君の好きなベースは弾かない

海野夏

君の好きなベースは弾かない

 風呂場のシャワーの音で目が覚めた。

 時計を見るともうすぐ日付が変わる頃。クーラーも点けずに寝ていたから、寝汗で身体がベタつく。扇風機があるとはいえ、この暑さでよく死ななかったな。

 先に腹を満たすか、汗を洗い流すか。

 すーっと部屋の戸を開けると、脱ぎ捨てられた浴衣が廊下の上でくたばっていた。玄関で脱ぎ捨てられた下駄から、足袋に、紐に、飾りに帯に、足跡のように続いている。反対の端、風呂場の戸の前には見覚えのある下着が落ちていて、誰がシャワーを浴びているのかを示していた。

 行儀の悪い奴め。

「チカ、俺も入っていい?」

「駄目。あと三〇分待って」

「長いよ」

 俺のささやかな抗議なんて聞いてないチカは、中でご機嫌な鼻歌を歌っている。これは三〇分以上出てこないな。


 チカは俺の従妹だ。今は高校生だったはず。彼女がうちに来る時は、大抵どこかの誰かと遊びたい時だ。叔母さんがうるさいから、俺のところへ行って勉強教えてもらうと言っているらしい。一応俺も高校時代は難関校に通っていた。大学だって名門大学に入学してはいる、……中退したが。だからそれなりに頭はあるのだ。

 で、それをチカに都合よく使われているというわけ。

 チカのいつもの遊び相手は誰だか知らない。前に何度か街で見かけたことがある。しかしいずれも違う男といた。……俺には関係ない話だから、何も言うまいと見て見ぬふりをした。

 そんな彼女が、今日は夏祭りに行くと言って、浴衣や小物一式を持ってきた。

「ミナトくん着付けできるでしょ? やって」

 ドン、とカバンを押しつけられ、ズカズカ家に上がり込むチカの後ろ姿に、一体誰に似たのかと、俺は叔父叔母の顔を思い浮かべた。

 そして綺麗に着飾った彼女は誰かにそれを見せびらかしてきて、帰って早々に俺が丁寧に着せたものを、プレゼントが待ちきれない子供のようにバラバラと解いてしまったらしい。暑かったのだろう、そう思うことで我慢することにした。


 当分風呂は空かないだろうし、先に何か腹に入れようとキッチンに立ったが、それも面倒くさくなってきた。ひとまず水分補給、水道から水を汲む。……ぬるま湯だ。

 冷蔵庫の中にはチーズが一かけと、ビールとラムネが一本ずつ、あとは凍ってない氷枕。

「明日は買い出しに行かないとな……」

 ラムネはチカが飲むだろうし、チーズとぬるま湯を持って、さっき出てきた部屋に戻った。日が沈んでもまだ空気は暑く、文明の利器に頼るべくリモコンを握る。チカが出てきて暑いと嫌だろうから……。

 俺の生活は随分チカに侵食されてしまっていた。従妹と言うには近くて、家族と言うには熱があり、恋人と言うには冷めすぎて。都合の良い関係と言うのがピッタリ合うが、やはり俺たちは血の繋がった従兄妹でしかない。従兄妹は結婚できるんだっけ。まぁ法律的にオーケーでも、親類縁者から非難轟々だろうな。

 そう、堂々巡りしているのはきっと俺だけで、チカはきっと何も考えてやしない。そういう対象じゃないのだ。

 二十七歳、男、フリーター兼バンドマン。

 俺はチカが好きだ。


 さっき寝落ちするまでに書いていた歌詞は最後まで仕上がっていた。確認するにも一旦置いて明日にしたい。メールも何も来てないし、手持ち無沙汰になって、そばに転がっていたギターを触る。

 普段はベース担当だけど、ギターは作詞する時に使えるし、何なら今のメンバーに落ち着く前は俺がギター担当だったこともあった。

 何を弾こうか、ジャラジャラ音を鳴らしながら、次の新曲のメロディを頭に流す。ギターはこんな感じだったっけ。誰も聴く人はいないから今は適当。

「私、やっぱりギターよりベースの音の方が好きだな。お腹の奥に響くのがクセになる感じ」

「……チカ、髪拭きなって」

 バスタオルを巻いただけのチカが、入り口に立っていた。

 彼女は俺からギターを取り上げると、あぐらをかいた脚の上に座り、さも当然のようにもう一枚のタオルと頭を差し出してきた。

 ……拭けってことか、人の気も知らないで。

「嫌ならこのまま布団に寝転がってびしゃびしゃにしてあげるけど」

「丁重に拭かせていただきます」

 濡れた黒髪からしたたる雫が冷たい。それを夏の熱気を含んだタオルで包んで、彼女の髪が明日も誰かの目を奪うように、丁寧に乾かしていく。ただ一心に、甘い香りも白い首筋も意識の外に追いやる。

「どうしてミナトくん、ベース弾けるくせに私がいる時はギターばっかり弾くの?」

 もういいかな、というところで、チカが不服そうに声をかけてきた。形のいい脚を折りたたみ、脇へ退けたギターの弦を白い指が弾く。やる気のない音がした。

「さぁ。……チカが好きだからかな。ベース」

「なぁにそれ、私への嫌がらせ?」

 チカは本気にしないで、クスクスと笑った。まるで彼女の方が俺より遥かに年上であるかのような、いや、俺が子供であるような無力感。

 チカが好きだから好きでもないベースを取った。でも、俺がチカを好きだから、幻滅されたくなくて彼女の前では弾けない。

 それに……。

「また今度ね」

「いつもそういうんだもん、今度こそって思うのに。いつかライブ聴きに行ってやろ」

「はは、どうせ来ないくせに」

「まーね。だから聞かせてって言ってるのに」

 甘い香りの桃のように膨らませた頬を、悪い大人がかじる前に、つっついてしぼませた。

 彼女の肩が冷えるから手に持ったタオルを掛け、彼女のために用意した座布団に座らせる。俺も頭を冷やしてくるか、と戸を開けると、まだ脱ぎ散らかした浴衣が落ちていた。

 彼女にとって都合のいい俺は、それを回収しながら風呂場へ向かったのだった。


 いつまでもここに来てほしいから、なんて。……ただの延命だよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君の好きなベースは弾かない 海野夏 @penguin_blue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説