雨と金平糖

沙雨ななゆ

雨と金平糖

 行くよと言われて、手を引かれた。どこへと尋ねる間もなくそうなったから、ふたたび口を噤んでそれに従うことにする。そこにおたがいの言葉は一つもないけれど、なくても良いような気がしているというのは、きっと同じ理由からではない。車道を挟んで向こう側には、下っていく人間がたくさんいる。風はそちらへ吹いている。そういう中で、この坂を上っていかなければいけないというのはちょっとひどいことだと他人が言う。

「風が強いね」トラックの音に負けないように、少し前を行く声がこちらへ向かう。何と返したらいいのかわからなかったので、迷った末に出た答えは頷くことだけだった。声は笑って、もう一度前を向く。信号機が見えてきて、そうして歩みはしばし中断される。

 下方へ目を向ける。手は、まだ引かれたままである。そして離す気もないらしいことは、明白にさらされた事実だった。

 信号機がピッと変わって、さまざまな足が平行線上に動き出す。考える。このまま垂直方向へ行くことは許されないのだろう。「何考えてるの」思考へ声が入ってくる。またあいまいに笑ってしまう。笑い返される。手を引く力がわずかに強まる。

 つま先に意識を向ける。ゆるやかな勾配が触れていた。ぺたんこの靴で踏みしめて、ただ先を見つめる。じぶんのものではない、と信じているから、たぶんまだここにいるのだろう。勾配はかたく靴底を叩いて、そうしているうちにもう少しで目的地へ着く。

「じゃあ、またね」

 手を振られていたらしい。返すタイミングがよくわからなくて、前方へつんのめりそうになる。それでも生活は続いていくから、足だけはどうしても動かさなくてはいけなくて、たくさんのしなければだけが目の前にあるぶん、まだましなのかもしれなかった。


 あれが礼拝堂に着くと、いつもはだいたい雨が降り出していて、スニーカーはぐちゃぐちゃになってしまっていた。そして今日もきっとそうで、けれどもそれは今日がとくべつな日ではないということの象徴であることを知っていたから、それがただしさなのだろう。ぐしゃと足先の輪郭が歪んでいる。そうして大きな扉をぐいと押す。

「おはようございます」声をかける。ほんとうはこんにちはでもこんばんはでもいいのだけれど、なんとなくおはようが似合うといいのになと思った。

 果たして神様はあれに気づくと、ふふっと笑ってこちらへ向かう。いいのに、とあれから駆け寄ろうとしても、神様の歩幅は大きいものだから、あれの小さなそれでは歩かないほうがよかった。神様は当たり前のようにあれより大きい。近くで見るとそのことがいっそうよく理解されて、なんだか俯いてしまう。

 神様はそんなあれを見たからなのか、ふふっといつものように笑っている。こういうときにどうしたらいいか、あれはたぶんよく知っていた。「行きません、か」戸惑いが追いついてくる前に言葉を吐き出す。言葉は、吐き出された途端にじぶんのものではなくなるから、知っているような顔をしてふたたび神様のほうを向く。神様は鷹揚に頷いている。あれは安心して礼拝堂の扉を押し開けた。キイという音とともに夜が入ってきて、そしてバタンと閉まる。ほんとうは礼拝堂の外へ出ることなんか初めてなので、うまく開けられるか不安だったのだけれど、とりあえずは成功した。

「……」

 歩き出す。と同時になにかを渡されたので、あれはしげしげとそれを見つめた。金平糖ひとつぶである。それは、きっと、今食べてしまったほうがいい。口の中に放り込めば、やわらかな風味がきゅうと舌を刺激した。スニーカーがきゅっと鳴るのは、雨のせいばかりではない。

 いちばん最寄りのバス停は礼拝堂からすこし行ったところにある。ここからあと数分後にくるバスに乗って街へ向かう。自動車のとおりがあまり激しくないのは、時間帯のせいなのだろうか。そんなことを考えているうちに、キイとバスが停車する。後方の扉がぎこちなく開いて、ICカードの読み込み口が光っている。「整理券じゃないんですね、」ふとした疑問がこぼれ落ちた。神様は、やはり笑ったままだったので、あれはなんだか恥ずかしくなった。

 バスというのは全国どこでもあまり乗り心地が良いものではない。ガタガタと揺れる車内で、神様とあれはぴったりくっついて振動する。それでもあれはまだ窓側に座っていたから、見えているものは車内だけではないのが良かった。通り過ぎていく木、山、微妙に神社、家、車、人、……ここにいる人間はみな、谷を削り出したような場所に住んでいるのが当たり前なようで、つばを飲む。世界は広いということだ。目を向ける。そうだよというふうに頷かれる。神様はなんでも知っている。

