カモミール

結城 碧

第1話

 待ち合わせまであと二十分。

 九月に控えた運動会にやる応援団の練習の帰り、塾が休みだからと私はカフェで勉強をしていた。

 氷の溶けたはちみつラテを飲み干して、シャープペンシルを筆箱にしまう。テーブルの上には化学の問題集が広げられていたが、脂肪属炭化水素とかエチレンなんか頭に入るわけがなかった。緊張で吐きそうだった。なんで飲んじゃったんだろう、ほんとに吐きそうだった。


 私は五年前に付き合っていた人と再会した。花火大会の終わり、昔私が住んでいたマンションの下で。私が家で一人で花火を見ていた時だった。友達の翔太が「あいつもいるから来なよ、八時半に集合ね?待ってるから来れるなら来て」って一方的に言われて電話は切れた。

 行かない、行ったらまた傷つくだけだ。わかっているのに、私はもう既に家を出ていた。

 どうでも良くなりたかった。辛かった。心が、痛かった。悠希と別れた後に付き合った人とは長続きしなかったし、いい雰囲気になった人とも、段々と会話する気にもなれなくなっていって、いつの間にかメールさえも無視するようになってしまっていった。

 悠希は唯一私が愛せた人だった。だからこそ、新しい人を見つけて早く忘れたかった。一度壊れてしまった関係は、きっともう二度と元には戻らないから。


 何を話そう、どうしようって考えながら、5分も歩かないうちにマンションの下に着いた。手を振る悠希を見たら、会いたくなんかない、ずっと言い聞かせてきた言葉は全く効果を失って、会いたかった、会えてよかったに塗り替えられていく。

 久しぶりって言い合って、少し目線の高い悠希を見つめる。身長が伸びて、また少し雰囲気が変わった気がする。

 翔太の「あーちゃんまだ祭楽しんでないだろ?」という問いに、私は軽く頷く。三人で少し先にある屋台の並んでいる所まで歩くことになった。

「金魚すくいしようよ」と翔太が言う。

「え、私下手だよ?」

「あーわかるわ、すごい下手そう」

悠希が納得したようにうんうんと頷きながらそう言った。

「なんでそんなあーちゃん離れて歩くの?」

「別にそんなに離れてないじゃんか」

「俺ら悲しいわ」

「知らない、勝手に悲しめ」

そんなことを翔太と言い合いながら、翔太がいて良かったとちょっとだけ思った。悠希と二人きりはきっと、耐えられない。

 他愛のない会話をしながら、花火大会から帰っていく人の流れに逆らうように歩いた。やっと辿り着いたとき、さっきまで並んでいたらしい屋台は、もう片付けられ始めていた。金魚すくいも、もう終わってしまっていた。


 目的を失った私たちは、仕方なく方向転換してまた同じ道を引き返す。

「残念…だったね」

悠希が隣でぼそっと呟いた。

「ね」

「金魚すくいしたかったね」

「ね」

 それからは他に何を話すわけでもなく、その夜はすぐに別れた。こんな風に、別れてから電話やメールが来ることが何回もあった。そしていつも急に音沙汰がなくなる。きっと私をただの暇潰しにしか思ってないのだろう。


 その日家に帰ってから悠希と電話をした。大学受験までもうあと半年だったから、私は関係をはっきりさせたかった。

「もう話すのやめよう」って言ったら、悠希はすぐに、「嫌だ」と言った。

「振ったのはそっちじゃん。もうやめようほんとに」と半分苛つきながら言う。

「……今のままじゃだめ?」

馬鹿にしてる、そう思った。私は都合のいい女になんかなりたくなかった。

「今のままは無理、もうやめよう」

「少し考えさせて」

「嫌だ今決めよう」

「無理、明日また改めて話そう」

「……わかった」

 それが昨日のことだ。


 自転車で向かった先は昔悠希と遊んだ公園。あと七分、日が沈んだ公園で私は自転車を降りる。少し遅れてやってきた悠希は、どっか座る?と言って、公園の奥に進んでいく。私は後ろをゆっくりとついていった。

 二十代後半くらいの女の人二人が缶ビール片手に大声で会社の愚痴を言いあっている横を通り過ぎ、街灯に照らされたベンチの前で二人は立ち止まる。悠希に先に座るように促されて、私はベンチの左側に座った。

