愛しい生活は溶けて

水戸山あも

初めましての魔法

ユウト 23歳 営業 身長174cm


初めまして!プロフィール読んでいただきありがとうございます。

会社と自宅の行き来ばかりで癒しがないので登録してみました(^ ^)


趣味は映画と音楽とフットサルです。


好きなタイプはよく食べよく笑う人です!

良い人と出会えればと思います。仲良くなったら気軽に飲みにでも行きましょう!

よろしくお願いします。




顔は写真じゃどうも判断できない。

ゆるくパーマがかかった黒髪、少し離れ気味の奥二重。口元はマスクで隠れていて分からなかったが、私の好きな系統ではありそうな感じ。

まあ、写真ではそこそこイケメンだったのに実物残念なんて、マッチングアプリではよくよくよくあることだ。顔に期待をするだけ無駄。

かく言う私も、ギリギリのナチュラルさを残しつつもガッツリ加工写真(もしくは奇跡的に良さげに撮れた"雰囲気盛れ"している写真)を使っているから、同罪。

私はこんなに大きい目は持っていないし、顎もこんなにシャープじゃない。ちなみに私も奥二重の部類なので、近々埋没をしようと企んでいる。二重整形なんてプチ中のプチすぎて整形に入らないと思う。私の顔面は実質無課金だ。


設定されている趣味タグや理想のデートプランが少し私と近かったから、ざっとプロフィール全体を読んでとりあえず右スワイプ。

【ユウトさんとマッチしました!】とピンクの画面が表示された。

この画面を見るのはこれで何回目だろうか。


このアプリでは、異性から届いたいいねを"お返し"する時に右スワイプをする。逆に、こいつは無いなと思ったら左スワイプでごめんなさい。誰にでもできる簡単なシステム。数時間アプリを開かず放置していると100件以上のいいねが届いていたりするので、左右の振り分け作業はほぼ惰性で行われている。だから写真をよく見ないまま左に流してしまい、後々になって「あれ?もしかしてさっきの人カッコよかったんじゃ?」と後悔するのも日常茶飯事なのだ。この場合はご縁がなかったのだと自分に言い聞かせてまた次へ。あとたまに50歳くらいの人からいいねが来ることもある。父親より年上はさすがに勘弁してほしい。


他にも届いていた殿方からの擬似告白を流したり受け入れたりしていると、先ほどマッチしたユウトさんからメッセージが届いた。


『初めまして!マッチできて嬉しいです。よろしくお願いします!』

当たり障りのない模範的な初めまして。

『初めまして。サキです。こちらこそよろしくお願いします!』

こちらも平均点を叩き出す。

『サキさんも音楽お好きなんですね!ちなみに僕はFEELSってバンドが好きです^^あんまり有名じゃないですけど…』

最初の挨拶だけでメッセージが途切れることも多い中で、ユウトさんは話を繋げてくれた。これは点数高い。ちゃんと自分から話題を振ることができるコミュニケーション能力の高さ。かつお互いの好みに沿った返しやすく膨らみやすい内容。もともと開示されているパーソナルな情報がかなり限られているマッチングアプリでの出会いにおいて、こういう端々から読み取れる細かい情報は、それが憶測であったとしてもかなり重要になってくる。

FEELSというバンドは知らなかったのですぐに調べてみた。サブスクには2枚のアルバムと1枚のEP、十数曲のシングル。動画投稿サイトにはMVが3本上がっていた。アー写にもMVにもメンバーの顔はなく、最近よく見る顔出し無しアーティストらしい。

私はその中の1曲、適当にトップソングの上の方にあった[薬指]を再生してみた。サウンド感は軽快なピアノロック。曲の雰囲気とはミスマッチな、叶わない恋をしてしまった女の気持ちを生々しく書いた歌詞。そのアンバランスさが、女の強さと狡さを感じさせる。顔も分からない男性ボーカルは良くも悪くも今風の、どこかで聴いたことのあるような声だった。

このバンドを好きな気持ちも、いまいち売れない理由もわかる気がした。


『FEELS、気になったので聴いてきました。すごく良いですね!ちょっとハマりそうです(^ ^)』

"すごく"良いとは思えなかった。まあ聴けるかなってレベル。でも、すぐに再生を止めることなくアルバムを聴きながらユウトさんへ返信をしたので、若干ハマる兆しはあるのかもしれない。