 街の入り口へ着いたので、神様とあれは荷物をまとめて降車口へ向かう。もう一度ICカードをタッチしないと清算されないのは、あれが元いた場所とは違っていてわずらわしくなる。便利なのだか、不便なのだか分からない動作が、世界にはどんどん増えているのかもしれない。手招きをされる。ぴょんとバスから降りる。

 雨はまだ降っている。足元は相変わらずぐしゃぐしゃだ。それでも、あれは駆け出した。やはり神様のほうがあれよりも歩くのが速い。追いついていくのは容易ではなくて、ともすれば口の中の金平糖が砕けてしまいそうだった。


 我に帰る。口の中でもちゃもちゃと食べ物が咀嚼されている。腕時計の針はとうの昔に昼の十二時をまわっていて、まばゆいばかりの陽光がこちらへ差し込んできていた。こんな場所を選んだからではないのか、というのは、どうせ世界のためには言葉にはできない。卵焼きをもう一つつまんだ。箸の扱い方はむかしから得意ではなくて、掴んだものはすぐにでもそこから落ちてしまいそうだ。

「おいしいね」朗らかな声がする。声は気づけばいつも別の色をもってこちらへ向けられていた。頷くように首を縦に落としてみる。たぶん返答なんて望まれていなかった。ふたたび咀嚼に集中する。当たり前のようにものの味はしない。そしてそのものがどういうものであるかさえ思い出せないような気がした。

 箸がコツンと何かを突いた。ふと目を向ければ弁当箱の底である。もうおかずはあらかたなくなっていて、もう一つの容器には白いご飯がわずかに残っている。「僕はもう食べ終わっちゃったよ」声がする。あわててそちらを見る。足りなかったのだろうか。

「あの、さ」

 喉にものがつかえそうになって、あわてて飲み込んだら笑われた。水筒の水はもう残っていなくて、何もかもが空っぽなのは、当たり前だけれど困る。けれどもそれは、向ける目は残っていないよという言い訳にならないだろうか。手を取られる。「……あのさ」ならないのだ。

「なんで、ここにいるの」

 純度の高すぎる問いだった。

 また答えられないことをごまかすように、笑ってみる。笑い声さえ出すことができないのに、どうしたらごまかされてくれるのだろう。そう考えることは、きっと苦手で、だからはやくベルがなることを祈る。陽光だっておたがいの活路にはならないこの場所で、あとどれほどの時間ばかりが消費できるのだろう。


 目的地に着くと、神様はすぐに近くの谷のほうへ歩いていった。ここに今回の目当てというか、「仕事」がある。仕事は、だれでもなくて神様がしなければいけないことだ。そしてあれもその手伝いに駆り出されたというのが今日に対するただしい定義でもある。

 まだざあざあと雨が降り続いているなかで、おいでと手招きをされる。あれはちょっとうれしくなってひゅんひゅんとついて行く。そういうあれを見て、大丈夫かとでも言うように神様が笑う。「はやく終わらせたいですね」言うことが見つからなかったから、そんなことを返した。けれども神様は楽しそうに見えたので、それはまちがいだったのかもしれない。

 積み上がった大きな塩の袋を持ち上げる。そうして谷を越えて、この街からもうひとつ先の街まで運ぶのだ。ずしんと重いががんばらなければいけない。スニーカーがずぶずぶと沈みはしないか心配になる。神様とあれはいっしょになって、「谷 入り口」を目指して足を踏み出す。

 谷は、谷にしてはずいぶんとやさしい。神様が先に行って、あれはその後から続くことにした。向こうから下ってくる人間は、こちらへ少し頭を下げて、登山靴を前に進める。もしかしてそういう場所だったのか、なんて考える前に、震えそうな足をなんとか支えて事無きを得る。

 とはいえ谷はそれでも谷だったから、岩はごろごろ転がっているし、落石注意の看板がそこかしこに立てられている。びびった、とでも言うように神様が視線を投げる。びびってませんよと早足で歩く。やっぱりゆっくりでいいよという合図が送られるころ、あれはスニーカーを泥でぐちゃぐちゃにしていた。へら、と両腕を広げる。神様の眉が少し下がる。

 それは谷の湧き水が原因だった。岩と岩の隙間から透明な水があふれ出している。あれは平らなほうに住んでいたから、山のことはよく知らない。よく知らないから、途中止まってそれを見る。なかなか冷たそうだけれど、そこへ手を触れてはいけないので、もどかしくなる。神様は、そんなあれに合わせて、待っているように速度を落とす。それに気づいてあわてて先を急ごうとしたら、泥に足を取られて、視界がはんぶん回りかけた。

