緑の庭で約束を(前編)
同い年だという六歳の少年は、まるで絵本に出てくる天使のようで目を見張った。
肌は白く瞳は青い。金色の髪が真夏の太陽の下でキラキラ輝く。日焼けした健康優良児の自分とはなにもかもが違っていて、杏はなんだか恥ずかしくなったものだ。
滞在中の一ケ月、少年の相手役を務めることとなる。宿泊先の異人館にある美しい英国風の庭はまるで夢の世界のよう。拙い英語力に悔し涙を流し、もっと彼と会話がしたいと強く思った。
大きくなったらまた会おう。
子ども同士の小さな約束。
頬へのキスは挨拶だとしても、杏にとって鮮烈な記憶となった。
◇
――トムは覚えてなさそうだけど。
目の前で苦虫を潰したかのような顔をしているトーマスを見て、そっと息を吐く。
「聞いているのか、キョウ・トーヤマ」
「はいはい、聞いてますよ級長さま」
「その態度に問題があると言っているんだが」
「大和撫子なんて幻想よ。イマドキの女性はもっと先進的でなくちゃ」
「今時の女性は、男を泣かせるのか」
「女に負けたって泣きつく男のほうに問題はないの?」
彼の背後で不機嫌面をしている少年たちに目をやると、睨み返される。ついさっきまでは悔しそうにしていたくせに、級長を味方につけた途端にあの態度。虎の威を借る狐は、杏がもっとも嫌うやり方だ。
だから杏は言ってやった。
「たしかにアリスは可愛いけど、選ぶ権利はあると思うの。寄ってたかってアピールしてくる男は御免だわ。申し込むなら正々堂々、ひとりで来なさいよ」
「……僕が聞いていた話と違う」
「なら確認することね。トムが彼らの味方であるように、私はアリスの味方なのよ」
「わかった、改める」
トーマスが重々しく告げたのを背に、杏は女子寮に向かって歩き始めた。
憧れの寄宿学校は、想像以上に窮屈だ。二年経っても変わらない。
留学生の受け入れ――そのなかでも東洋人は杏が初めてということもあってか、教師らも扱いに苦慮しているように感じられる。杏にできることは、まっすぐに強くあることだけ。
――でなくちゃ、
留学がしたい。
杏の希望は、周囲にいい顔をされなかった。外国人と仕事をする機会は増えているとはいえ、あくまでも男の仕事だという考えが強い。貿易商の三井が口利きをしてくれたおかげで、ここにいる。
十三歳から十八歳まで、たったひとり見知らぬ国で生活する。それは、じゃじゃ馬娘と称された杏にとっても容易ではないことだ。
裕福ではない遠山家では、費用の面で期待できない。杏は己の頭脳と度胸で権利を勝ち取ったし、反対をおして留学している以上、気軽に帰国もできない。孤立無援、背水の陣である。
「キョウ、また喧嘩をしたの?」
「失礼ねマリー。私は正当な要求をしたまでよ」
「キョウの正義は
朗らかに笑っているのは、美しい金髪が波打つルームメイト。異国にあって気を許せる大切な友人だ。歴史と伝統のある
マリーもそこそこお金持ちのお嬢様だが、父親が苦労のうえで事業を成功させたらしく、威張ったところのない明るい性格の女の子。杏はそんな彼女を気に入っている。
「なにをそんなにイライラしてるのよ」
「イライラしてるように見える?」
「とっても」
「……それは不覚ね」
寮のティールームに場所を移し、紅茶を淹れたところで問われ、杏は口を尖らせた。思ったことを顔に出しすぎるのが欠点だと自覚している。自分の精神が不調な理由は、もうすぐ始まる制度が原因だろう。
入学して二年も経てば、体力や学力の面で各人に差が生まれ始める。
どんなに仲のよい友人同士であったとしても、成績に差があってはこれから先もずっと同じように付き合っていけるとは限らなくなる。だから、釣り合った者同士で切磋琢磨していこう。
そんな理由で作られたのが、三年生から開始される『
言わんとすることはわかる。学力差で進学先が分かれ、周囲の人間関係が変化していくのは自然の成り行きだ。
だが、それを学校側が宣言して、手をまわすのは違うのではないだろうか。校則に口を出すつもりはないけれど、一方的に決められてしまう杏の相手が問題だ。
「いいじゃない。どうせ学年ごとに変わるんだし。初めてのバディがトーマス・キングズレーだなんて、羨望の的よ」
「憐みじゃないの? もしくは感謝。あの堅物を引き取ってくれて、ありがとうっていう」
「嬉しいくせに」
さらりと言われ、ドキリとする。思わず跳ねてしまった肩はしっかりと見られていたようで、マリーの手が杏の右肩を撫でた。
