第五章 素晴らしきかな 日本国憲法第21条
その1
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン! ええいっ!」
午前六時、まだ夜も明けきらぬなか、不動明王の
暖冬とはいえ十一月。くわえて標高の高い大菩薩峠ともなれば気温は低く、流れる川の水は零度になる。当然息は凍り、素足で水中に一歩でも踏み込めば骨まで染みるというのも生易しい突き刺すような冷たさであった。
──と言っても、こんなもん真冬の本栖湖でやらされた着衣水泳ほどじゃないだろう。
そんな風に先崎であったが、皆に続いて水のなかへ一歩足を踏み入れたとたん余裕なぞ一瞬にして消し飛んでしまった。
「がっはっは! どうしたあ、若いの? でっかい図体をしているくせにだらしがないぞぉ!?」
かつて冬季戦技教育隊でスキー教官をしていたという五十代後半の小柄なインストラクターが、愉快そうに笑いながら背中をバシバシ叩いてくる。純粋に元気づけようという面もあるのだろうが、同時にセミナー初参加の先崎が今後も訓練に耐えられそうかどうかチェックしているのだろう。
その証拠にインストラクターは、早々に音を上げて毛布にくるまり一斗缶の焚き火にあたっている少なくない数のセミナー参加者たちを指さして「どうするね? 無理そうならリタイアしても全然かまわないんだぞ?」と確認してきた。
──おいおい冗談だろう!? この俺をまさか落伍者あつかいかよ!?
先崎はきつく奥歯を噛み締めた。いや、噛み締めようとした。しかし歯の根が合わず、ただガタガタ震えることしかできなかった。
なんということか。極限状態における生存には適度な脂肪が必須であると、あの地獄の部隊セレクションで身を持って学んだはずではないか。
それなのにまさか、日々のトレーニングで身体を絞り過ぎてしまうなんて!
自衛隊を辞めたあとも己を律した生活を送ってきたつもりが、知らず知らずのうちにここまで緩みきっていた自分の不甲斐なさに、先崎は打ちのめされる想いだった。
が、しかし。
だからといってセミナー参加初日、それも朝一番の訓練でリタイアなんてした日には、ヒバにどれだけイジられることになるかわかったもんじゃない。どうせ嫌味ったらしく深々とため息をついて、「あのな? おまえさんから体力をとったら、いったいなにが残るってんだ? 教えてくれよ?」とかなんとかからかわれるにきまっているのだ。じつに腹立たしい。
そんなことを考えているうちに身体が順応してきたのか、先崎は腹の奥底から力が湧き出してくるのを感じた。
「ぬっおおおおお~! ファイトー! いっぱぁぁつ!」
リタイアして焚き火にあたる一団のなかから「うを!? 懐かしい!」という声が上がるなか、ついさっきまで濡れたチワワのごとく震えていたのはどこへやら、先崎は雄叫びと共に不動明王のマントラを唱えながら、さらなる川の深みへとジャブジャブと進んでいく。
「おお、やるじゃねえか!?」
早々に先崎を落伍者あつかいしていたインストラクターが見直したように唸る。
「この低温下でそんだけ動けるたぁ、おまえさん、もしかして冬戦教持ちかい?」
「はっはっはっ。残念ながら部隊にいた頃はスキー徽章を取るチャンスがありませんでしたので……」
代わりに、
もっとも、わざわざこちらから素性を明かさずとも、このセミナーの主催者団体ならば先崎が元
そして小松原の見立てが正しければ、元〝S〟である先崎は〝彼ら〟が求める必要条件を満たしている。あとは、この三日間におよぶ訓練セミナーで元〝S〟として能力を存分に示し、そして何より〝彼ら〟の思想に同調するであろうと見なされれば、向こうから〝同志〟となるよう誘いかけてくるだろう。
そのためにも、こんなところで日和っているわけにはいかない。
「オン・アビラ・ウンヌンカンヌン……ヴァジュラオン・アーク!」
気合を入れなおし、ひときわ声高くマントラを唱えた先崎は、リタイア組の「うわ!? また懐かしすぎる!?」「ガキのとき、アニメ観てたわ〜」等の声を背中に聞きながら、つい三日ほどまえ、鎌倉警察署の応接室で聞かされた今回の〝作業〟についての目的を思い出していた。
『いいですか、先崎さん。あなたに潜入して確認していただきたいことはふたつ。ひとつは〝彼ら〟の思想の同調者が自衛隊にどれほど浸透しているか。そして今ひとつが──』
※
Fire&Assault ヒバサキ探偵事務所の事件簿 ゆうたろう丸 @youtarou-maru
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