「あ、これ良い」


思わず声を出してしまった。

アルバムの4曲目が流れてきた時、私の耳と心は完全に奪われていた。

曲名を確認する。

[愛しい生活は溶けて]と表示されている3分と少しの曲。

二人一緒に過ごした時間を思い出して、ゆっくりと前に進む曲。甘いだけじゃない人生を、ボーカルが優しく歌い上げていた。


聴き入っていると、ユウトさんから返信があった。


『ホント良いですよね!僕は[愛しい生活は溶けて]って曲が一番お気に入りなんです!サキさんもぜひ聴いてみてください!』


一緒だ。

この人は私と似ているのかも。たまたま同じ曲が好きってだけでやっぱり親近感というか、話していて楽しいものだ。自分と近いものを持っている人に好感を抱くのはごく一般的なことで、別にユウトさん自身に魅力を感じているわけではなかった。ただ、この人とはなんとなく仲良くなれそうだと思った。


それからしばらくメッセージで他愛もない話をした。

結局Mr.Childrenが最高だとか、テアトル梅田の閉館が悲しいとか、下北沢のカフェのアイスキャラメルラテが薄すぎてほぼ水だったとか、好きなポテチの味とか、今年の夏は暑くなりそうだとか、いろんな話をした。どんな話題でも驚くほど共感する場面が多かった。お互いに考え方や気持ちを肯定していると、まるで生き方や人生そのものまで肯定し合っているようで嬉しかった。私たちが生きてきた道、見てきたもの、感じてきた世界こそが正しいんじゃないかと突飛で馬鹿げたことを考える。どんなことだってこの人なら受け止めてくれるんじゃないかな。たとえ、どんなことだって。

たくさんのメッセージを交わす度に、彼をもっと知りたくなった。

メッセージを続けて1週間が経ったある日、彼から「実際に会ってみたいから近々ご飯でもどうですか?」と誘われた。もちろん快諾した。

私の中で、ユウトさんへの興味は募っていくばかりだった。どんな顔で、どんな声で、どんな仕草をするんだろう。どんな風に笑うんだろう。身長、本当に174cmもあるのかな。歌は上手なのかな。あ、なんだか絵は下手そうな気がする。映画は字幕で観るタイプだろうし、居酒屋の1杯目はビールと見せかけてハイボール派っぽい。紅茶よりコーヒー派で、タバコは何の銘柄なんだろう。加熱式より紙巻きがいい。かっこいいから。ああ、早く会ってみたい。


それからさらに3日経ち、ついに実際に会う日がやってきた。ユウトさんのことが気になって、他の男性ユーザーからのメッセージは手付かずだった。どうしてこんなにユウトさんにこだわるのか、自分でも分からない。ただ、何かが始まる予感をひしひしと感じていた。女の勘ってやつだ。


『じゃあ今日は19時に駅前集合でお願いします!』

彼からのメッセージをチラッと確認し、そのまま目線を時計にやる。

「18時に家出たら間に合うってことはあと2時間か…」独り言をぶつぶつ呟く。2時間もあるならさくっとシャワー浴びとこう。ほら、何があるか分からないから、一応ムダ毛処理と、一応可愛い下着で。そういえばこの前友達からプレゼントでもらったスクラブ、まだ使ってなかったな。Instagramでよく見かける有名ブランドの人気アイテム。女友達へのプレゼントに最適なそれは、20代女の4割は持っていると言っても過言ではない。いやまあそれは過言か、とかなんとか思いつつ、洗面台横の雑多な棚に置きっぱなしにしていた紙袋を手に取る。捨てるのが勿体ないほどにかわいらしい淡いピンクの紙袋から取り出し、スクラブの蓋を開けた。その瞬間に立ち込めたバニラとムスクの甘くパウダリーな香りに、なぜだか少しドキッとした。

「…この紙袋は再利用行きだな」

ワインレッドのブラジャーは私のお気に入りで、同色系の繊細なフリルとレース、オーガンジー素材のリボンが施されている。少し透け感のあるお揃いのショーツもちょっぴりエロくてばっちり可愛い。今日はこれで行こう。これで挑もう。万が一何かが起きても焦らない準備を。