「だーい好きなトムと一年間一緒よ、眺めていても咎められることはないわ。だってバディだもの」
「……マリー」
「キョウってばほんと可愛いわね。普段はとっても勇ましいのに、恋の話になると途端に女の子になるんだもの。男たちは見る目がないわ」
「仕方がないわ。私は外国から来た留学生。異質な存在よ」
「そこも含めてあなたの魅力よ」
豪語するマリーは、とても綺麗だと杏は思う。
壁面に掛けられている身だしなみ用の鏡に映っているのは、真っ黒い髪を肩の上で揺らしている異邦人だ。入学式は針の
杏だっておとなしくしているつもりだった。幸いにして、見たかぎりではおしとやかな少女である。欧州の人間とは異なる小柄な体格もあって、か弱く見えていたことだろう。
その小さな身体に詰まっているのはとんでもない負けん気であることは半年ほどで露見し、杏は別の意味で有名になる。口の悪い男子に堂々と意見をする彼女を、少女たちは憧れのまなざしで見るようになった。
べつに男の子たちにも受け入れられたい、などと思っているわけではない。故郷にいるときから、お転婆の杏はそういった対象からは外れていたし、なにしろ杏の初恋はあの天使である。
入学してすぐ再会するとは思っていなかったし、成長して理知的な雰囲気を身に着けた少年は、数年で背を伸ばしてさらに素敵になった。今後が楽しみである。
そう。楽しめばいいのだろう。だってこれは杏の意思ではなく、教師による采配なのだから。
進級した教室内は騒がしい。今年から始まるバディの存在は浮足立つものがあるのだろう。
すでに顔見知りの学友とはいえ、親しいというほど打ち解けた者同士は少ない。皆が距離を測りかねているなか、教師が言った。
「キングズレー、今年も級長をお願いできるか」
「わかりました」
「キングズレーのバディは――」
「キョウ・トーヤマです」
「ちょうどいい。おまえたちが皆の見本となり、引っ張っていってくれ」
それはどういう意味かしら先生。
杏が言葉を呑みこんだのは、隣に座っているトーマスが「はい先生」と答えた傍らで舌打ちをしたせいだ。
あの真面目な級長が、先生に反抗的な態度を?
杏の驚きはトーマスにも伝わったらしい。どこか気まずそうに視線を逸らす彼の耳は、赤く染まっている。
隣にいるから知ることができた新たな顔。つい昨日まで、恥ずかしいとかどういう態度を取ればいいかわからないとか、苔のようにじめじめしていた杏の心は急に晴れあがった。我ながら単純だと思うが、切替の早さが己の長所だと自負している。
「一年間、よろしくねトム」
「あまり面倒を起こしてくれるなよ」
「私はそんなに信用ないかしら」
「いや、キミにはキミの考えがあることはわかっている」
「……ありがとう」
「そこで礼を言うキミはやはり変わり者だ」
不思議なものを見る目つきではあったけれど、いままでとは違う距離で視線を受け、杏は恥ずかしさを誤魔化すようにそっぽを向いた。ほんのり染まった頬を見られているとは思わずに。
◇
バディは一年間で変わる。それは人脈を広げるという意味で効果的なのだろうが、継続するコンビもいる。教師にとって模範となる組み合わせは、彼らを見習えという指針にもなるからだろう。
それって丸投げよね、と思わなくもないけれど、今はその考えに迎合している。ナイス判断よ、
嬉しさを顔に押しこめている杏を見て、トーマスは眉根を寄せた。
「またなにか企んでいるのか」
「どういう意味」
「先日の追い出しパーティーであがった悲鳴は、キミが原因だと聞いているが」
「あれは仕方がないわ。渡した卒業祝いの花にたまたま毛虫がいたのよ」
「そうだな。被害にあった男子生徒は以前から評判が悪く、女子生徒にしつこく言い寄っていたらしいが」
「因果応報。天罰が下ったのねえ」
「……そうだな、神は見ているということか」
素知らぬ顔で言ってのける杏に対して、トーマスが口許を緩める。普段は引き結ばれているそれが解けるさまは、杏の心も解かした。
天使の笑顔、その再来。
十六歳になった彼は、外見は少年を通り越してしまった感はあるけれど、面影はきちんと残っていることに気づかされる。
ああ、好きだ。
淡い初恋は、大きな熱となって再び杏を襲う。
四年生も彼の相棒でいられることを、異国の神に感謝した。
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