幻想の庭で少年は魔女と出会う(後編)
いつから認識したのかはもう覚えていないけれど、物心がついたころにはユアンは知っていた。
父や祖母と違って自分の髪は黒い色をしていて、それはとてもおかしいのだと知っていた。
亡くなった母親が黒髪で、祖母はそのことを疎んじていたらしい。
だから、新しい母親のマリーが標準的な髪色をしていることに安堵して、しきりに何かを説いていた。マリーは笑顔で頷いていたし、父もまた見守っていた。
もともと、口数が多いとは言えない父である。大声をあげたり、笑ったりしたところは見たことがないけれど、かといって叱られたこともない。ユアンに対して何かを説くのは祖母の役目であったし、母がいないのだからそれは自然なことだと思っていた。
汚いと言われて髪を短く刈りこまれたこともあるが、髪を引っ張られるよりはずっとマシだ。目に映らないように家の中でも帽子をかぶっていればいいかと思っても、行儀が悪いとひどく叱られたから諦めざるを得なくて。結局ユアンは、髪をうんと短くしていたものだ。
マリーに理由を問われたけれど、こちらのほうが好きだからと言って、押し通していた。
それはきっと、嫌われたくなかったからなのだろう。精一杯、最大限に努力をして必死にすがりついていたけれど、寄宿学校へ行くことが決まったことで、すべては無意味であったのだとわかった。
自分はもういらないから、よそへ出されるのだ。
新しいお母さんのおなかに、赤ちゃんができたから。
ちゃんとした家族ができるから、お父さんにとって偽者の家族である
笑顔で、心の底から嬉しそうに「本当の家族」の誕生を喜んだ祖母の顔が、ユアンの頭にこびりついて、今もなお離れない。
「くそババアだね」
同じ髪色をした人物から口汚い言葉が聞こえて、ユアンは我に返った。
そんな少年の顔を見据えて、もう一度、言い聞かせるようにして告げる。
「くそババアの言うことなんて、気にしなくていいんだよ少年」
強く言いきったあとで頬をゆるませて、黒髪の魔女は話しはじめた。
「私は見てのとおり、この国の人間じゃないのね。留学生なの。このスクールにも、そういう人いるでしょう?」
友好的な人もいれば、そうではない人もいる。
厳粛さが売り文句のスクールの中であっても偏見はたくさんあって、それに晒されて生きてきた。先生にも覚えめでたい優秀な生徒が、裏では自分に対して口汚く罵ってくることなど当たり前だったという。
「最初は従順にしてたんだけどね。ゴーに入りてはゴーに従えって言うじゃない? あっちにとっての普通がそれなら、じゃあこっちも同じように返してあげればいいんじゃないかなって思って反論してあげたわけ。そうしたらさー、なんか、私が言い返すとは思ってなかったみたいで、相手が泣いちゃって。今度は私が悪者だよ。ずるくない?」
口を尖らせて憤慨すると、なおも言葉を続ける。
「自分で言うのもなんだけど、私って黙っていればおとなしい人に見えるのよ。憧れの寄宿学校に通うとなれば、ちょっとでもよく見せたいじゃない。でもやらかしちゃったもんだから、もうそこからは駄目で。フクスイ、ボンに返らずね」
「フクスイ?」
「えーと、なんだっけ。こぼれたミルクは戻らない? 一度やらかしちゃったら戻せないし、割れたガラスも戻らない。でもね、人と人の関係は、そのかぎりではないんだよ少年」
話をしよう。
キミは、キミの言葉で、キミの気持ちを、お父さんに告げよう。
どうして自分は寄宿学校に入ったのか。
その理由を自分で決めてしまわないで、ちゃんと訊きなさい。
「大丈夫だよ。トムは――キミのお父さんのトーマスは、気持ちを顔に出すことは不得手だけど、優しい人だから」
封筒に記された父の名前をひと撫でして、魔女と名乗った女性は柔らかな微笑みを浮かべた。
「帰ろう。家族があなたを待っているから。私も、そろそろ帰らなくちゃ」
「……また会える?」
なぜか名残惜しくて、口をついて言葉が出る。
「どうだろう。お迎えに来てくれたら、来年また会えるかもね。その時には馬を頼むよ。用意するのはかぼちゃじゃなくて、ナスがいいな」
「かぼちゃは馬車で、馬にするならネズミじゃないの?」
それに、野菜に魔法をかけるのは魔女の仕事だ。
ユアンが言うと、「でも、お姫さまを迎えにくるのは、王子さまの仕事だよ」と頬を膨らませる。
陽光を受け、黒い髪が輝く。それはまるで頭を飾るティアラのようで、本当にお姫さまみたいだとユアンは思った。
ユアンが住む地より、もう少し東に実家があるという教師に引率され地元駅に到着すると、父親が迎えに立っていた。どんなふうに言葉を交わせばいいかわからないまま車に乗り込み、結局は無言のまま家に着いてしまう。
ユアンの部屋はなにも変わっていない。きれいに整えられていて、決して疎まれているわけではないのだと、心に明かりがともる。
ギシリと床がきしむ音がした。続いて己の名を呼んだ祖母の声に、身体が強張る。寄宿学校にいる間で伸びてしまった髪。隠そうとする前に、祖母の手が髪を掴んだ。
「また、こんなっ」
「ごめんなさい」
「本当に、どうして、おまえみたいな子がうちに――」
「それはどういう意味ですか、お義母さん」
引きつるような痛みの中、聞こえたのはマリーの声だ。祖母の手がゆるみ、痛みから解放される。俯くユアンの頭上で、いつもは柔らかく話すマリーの冷たい声が響いた。