準備が全て整ったのは18時を少し過ぎた頃だった。鏡の前で最終確認をする。デートの日はジルスチュアートの香水と相場が決まっている。首、腰、足首に1プッシュずつ仕込んだ女の匂いは、大事な場面で私を助けてくれるはずだ。パールの華奢なピアスを着けて、8cmヒールを履いた。私の身長は155cm。174cmの彼と会う時は気にせず高いヒール靴を履けることが地味に嬉しかった。


ワクワクする気持ちと緊張が相まってなぜか歩くのがいつもより速くなる。最寄駅まで徒歩12分。いつもの道がやけに新鮮に見える。よく行くコンビニの前では部活帰り(おそらくバスケ部)の高校生がリプトン片手に楽しそうにお喋りをしている。その斜向かいの美味しいお弁当屋さんのおばちゃんは腰を痛めてしばらく店に出ていないみたいで、代わりに息子さんが切り盛りしている。ここの明太子のり弁スペシャルが大好きだけど、ダイエット中で数ヶ月は食べていない。最近オープンした韓国チキンのテイクアウト専門店は行列ができていた。なんでも、開店キャンペーンでチキンが半額で買えてポテトがサービスで付いてくるらしい。私も今度並んでみよう。そうだ、美味しかったら彼にも教えてあげよう。このチキン店を越えたらもうすぐ駅に着く。刻一刻と彼に近づいている。やっと会えるんだ。

耳元で流れるFEELSのアッパーチューンが、私の心をみるみるうちに少女に引き戻していた。


18時45分、何度も街中のショーウィンドウやその他鏡になり得るところで服やメイクや髪型をチェックして、なんとか大きく崩れることもなく集合場所に到着した。前髪の巻き加減が若干気に食わないが、許容範囲といったところだろうか。いやいや、私は何をそんなに緊張してるんだ。今までも色んな男性と初対面でデートしてきたじゃないか。アプリ歴はもう半年を越えそうだ。そう、これはアプリ特有のあれだ。会う前の思い込みの"魔法"みたいなものだ。会って帰る頃には解けているあれだ。


さあいつでも来いユウト。

私が相手してやる。


あ、やっぱりもう一回だけメイクと髪確認しときたいかも。マスクで見えないとはいえ、リップを入念に塗り直す。唇のツヤは女の命だ。


時計はもうすぐ19時を指そうとしていた。

スマホに目をやる。遅刻の連絡も特にないからもうすぐ来るはず。とりあえずFEELSの歌詞を目で追って最終の予習をした。少しでも話を合わせられるように。


「サキさんですか?」


私は慌てて顔を上げた。

そこにはマッチングアプリ上の写真通りの彼が立っていた。ゆるくパーマがかかった黒髪、少し離れ気味の奥二重。細身だからか、身長は174cm以上あるように感じた。カーキ系のセットアップがよく似合っている。髪が風に揺れて、左耳のシンプルなシルバーのピアスがちらりと覗いた。よし、見た目はだいぶ好き。だいぶというかかなり好き。マッチングアプリにおける第一関門は見事に突破した。


「ユウトさんですか?初めまして、サキです」

私も挨拶を済ませ、ふと自分の服装を思い出す。首元が広めに開いているタイプのネイビー系花柄ワンピース。首が短い人間ができる華奢見えの技、《鎖骨を見せる》。彼がカーキ系でよかった。ふたりで並んだ時に色味のバランスが良い。好きな服を着ればいいと思うけど、一緒に行動する相手とのバランスを考えるのもTPOのひとつなんじゃないかと私は考えている。だから今日はひとまず成功。まあネイビー系ならだいたい誰の隣でも浮かずに過ごせるけれど。


「写真通りのかわいらしくて素敵な方でよかったです」そう言って微笑むユウトさんにたまらなく照れてしまった。かわいいとか素敵とか、言われ慣れてるのに。ひとつも照れないでまっすぐ褒めてくれた彼は、かなり女に慣れているのだろう。私だって負けてられない。私だって男には慣れている方だ。言われっぱなしやられっぱなしじゃ癪だし、そりゃこちらにも女のプライドってもんがあるのだ。

