しみ
香久山 ゆみ
しみ
二度目の緊急事態宣言が発令された。新型感染症の世界的流行は未だ収束に至らない。けれど、第一波から約一年経ち新しい生活様式にも良くも悪くも慣れてきた。IT系の我が社ですら第一波ほどの徹底した在宅勤務の指示は出ていないし、実際いくらかのミーティングなどは出勤を前提に予定が組まれている。
そんな中で、相変わらず同期の水谷だけが頑として会社に顔を出さない。もちろん奴のSEとしての腕は俺が一番知っているさ、問題ない。けれど、課長が仕切る打合せなどにも詭弁を並べてリモート参加を押し通すのは、社会人としてどうかと思うわけで。つまり、約一年間、直接奴の姿を見ていないのだ。
最近はリモート会議で顔を会わせる機会もなかったので、久々に電話してみた。
「水谷、久しぶり。元気か?」
「ああ。元気だよ」
「おい、いっぺん会社に出てこいよ」
「やだよ。必要ない」
水谷は少し不機嫌そうな声を出す。
「このご時世にわざわざ表に出るなんてナンセンスだ。本来在宅でできるはずの仕事のために出勤するなんて、うちの会社は世間的におかしいよ。もっと真剣にリスクを回避すべきだ。現にうちの上の階の人だって、地方に引越したみたいだし」
「知り合い?」
人間関係が苦手な水谷に近所付き合いがあったとは。
「いや、違うけど。夏頃にバタバタ大きな音がしたあとに生活音が聞こえなくなったから。引越しは確かだろ。あーあ、会社が許すなら、僕もどっか地方の静かな田舎でのんびりリモートワークに専念したいよ」
溜息混じりに言う。長らくの在宅勤務の間に人間嫌いに拍車がかかったようだ。もともと周囲との関係が薄い水谷が心配になる。狭いアパートの一室に昼夜閉じこもっているなんてよろしくないに決まっている。
「でも、不便だろ」
「べつに。……ああでも、感覚は鋭敏になっているかもしれない」
「感覚が?」
「例えば、視界の隅で虫が動いた気がして振り返ったら何もいなかったり。天井のしみがどんどん人間の形に見えてきたり。窓の外の影とか……。なんかさ、社交に使ってた無駄な感覚を閉ざしたことで、押しやられていた本来の能力が目覚めたのかもしれない。はは」
彼はもともと敏感な奴で、会社でもたまに不思議なことを言った。水谷が「大変だ、トイレの個室が水浸しだ」と言うから見にいったら、まるで水漏れなんかなかったり。「さっきのお客って誰?」と、誰も来ていないのに聞いてきたり。何もないだろと応えると、ああそうかと首を傾げながら引下がる。それで、奴は他人にはそうとは言わないが、たぶん自分には第六感的な能力があると信じている節がある。
だが、恐らくそれはたんに神経過敏が原因だろう。トイレのリノリウムの床が光の加減で濡れて見えたのだろう。視界の端に映った同僚か柱の影かなんかを認識できずにお客と間違えたのだろう。
仕事のストレスが原因なら、会社に出ないことでマシになったかと思ったが、そうでもないらしい。むしろ。俺は同期の身を案じる。先日観たテレビのドキュメンタリー番組を思い出す。孤独死の特集をしていた。人間関係の一切ない独居老人が、誰にも知られずに自宅でたった一人亡くなっていた。
「なあ。そんなおんぼろアパート出て社宅にでも引越せば?」
「やだよ。確かに老朽化して最近下水管詰まってんのか臭いも酷いけどさ。それでもらくだもん。会社の近くに住んだら、溜まり場にされそうで煩わしいし。それに、僕の能力的にもひっそりとした所に住んでた方が気楽だし。はは」
「そうかよW」
笑いながらも俺は考える。どうしてやれば奴にとって一番良いだろうか。コミュニケーションが苦手な彼に行動させるのはあまり得策ではないだろうか。俺だって面倒事はごめんだ。先日のドキュメンタリーの映像が脳裏に過ぎる。異臭がするとの近隣住民の通報により老人が発見された時には、すでに死後数ヶ月が経過していた。腐敗した体からは体液が漏れ、老人が寝る布団の下の畳にまで黒いしみを作っていた。
「なあ、ところでさ」
俺は、なんだかんだ楽しそうに長話に興ずる水谷に、慎重に声を掛ける。
「天井のしみってさ、どんどん濃くなってたりする?」
しみ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます