発酵と腐敗の違い

「ごめんなさい、全部嘘なの、全部嘘でした。」

「俺のこと好きだっていうのも?」

「うん」

 私は最低な女だ。

 彼の力の抜けた絶望の顔が空間と一緒に頬の肉が腐って崩れ落ちたようになっていた。

 本当に、私は最低だ。

 私の人生は彼の親に狂わされたのだ。私の家庭はめちゃくちゃになった。父は逃げた。母はのめり込んでどこかに消えた。

 だから彼に近づいて、それで何か変えられると思った。彼に好意を持ったふりをして接近し、あの団体を内側から壊してやろうとしたのだ。

 それなのに。

 彼はそう、何もなかったのだ。

 いたく普通で、どこまでも平凡で、ちょっぴりウブで。でもちょっとHで。

 本当にあの親から血を分かったのかと疑うほどに。普通の男だったのだ。

 私は落胆した。

 幾ら体を彼に差し出しても、幾ら親切にしても何も黒いものは出てこなかったのだ。真っ白なミルクのようになめらかな人となりだった。

 憎らしいことに、彼は知らなかった。彼の親がどういう人間で、どんなに酷い所業をおこなってきたのかを。

 呑気なことに、両親は普通の会社員とパートだと思っていたのだ。

 実家は普通の一軒家だったし、そんな贅沢さはなく、むしろケチだったというのだ。

 ———ふざけるな。と、ぶん殴りたくなった時は数えきれない。その普通が気に食わなかった。

 その普通すら奪われた人間の気持ちなんて、わかるはずがない。人間は他人の気持ちなんてわかっているようでわかっていない。

 ただ、じっと待ってボロが出てくるまで、粘った。それでも彼はどこまで行ってもいち一般大衆のその内だった。

 そのままズルズルと恋愛ごっこは続いていった。

 そのうちに私の中でだんだん何かが固形化してしまってきたのがわかった気がした。

 どうやら、本当に好きになってしまったようなのだった。

 そこで葛藤が生まれ始めた。この気持ちをどうしたらいいのかわからなくなった。それが大きくなってきてわだかまりは選択という狭まれた塊へと変わっていった。

 だからこうするしかなかった。

 私も彼も一緒にいたらこの固形物ごと腐ってしまう。

 一緒にいたら不幸になる。

 消えうるように走って逃げた。彼は項垂れたまま追ってこなかった。だんだん背景に溶け込んで小さくなっていく彼が脳裏にこびりついてしまって、なんだかドロドロと泣けてきてしまった。

 気がつくと、いつもの店の前に立っていた。

 ここのママは、私と同じ境遇で、同情心からか、私を小さい頃から母代わりで育ててくれた。独り立ちした今でも何かあるたびに店に通い詰めている。

 ホッとした。実家に帰ってきたような気がした。

 からんからん、とドアの開く音を掻き立てた。

 ビンとグラスとぬるい照明に照らされた変わらないここが、何よりも嬉しくて、入店したまま立ち尽くして泣いてしまった。

 霞む視界の先で奥からふくよかなマダムが出てきたのがわかった。

「あらいらっしゃい、って悠実じゃないの!どうしたのよ、せっかくの化粧がドロドロよ?おしぼりでいいなら顔、拭けばいいから、早くこっちは入りなさい。積もる話もあるでしょう」

 カウンターに座る。その日は本当にたまたま、客がいなかったので二人きりの時間を過ごせた。

 ほんのり暖かいおしぼりで顔を拭く。

「……はい、これサービス」

 どん、と小ぶりのガラスのコップに入った飲み物が置かれた。

「何、コレ…」

「いいから飲んでみて」

 口当たりはまろやかだ。

「って、うっ…酸っっぱ!」

 ニヤリとママは笑った。悪戯でもしたかったのだろうか。そんな人間ではないことは確かだが、今の心持ちでは疑ってしまうのも致し方ない。

「牛乳の発酵酒。珍しいでしょ?」

「これ、酸っぱすぎるよー!腐ってるんじゃないの?!」

 さっきまでの憂鬱な時間は酸味で吹っ飛んでしまった。

「元気出るでしょ。ところでさ、アンタ。発酵と腐敗の違いって何か知ってる?」

「違い?」

「そう、違い」

「菌が違うとか?それとも発酵と腐敗で物質が変わるから?」

。それだけよ」

 キッパリとして、どこが自慢げに言い放った。そして、え、それだけ?と思ってしまった。

「マジ?!」

「大マジよ、結局は人間にとってどうかなのよ」

 呆気なく、そして衝撃だった。

 自分にとって都合が良いか悪いかそれだけなのだ。地球を守ろうという語呂に(我々にとって都合のいい)地球を守ろうという意味が省略されているように。主義、文句、思想、それら全てが、人間盲目的であるが故の産物であるのだと。


「酸味———の、わかる人になってちょーだいね…」


「え?」

「いーや何でも?」

 ママ微笑を浮かべて誤魔化した。が、何が言いたいかなんとなくわかった気がした。

 それが今までの人生で一番濃い七夕Milky wayの日だった。

 

 その後、彼とは会っていない。そして私は大学卒業後、一念発起して警察官になった。今ではあの団体の対策本部にいる。

 

 いつか再開した時、私は彼になんと言えば良いのだろうか。何も言えないと思う。

 言葉が詰まって「……」となってしまうだろう。

 それでも、私にできる限りのことをして、けじめをつけ、彼に会いに行きたい。


 この気持ちは嘘じゃないのだから。

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