 少し間を空けて座った悠希は髪を指してこう言った。

「髪、染めたんだよね」

「え、そうなの?」

元々綺麗な栗色の髪だったから、染めなくてもいいのに、と思った。

「ライト当てたらわかる」

そう言って照らし出された髪は確かに茶色かった。

「ほんとだ?ちょっとちゃい……」

「嘘だよ」

「え?」

「信じた?バカじゃん」

そう言いながら笑う悠希を見たら、緊張してるこっちが馬鹿馬鹿しくなってきて、私も笑った。

「で、なに?」目を見てそう言われて言葉に詰まる。

「なにって何?」

「これからどうしたいの?」

私は地面を見つめながら、私は本当はどうしたいんだろうと考える。

「え、何?泣いてる?」

黙ってしまった私の顔を覗き込んでくる悠希の目は真っ直ぐ私を見ていた。


「そっちはどうでもいいって思ってるんでしょ」

「どうでもいいって思ってたら会わない」

そう言った悠希はいつの間にか数センチの距離まで近づいてきていて、私は固まって、緊張で息が浅くなる。

「なんでそんな緊張してるの?」

「してない」

「してるじゃん」

「してないってば、ウザい」

 私の反応を楽しんでるのが伝わってきて、余裕がないのは私だけだった。


「もう会わないほうがいいのかな」

「そ、うだね」

自分が昨日言い出した事なのに、言葉に詰まった。

「お互いにいいのかな」と悠希は遠くを眺めて言う。

「うん」

「俺のこと嫌い?」

「……うん」

「ほんとに?」

悠希は目を覗き込んでくるけれど、私は目を合わせられないまま頷いた。

「近いって」と言いながら悠希の肩を押しのけて誤魔化す。

「離れるよ?離れていいの?」

からかうように問いかける悠希の声はどこか楽しそうで、私は黙ったまま動けなかった。このままずっと隣にいたかった。

 ふと顔を上げると、悠希は私を見て微笑んでいた。優しそうな笑顔だった。

 そっと肩に手を回され、手を握られた。全然嫌じゃなかった。終わらせたくなんか、なかった。


「絶対、私のこと馬鹿にしてるよね?」

「してな、くはないよ」

「ほら、ひどい!絶対動物かなんかだと思ってるでしょ」

「犬か猫だと思ってる」

「……帰るよ?」

私は悠希をもう一度押しのける。

「ごめんってば」

そう言って微笑みながら私の頭を優しく撫でる。

「さっきまで応援団の練習してたから汗で汚いよ」

「うわ!最悪っ」と言って手を拭く悠希に

「……ひどい」と言って睨む。

 本当に意味がわからなかった、この状況が。なんで私にそんなに触れるの?どう思ってるの?悠希は別に私のことは好きではない、わかってる……わかってる。

「遊んでると思ってる?」

悠希がまた顔を覗き込むようにして聞いてくる。

「思ってる」

「ひどい」

「だって遊んでるじゃん。どうでもいいんでしょ?私のことなんか」

「なんでそうなんの?てゆーかさ、茜音はいいこなんだから俺みたいなヤツと話さないほうがいいよ」

 意味がわからなかった。そんなの関係ないくらい好きだった。嫌なところを含めて、好きだった。

「茜音が笑っていられるならそれでいい、俺のせいで泣いて欲しくない」

「別に私が泣いたところでどうだっていいでしょ」

「……良くない」

思ってないくせに、と心の中で毒づく。泣いて欲しくないって何?気持ちに応える気なんかないくせに。


「ほんとに、もう話さない?受験終わっても?」

「うん」

私は悠希の目が見れなかった。


「もう帰ろう」と諦めたように悠希が立ち上がる。

「そう、だね」

 先に歩き始めた悠希を見て、私も遅れて立ち上がる。もう、終わりなんだ。

 自転車を置いた場所につき、自転車の前で立ち止まる。

 これで終わりなのか、と思ったら、最後に言える気がした。最後に言いたくなった。

「もう会わないよね?なら最後に言いたいこと、ある」

「そうだね、もう会わない。これが一番お互いにとっていいんだよ」

吐き捨てるように悠希が放った言葉に、胸が詰まる。

「それで?言いたいことって何」

 じっと見つめてくる悠希の目を見て、もう会えないんだって思ったら、急に怖くなって言えなくなった。

「やっぱりなんでもない、もう帰ろう」

そう言って歩き出そうとしたら、悠希に急に両手首をぎゅっと強く掴まれた。

「だめ、言わなきゃ帰さない」

「やだ、なんで」

「言って」

「帰る」

進もうとするけれど手はぎゅっと更に強く掴まれる。痛くないほどだったけれど、全然振り解けなかった。

 辛くて悲しくて泣きそうになりながら、弱い力で振り解こうとしたら――抱きしめられた。

 悠希の腕の中は優しくて、暖かかった。抑えていた涙が溢れ出して、もうやだ帰るって言いながら、泣いた。悠希はごめんね、ごめんって言いながらぎゅっと更に抱きしめる。


 優しいカモミールの香りがした。


 ずっとこうしていたい気持ちを振り切って、顔を上げ、涙を拭いて深く息をする。2人の間には深く柔らかな沈黙が流れた。

「まずは、いままでありがとう」と頭を下げる。

「うん」

「ほんとのほんとに、好きでした」

私は初めてちゃんと悠希の目を真っ直ぐ見て告げた。

 その瞬間、手首にかけられていた力がすっと解けた。


 自転車に跨り、「ほんとに好きだった」ともう一度言う。

「何かが違かったのかな」

「たぶんそう、すごーく好きだった」

「そんな俺大したことしてない」

「確かに」

二人で顔を見合わせて笑い合う。

 本当に好きだった。

「じゃあ私こっちだから」

「うん。もし、十年後とかにまたあったらその時は」と言いかけて悠希は口をつぐむ。

「またね」と私が言うと

「またじゃないよ」

そうだった……そうだった。

「ばいばい」

「ばいばい」

私は最大の笑顔で手を振った。泣き顔なんか見せるもんか、半分意地だった。


 私の初恋は終わってしまったのだ。


 漕ぎ出した自転車のペダルは行きよりずっと軽かった。空を見上げると満月が輝き、夜道を走る私の道を照らし出してくれる。

 夜風は、微かにカモミールの香りがした。

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