赤はとまれ

香久山 ゆみ

赤はとまれ

 はじめ、花が咲いているのかと思った。

 ずいぶんと遠くから、道の上に赤い色が見えていて、それがじっと動かないものだから。けど、近付くにつれて、花でないことが分かった。赤いランドセルだ。それも、持ち主つきの。

 横断歩道の手前で横に並んだ時も、赤いランドセルの少女は、じっと前を向いたまま屹立してた。ずいぶん向こうの方から見えていたから、かれこれ五分近くこの状態でじっとしているんじゃなかろうか。まさかマネキンではないかと、ちらりと覗き込むと、やはり生身の人間だ。小学校の低学年くらいの女の子。

 じっと立ち尽くして、一体何をしているのか。少女の様子を窺う。少女はきりっと前方を見上げている。赤信号。僕も並んで信号が青に変わるのを待つ。まだ時間には余裕がある。

 しかし、待てど暮らせど、一向に信号は変わらない。まさか、これは壊れているのでは? 一抹の不安を感じ始める。その横を、見切りをつけた自転車や若者が、赤信号のまま道路を渡っていく。少女はじっと赤信号を見つめて健気に立っている。

 さて、どうしたものか。僕も渡りたい。いたって凡人の僕は、自分ひとりであればきっと信号無視をして渡ってしまう。けれど、隣には幼い子がきちんと信号を待っている。その横を知らんぷりして平気で渡っていくような蛮勇は、僕にはない。

 そうこうぼんやりしているうちに、僕らの横をみんなどんどん渡っていく。サラリーマンや老人や、猫までも。猫が道路を渡ろうとした時だけ、少女は「あ」と声を出したが、その場から動きはしなかった。

 そんなこんなで、五分ほど経過した。少女にとっては、計十分だ。もういいだろう。もうじゅうぶんだ。

「ねえ」

 僕は少女に声を掛けた。少女が振り返る。沈み始めた夕陽に、頬がほんのり紅く染まっている。

「この信号ね、たぶん壊れているよ。今なら車も来ていないし、渡ってしまおう」

 少女は大きな目をくりくり開いたまま、ちらりと信号機を見て、また振り返り少し首を傾げた。

「でも、こわれてるって、書いてない」

 確かに。

「渡ったあとに、青に変わったら、信号無視だよ。あたし絶対やだ」

「どうしても信号を守らなきゃいけないの?」

「うん。だって。先生がね。自由日記にね、前にね、あたしだけちゃんと信号守ったって書いた時にね、先生がほめてくれたの。とてもえらいです、これからもいい子でねって」

 少女の瞳は揺るがない。なんとしても絶対に信号を守るんだという確信に満ちている。その目に、僕はそっくりだなと思う。融通が利かないくらい真面目で、頑なで。きっと、これから先、たくさんの苦労をするだろう。いつだって正しい道を選ぶんだけど、いつもそれが受け入れられるとは限らない。それが誰かを傷つけてしまうことだってあるだろう。それでも彼女は強がって涙なんか流さないかもしれない。

 そう思うと、なんだか少女が愛おしくなって、抱きしめたくなったけれど、それでは完全に不審者なので自粛。せめて少女の隣でいっしょに信号を待つことにした。

 どんどん日が暮れて空が赤くなっていく。もう間に合わないかもしれないな。そっとポケットに手を入れ、中の紙を探る。こんな紙切れ一枚。おかしなものだ。同じ紙切れ一枚なのに。あの時はふたり並んで書類に記入して、わざわざ仕事を休んでいっしょに提出しに行った。なのに今は、ぞんざいにポケットに突っ込まれた書類をひとりで出しに行く。こんなことでいいのか? こんなにあっけなく終わらせてしまっても。

 彼女はいつだって正しい。時には息苦しいくらいに。僕はもう耐えられなかった。そう言うと、彼女は大きな目できっと僕を睨みつけ、離婚届を差し出した。彼女の口から別れを切り出されたことは一度もなかった。あれは、あの時の目は、傷ついた涙を堪える時の目ではなかったか。結婚したいと思うほど愛した、融通が利かないほど真っ直ぐで、不器用で、本当はすぐに傷つくくせに強がって、それでもいつも他人の幸せを願うくらい正しくて。放っておけない彼女。今、家にひとりで。泣いていやしないだろうか。僕の、妻は。

 少女が僕の腕をつつく。

「青だよ」

 信号が、青に変わった。確かにきみは正しい。

 行かないの? 少女が僕を振り返る。

「いいんだ。だって、ほら、もう役所も閉まってしまったし」

 腕時計を見せる。五時二分。そのまま少女に手を振る。ほら、青だよ。きみは行って。少女が横断歩道を駆けていく。赤いランドセルがどんどん小さくなる。またね。少女の姿が消えるまでずっと手を振る。真っ赤な西日に照らされて、結婚指輪がきらりと光った。

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