「とんでもないです。ユウトさんも想像以上にかっこよくて驚きました」照れを表情や仕草には出さずに負けじと褒め返す。

「いやあ…。はは、照れますね」

少し俯きながら照れくさそうにポリポリとこめかみを掻く仕草。なんだこの人。なんなんだこの人は。こんなにまっすぐ純粋な照れを見せられるのか。かわいすぎる。女は好感を持っている男の照れにめっぽう弱い。男に対して可愛いと思ってしまったら無論完敗なのだ。


「じゃあ、ご飯行きましょうか!サキさんお腹空いてますか?」

「空いてます!美味しいもの食べましょう!」

嘘だ。正直ぜんぜんお腹は空いてない。胸がいっぱいで、連動してお腹もいっぱいになった。


私たちは肩が触れるか触れないか微妙な距離感で15分ほどぶらぶらと歩いて、タバコが吸える適当な居酒屋に入った。19時半になるというのに店内の客はまばらで、店員たちにも活気という活気はなかった。「とりあえず僕は生で。サキさんは?」「あ、じゃあ私も同じので」

居酒屋の1杯目はビールだった。ハイボール派だと踏んでたけれどここはハズレ。


乾杯してから、数品料理を頼んだ。

だし巻き玉子、たたききゅうり、串焼き盛り合わせ、チーズチヂミ、ほうれん草炒め。料理を待つ間、幾度か一瞬の沈黙を挟みながらもぽつぽつと会話をした。ユウトさんの口から発される言葉のどれもが、私にとっては聴き逃せない大切な音だった。すごく、心地よかった。

「タバコ平気?」彼が私に訊いた。

喫煙可能店に入っている時点で平気に決まってんじゃん。気遣いを忘れない優しい人。

大丈夫ですと答えたら、ありがとう、とすぐに彼はタバコに火を付けた。ラッキーストライクのソフト。紙巻きタバコ、似合うなあ。

タバコを吸う彼に見とれていたら、料理が運ばれてきた。このタイミングでもう1杯ずつビールを頼んだ。彼の顔色は全く変わっていない。そこそこ飲める人なのだろうか。私もお酒は好きな方だからありがたい。


「営業のお仕事ってやっぱり大変ですか?」

ユウトさんは大学卒業後、新卒で今の会社に入社したと話していた。社会の波に飲まれそうになりながら必死に覚えた仕事を自分のものにしていく段階は、私の想像以上に苦労するものなんだろうなと思う。

「…あー、まあね。でもやり甲斐はあるよ」

いつの間にか敬語が崩れていることに気付いてきゅんとした。こんなことでもうれしいのだ。

「ふふ、敬語じゃない方がいいです」

「あっ、ごめん!話しやすくて、ついついタメ口で喋ってた。サキちゃんも敬語じゃなくていいから!」

サキちゃん。サキちゃん。サキちゃん。

頭の中で何度も反芻する。サキちゃん。

さん付けよりも呼び捨てよりも、ちゃん付けが嬉しい女心。女の子として大切にされている感じ。私は彼氏にだってずっとちゃん付けで呼ばれたいタイプだ。呼び捨てなんて、最悪。

「わかった。私もユウトくんって呼んでもいい?」

自分で言っておいて少しだけ照れた。なんだこのやり取り。中高生じゃあるまいし。

「もちろん。」はにかみながらこめかみをぽりぽりと掻く彼。

もう覚えたよ、それ。照れてる時のその仕草。


料理はそれなりのボリュームで、1回目の注文で頼んだ分だけでお腹いっぱいになった。お酒はお互いに3杯ずつ。正直全然酔ってない。でも、お酒様、どうかお力を貸してください。


時刻は21時を過ぎた頃で、まばらだった客も徐々に増えてきた。

「サキちゃん、時間大丈夫?」

「うん、ぜんぜん大丈夫」

「良いバー知ってるんだけど2軒目どう?まあ俺の知り合いの店なんだけど…」

私は笑顔で頷く。

まだ私は、あなたと一緒に居たい。

あなたをもっともっと知りたい。


居酒屋を出てまた15分ほど歩いた。今度は少しだけ肩が触れ合う距離だった。

「ここ!」到着したのは古い雑居ビル。看板に《2F BAR》と書かれていた。どこかレトロでなかなか雰囲気のあるバーだ。いいお店知ってるなあ。女の子たくさん連れてきてたりして。


