第二章 23.久方ぶりの抱き枕(2)
「来るなら来ると、いってくれ」
フィルオードが低い声で訴えた。
「いや、こっちに来るのはもう少し先のはずだったんだよ。でもちょっと、番狂わせが」
「番狂わせ?」
「兄さん二人がお嫁さんを迎えるにあたって、小姑の私は家から追いだされそうになっててさ」
「は……?」
「ほら、前に会ったでしょ、ゲイル。私をゲイルの嫁にどうかって、父さんがごり押ししちゃって。あ、いきなりは嫁がないよ。まだ十二だし。でもその代わり、週に何度か、ゲイルの家の手伝いを――」
「……だ……」
「え、なに?」
「駄目だ!」
アリスをぎゅうぎゅう抱き締め、フィルオードが叫んだ。
「そんなの、狼の巣に行くようなものだ。あっという間に、食われてしまう」
なにやら必死で、訴えてくる。
「狼って……」
あなたがそれをいう? とアリスは呆れたが、引き留められるとなんだかくすぐったかった。
「大丈夫よ。嫁がないために、フクマの誘いに乗ったの」
フクマの手伝いが面白くなったとかなんとかいって、当分家には帰らないつもりだと、アリスは説明する。
「フクマより僕を頼ってほしかった」
フィルオードが不機嫌な声で唸る。
「連絡の取りようがなかったんだよ。だってフィル、ずうっと来ないんだもん」
アリスは、淡々と事実を述べた。
「それと、ちょっと遠慮してた」
「遠慮?」
「私もね、聞いたから。フィルとブロアの王女様の縁談」
「違う! 縁談なんて受けない!」
ぎゅむっとフィルオードが腕に力を込める。ぐえっとアリスは声を上げた。
「ぐ、ぐるじい」
「僕の気持ちなんて、二十年も前から知っているくせに」
「わ、わかった、わかったから」
「本当に?」
腕を緩めつつ、肩越しにフィルオードが覗き込む。
「じゃあ、キスしていい?」
「はあ? なんでそうなる」
「さっきはそちらからしてくれたじゃないか」
「あれは、緊急措置で」
「いまも緊急事態。また暴発しそうだ……」
いうが早いか、フィルオードは肩をつかんで自分の向かい合わせにアリスの身体をまわし、顔を近付けてくる。
「ちょっと、やめ」
アリスは咄嗟に手のひらで押し返したが、
「甘い匂いがする……」
フィルオードは手のひらに口付け、陶然と呟く。
「うわ、フィルが変態に……!」
「そうだよ。だから、明日からは僕のベッドで寝てよ」
「なにが、『だから』よ!」
「このベッド、ちょっと小ぶりだから」
「フィルのベッドは不味いよ。人に見られたら、王弟殿下の寝所に子供が! って騒ぎになる」
「僕の部屋には、ジェイクくらいしか入れないから大丈夫」
「うーん、でもねぇ」
アリスは考え、首を横にふった。
「やっぱりやめとく」
「仕方がない。じゃあ、毎晩僕がここに来るか……」
フィルオードはあっさり諦め、ふうっと息を吐いて弛緩する。
「ちょっと、ここで寝る気?」
「朝になったら、戻るから」
「本当に、自由だね……」
「自由なもんか」
嘆息気味にフィルオードが反論する。
「明日は、第二王女を花の市に案内するから、一日拘束だ」
「げ、市」
「なに?」
「いや、なんでも」
なんでもなくはなかった。明日の市にはアリスも行くつもりだったから。
「……彼女のことは気付いているだろう?」
「うん」
「任せていいか?」
「うん。彼女、欲しい?」
「僕が欲しいのは、君だけだ」
「……左様で」
「彼女のことは……、嫁でなければ、なんとでも」
「了解」
第二王女のことは追々、ということで。
明日は花の市!
アリスが明日のことに気を取られていると、ふっと顔に呼気を感じた。
あっと思ったときには、すでに唇に柔らかいものが押し当てられていた。
フィルオードにキスされている。
「ん……! ちょっ、んん、フィル!」
逃げようとしたが、頭の後ろを大きな手でがっちり固定されて、まったく動けない。
「僕を、暴走、させたく、ないなら、大人しく、食べられて」
フィルオードが宥めるようにいいながら、ついばむように何度も唇を食む。
薄情な人は唇が薄いというけれど、フィルオードの唇は意外にも厚くて熱い。
なんて感想を抱きつつ、アリスはキスとキスの合間に悲鳴を上げた。
「私の、初チュー、が……!」
「初めてじゃない。キスするのは三回目」
救助目的じゃないのは初めてだけど。
闇の中でフィルオードが嬉しそうに目を細め、再びアリスの唇をついばみ始める。
最初の内は身を強張らせていたアリスだが、しつこくチューチューやられているうちに唇のぬくもりに慣れてきて、いつの間にやら忘我の境地。
「……これから毎晩夜這いするから」
不穏な宣言を子守歌に、フィルオードの腕の中でいつしか眠りに落ちていた。
アリスと『アリアの書』 春坂咲月 @harusakaya
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