「いいかげんしつこいですよ」
「なにを言っているの、マリー」
「トーマスから聞きました。亡くなった旦那さまの初恋が東洋の方だそうですね。息子が選んだ相手も東洋人。似た者親子でいいじゃないですか。彼女は素敵な人でした。私は彼女の忘れ形見であるユアンと親子になれることを、嬉しく思っています」
マリーの声は冷ややかだ。こんなふうに言い返す姿を、ユアンはいままで見たことがない。
それは祖母も同じだったのだろう。絶句し、怒りなのか肩が震えている。
「なんの咎もない子どもに、自分本位な嫉妬心をぶつけるのはやめてください。みっともない」
「み――」
「せっかくユアンが帰ってきたんです。邪魔なので、そろそろ帰っていただけますか?」
リビングのソファー。隣にマリーが座り、正面に父が腰を下ろす。
まずはマリーが口を開き、ユアンは自分を産んだ母親とマリーが、学友であったことを初めて知った。
あの学校はマリーや父の母校であり、父はそこで母と出会ったのだという。
留学生を受け入れ始めたばかりで、当時はとても珍しかった。奇異な目で見られることも多かったが、それを吹き飛ばすぐらいに破天荒で、行動的な女性だったのだそうだ。
「僕が寄宿学校に行くことになったのは、邪魔だったからじゃないの……?」
怖々と問うと、父は目を見開いて驚いた。
「どうして、そんなことを」
「……おばあちゃんが」
「母さんは、おまえにそんなことまで――」
「トーマスが悪いと思うわよ。あなた、キョウのことユアンに話してあげているの?」
産みの母の名を出したマリーに、父は口をつぐむ。
キョウというのが、ユアンが三歳のころに事故で亡くなった母親だ。顔も声も、きちんと覚えていない。写真を見た記憶がないのは、祖母が隠してしまったのだろう。
ユアンが生まれる前に亡くなった祖父は、祖母と出会う前に東洋人に恋をした。初恋は鮮烈で、なにかにつけて彼女のことを口にしていたらしい。
そんなことを聞かされ続ければ、祖母だっていい気持ちにはならないだろう。ユアンはほんの少しだけ、祖母を気の毒に感じた。
「僕のお母さん、どんな人だったの?」
「――キョウはとにかくうるさい奴だった」
「まあ、ひどい。あの堅物級長のトーマスがタジタジになるって話題だったのに」
父が顔をしかめると、マリーが軽やかに笑う。
単身で外国に留学するぐらいだ。かなり弁が立ち、学年でも成績は上位とくれば、なにかと目立つ。
級長をしていたトーマスは、仲裁を兼ねて話をする機会が多かった。どんなに嫌味を言われても笑顔でかわし、時には手玉にとって相手をやりこめる姿は、雄々しく感じるものだった。
以来、スクールでは広く留学生を受け入れるようになる。それは、彼女が物怖じすることなく学園生活を送る姿を、教師陣が見ていたからだろう。
最上級生となり、留学生を多く見かけるようになったころ、キョウはトーマスに言ったのだという。
私だって怖くなかったわけじゃないわよ。でも、私が潰れちゃったら、後に続く人がいなくなっちゃう。それは嫌だった。
みんな背が高いし、最初は天使みたいに可愛いのに
でもまあ、今のトムも好きよ。将来はもっとダンディな男になるんでしょうね。
卒業後はどうするのかとトーマスが問うと、キョウは苦笑する。
寄宿学校というモラトリアムな空間ならばともかく、女性が単身海外で働いて暮らしていくには、きっとまだ難しい。帰国せざるを得ないだろうと笑みを浮かべた彼女を衝動的に抱き寄せて、トーマスは「おまえの居場所はここにあるだろう」と囁いた。
寮の前に広がる緑の庭。
その片隅で、男は女に自分との未来を請うた。
あなたがいれば、どこだって住めば都よね。
いつものように母国の言葉を呟いて微笑むキョウに、トーマスは誓いの口づけを送った。
「おばあちゃんは、キョウに対してもいい態度ではなかった。彼女は、よく言っていたよ。トムのお母さんは本当に元気な『くそババア』ねって」
「くそババア?」
「キョウらしい言い草よね」
キッチンから戻ってきたマリーは、テーブルの上にジュースの入ったコップを置くと、膝の上に冊子を広げた。ユアンの目に飛びこんできたのは、古びた写真だ。
「学生時代の写真よ。帰ってきたら見せてあげようって思って、用意しておいたの」
見覚えのある校舎や園庭を背景に、子どもたちが写っている。
ページをめくり、そこでユアンは手を止めた。
「この人がキョウ。あなたのお母さん」
写真の下には「杏」と、ロゴのような形が手書きで記されている。
「キョウの国の文字よ。こんな形をしているらしいわ。これひとつでキョウって読むし『アン』とも読むんですって。不思議よね」
「アン?」
「おまえの名前は、そこからつけた。あの学校は、キョウがこの国で一番長く暮らした場所だ。だから、おまえにも見せてやりたかった。それが、おまえをあそこへやった理由だ」
でもまさか、寮まで俺と同じになるとは思わなかったけどな。
父が小さく笑う声を、ユアンはぼんやりと聞く。
色褪せた紙片の中でたったひとり、真っ黒い髪をして笑う少女。
それは、あの庭で出会い、魔女と名乗った女性に、よく似た顔をしていた。
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