を置くことを試みはじめた。バディとして最低限の接触はしたけれど、放課後は控える。そんなかんじだ。

 慣れなければならない。

 近い将来、自分とトーマスはバディどころか、学友ですらなくなるのだ。

 当然、学友たちは不思議がった。

「もしかして、ついにトーマスになにかされたの?」

「なにかって、なによ」

「なには、なに・・よ」

 蠱惑的に微笑まれ、杏は顔を赤くして首を振る。

「そういう関係じゃないんだってば。だってトムには相手がいるんでしょう?」

「うっそ、ほんと? キョウのこと弄んだのね、あのクソ野郎」

「真面目ぶってひどい男」

 許すまじと息巻く友人たちは、入学した当時、黒い髪の自分を見てひそひそ笑っていた少女たち。変化を嬉しく思うし、杏の努力は決して無駄ではなかったのだという証拠だ。

 以前はパーティーへの誘いがかかったものだが、断っているうちに飽きたのだろう。杏に声をかけてくる男子はひとりもいなくなった。彼らは別の女子を伴って会場へ足を運んでいる。

 熱心に誘っていた男子と久しぶりに顔を合わせた際、ひどく引きつった顔をしていた。おまけに逃げるように去っていったものだから、隣にいる相棒の顔が見られなかった。だってトーマスは、彼らが自分に声をかけていた過去を知っている。憐れな杏を慰めもしないところは、寡黙な彼らしいといえるかもしれない。

 ――だけどさ、私にだって憧れぐらいはあるのよね。

 パーティの中でも特別といえる卒業のダンスパーティーは、外部の客も招くことが可能だ。ステディな相手がいるひとは、招待することができるお披露目の場。控室にパートナーが迎えにやってくるのは、女子憧れのシチュエーションである。

 しかしこのままでは、あぶれた女子たちで徒党を組んで、お菓子を堪能する未来しかないだろう。



「それはそれで、楽しいんだろうけどね……」

 ぼんやりと呟いた声は、誰もいない夏の庭に吸い込まれていく。

 夏季休暇。皆が帰省しているなか、貧乏留学生の杏は、寮に残っている。

 それは毎年のことで、私服で学内をぶらついていても咎められることはない。今日もお気に入りの白いワンピースだ。

 時折見回りにやってくる教師に挨拶もする。耳に届いた足音もてっきりそれだと思ったため、その姿に驚いた。

「……なんで?」

「何故もなにもないだろう。ここはファントム寮の庭だ。むしろキミがここにいる方が問題だろうキョウ」

 現れたのはトーマスだった。

 太陽の下、眩しそうに瞳を細めてこちらを見ていて、そのまなざしにとらわれる。

「今年も帰国しないんだな」

「最上級生になるもの、今更だわ。トムこそ、帰らないの?」

「新学期の準備がある」

「大変ね、級長兼寮長さまは」

 ぎゅっと口許が結ばれた。それは不機嫌なのではなく、緊張と照れからくるものだと今は知っている。その幸せを噛みしめていたから、返答に窮した。

「卒業後はどうするんだ」

「……それ、は」

 いつもなら明るく誤魔化せただろうそれは、今だけは無理だ。顔が歪む。

 笑え。笑え。遠山杏。

「帰国する。モラトリアムはおしまいね。女が単身で暮らしていくには難しいってわかったの。私の居場所はここにはない。どこにもないの。だから――」

 帰る。

 その言葉は、トーマスの胸に吸い込まれた。

 思考が追いつかない。これはなんだろう。

 ただわかるのは、自分の心臓がとんでもなく暴れまわっていることだけだ。いや、これは彼の心音なのだろうか。ふたつの鼓動が重なっている。

「おまえの居場所はここにあるだろう」

 低く甘やかな声が耳朶を打った。

 背中にまわされた男の腕が、崩れ落ちそうになる杏の身体をしっかりと支えている。

 泣きそうになった。

「……トム」

 こぼれた声はかすれていて、こみあげる涙を根性で押しとどめる。

「キミはいつだって先に進む。俺が行くと言ったのに、キミのほうがやって来た。かと思えば帰るだって? 勝手すぎるだろう」

「え?」

 父親に連れられて訪れた東の国。そこで出会った黒髪の少女は、幼いトーマスの心を奪った。もっと一緒にいたいと泣く少年を、父は抱きしめた。

「トムも、覚えてたの?」

「心外だな。約束しただろう。大人になったら迎えに行くって」

「お生憎あいにく様。私は、思い立ったが吉日、鳴くまで待てないホトトギスなのよ」

「鳥? 自由なキミらしい形容だ」

「私が鳥ならあなたは大樹ね。この庭みたいな」

 木漏れ日を見上げながら杏が言うと、トーマスは残念そうな顔で、「どうして今はクリスマスじゃないんだろうな」と呟く。だから杏は答えた。

「きっと庭のどこかにヤドリギはあると思うし、夏にクリスマスを迎える国もあるわ」

 微笑んだトーマスの顔が降りてきて、杏はそっと瞳を閉じた。

 今度こそ唇に受けたキスは、未来を誓う新しい約束。

 困難はたくさんあるだろう。

 だけどきっと、トムがいてくれさえすれば、そこは住めば都となるのだ。



 クラスメイトどころか教師たちからも「おまえらやっとか」と呆れられながらも祝福される二人は、途切れることなく四年間コンビを組んだ「殿堂入りの相棒バディ」として、スクールにその名を刻んだのだと。

 共通の友人であるマリーは、後に語った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻想の庭で少年は魔女と出会う 彩瀬あいり @ayase24

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