階段を上がってすぐ目の前のドアを開けると、店員が1人立っていた。客はいない。

「ユウ!来るなら連絡くれよなマジで」

ユウトくんのことを ユウ と呼ぶその人は、ユウトくんの学生時代の友人なのだそう。名前は旬さん。ここに来るまでに話は聞いていた。

「ごめんごめん。紹介するよ、サキちゃん」

「初めまして。サキです。」

旬さんに向かって軽く会釈をした。

「あれだろ?あのー、アプリの。ユウから話は何度も何度も何度も」「おいそれ以上言うな!恥ずいから!」ニヤニヤと話す旬さんを勢いよく制止したユウトくんの横顔はまるで中学生の男の子だった。おかしくなって吹き出してしまった私を見て、旬さんが言う。「まあ、ふたりともとりあえず座れよ。可愛い女の子と恥ずかしいユウトくんに免じて1杯目はサービスするからさ」


旬さんを交えて話すこの空間は本当に楽しくて、嬉しくて、いつまでもこの時間が続けばいいのにとすら思った。さすがに私もお酒が回ってきたのかもしれない。いつもならこんなクサいことは考えないのに。旬さんのバーで過ごした時間は一瞬で、あっという間に23時半を超えていた。

「サキちゃん、もうすぐ終電だよね?」

「あ、うん」違う。終電だけど、違うの。私はもうちょっとだけ、あなたと。

「俺らもう出るわ。ありがとな旬」

旬さんが私の方をちらりと見る。気持ちを見透かされたみたいでなんだか怖くなった。

「おー。またふたりで来いよ。俺が女呼んでるかもしれないから来る前に連絡よろしく」

また3人で笑い合って、じゃあ、と言って店を出た。旬さんは誰に対してもあんな感じなんだろう。裏表のない、周りから好かれる人。ユウトくんも旬さんも、楽しい大学生活を過ごしていたんだろうな。素直に羨ましかった。


「今日は楽しかった!ほんとありがとう。会えて嬉しかった。」待って。帰らないでよ。

「うん。私も楽しかった。ありがとう」ねえ違うよ。そうじゃなくて。

「じゃ、駅まで送るよ」まだ。まだ私は。

"この後"はもう無いんだ。せっかく準備してきたのになあ。私、ユウトくんにとってあんまり魅力的な女の子じゃなかったかな。精一杯可愛くしてきたのになあ…。まあ会った初日にホテルに連れて行かれるような安い女でもないんだけどさ。でもあなたとならって、そう思った。

泣いてしまいそうだった。マスクの下で唇を噛んでいないと、涙がこぼれそうだった。


私、ユウトくんのことが好きだ。

初対面でこんなのおかしいって分かってる。

よく知らないじゃん、ユウトくんのこと。ユウトくんだって私のこと全然知らない。

それでも、知りたくてたまらない。

知ってほしくてたまらない。


ねえ、ユウトくん。



私の手にユウトくんの手が触れた。

ぶつかっただけ?いや、そうじゃない。

私の右手を優しく握ってくれたユウトくんの左手は、大きくて、すごく温かかった。


「俺さ、サキちゃんのこと本気でいいなって思ってる。だから今日は絶対に終電で帰すって決めてた。」

手を握る力が強くなる。初夏の夜は暑いから、繋いだ手の温度でゆるく溶けていきそう。

もうすぐ駅に着いてしまう。


「また会ってくれる?」私は訊く。

もちろん、と言って彼は私を抱き寄せた。

ああ、このまま時が止まってしまえばいいのに。混雑しているはずの終電間際の駅前。誰も見えなくて、何も聞こえなくて、間違いなく今、世界には私と彼のふたりしか存在していないんだと心から思った。


「それじゃあ、また」

「うん、またね」


私たちは別れた。改札に入ってから振り向くと、まだユウトくんは手を振ってくれていた。


時計の針が0時を超えても、

魔法は解けなかった。


もうすぐ終電が来る。

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愛しい生活は溶けて 水戸山あも @mitoyama_amo

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