「わ!」

 へんな声が漏れだした。途端あっという間に引かれた腕と取り上げられた袋が、あれのように行き場をなくした。

 ほんとうに、あれのようだった。

 足を引っ張ってしまった。そう思ったから、俯く以外の間の取り方をあれは知らなかった。「……あの、すみません」取り上げられた袋をもう一度取り戻して、神様から離れる。神様は、神様だったから、あれを責めないことは知っているように思ったけれど、たぶんそういうことではない。ここにいてもいい理由は、さんざんじぶんで定義してきたはずなのに、たった今それを崩してしまったのはあれ自身だった。狼狽して後ずさりをする。雨の音は聞こえない。

 考える。どうすれば、なにをすれば、また理由らしい理由を作ることができるのかを。

 神様は困ったように肩をすくめて、そこにとどまっている。その背中はいつものように大きいのに、なぜだかわずかに縮んだように思えた。……数拍おいて、神様の手があれを招いた。なるほどなと、思った。ここにはまだ仕事があって、あれもそれを抱えているからだった。ふと視界が開けたように思われて、神様の先を見る。そこは雨でいっぱいだったのに、ぼんやり見通せると思った。

「はい」ついていく。足場はぬかるんでいるし、これからもずっとそうなのだろう。少なくとも神様とあれが仕事を終えるまではそうであってほしいなと力んだら、口の中で金平糖がすこし弾けた。


 早足で歩けばスニーカーがキュッと音を立てる。けれども歩幅が小さいわりにはゆっくり歩くことも苦手だったから、それも仕方がなかった。この生活の世界において、立ち止まることはゆるされない。だから歩く。できるだけ大きく。

 日差しが強い。そしてこの街はそれを増幅させるための方法を心得ている。それが決して特別ではないこともまた世界の法則である。特別なことは何一つとして存在しないので、それらをこなしていくことが重要なのである。右手で陽光を遮るように進んだ。温度を消化し損ねた道が迫るように目の前でまたたく。

 そうしているうちに目が疲れてしまって、今度は聴覚でもって世界の認識をしていくことにした。とんとんと音が聞こえる。足が後に続いてきていた。瞼を強く閉じてふたたび開いて、後ろを向く。つまりついてくる足を見る。足以外のものは見えない。早足でこちらに向かってくる。今度は聴覚がおかしくなった。拳を握る。汗が爪の先まで浸透していくようで息を吐く。

「……って、ま、……よ」

 握った拳が開かれて、そこにべつの感覚が滑り込む。それはまだちゃんと動いていたから、聞き取れなかった音よりもずいぶんと役に立った。ぼんやりした視界の中に影が立っている。揺れているようなそれを、できるだけそっと見つめてみる。「なん……?」感覚は繋がっている。けれども歩みは止めないでおいた。そうするといつの間にか電車の扉が開いていた。

 そこへ乗り込む。それが生活だからだ。その生活に、影はまたぴったりついてくる。「なに」扉がしまる。「か」電車が動き出す。「言っ」ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人間のにおいがする。

「て、よ、××」

 はじめて影の認識をしなければいけないのかもしれない気がした。けれどもそれを選ぶことができるほど強い人間にはなれなかった。だから、手を振りほどいてしまった。

 そろそろ最寄り駅であった。


 仕事を無事に終えてほっと一息をついたら、目の前のキャラメルミルクラテもほうと湯気を浮かべていた。神様はおかしそうな笑みを浮かべながらあれを見ていて、あれは微妙にラテのマグカップから手を離す。ご飯を待っている間はきっとずっとこんな感じなのかもしれない。そろそろと神様を見れば、神様はいっそうおかしそうにあれを見返す。

 かちりと金平糖が弾けた。瞬間、ふと神様の目をとらえる。そんなふうにしたことは一度もなかったけれど、今ならなぜかできてしまった。

 吸い込まれそうなそれである。宇宙に近い色をしていると思う。世界の色なんか、神様の周りにしかなかったものだから、ほんとうに宇宙であるかすら知らなかったのだけれど。それでもあれが神様のひとみを宇宙だと思ったのは、もしかしたら神様の中の深い黒に対してだったのかもしれないし、それとも神様のことをひとつも知らないことに起因するのかもしれなかった。神様は、じっとしたままあれに見つめられている。「あの」声が漏れだす。「きれいですね」

 途端に口を手で押さえる。あれはいまなんといったのだろう。認識にはちょっと時間がかかりすぎて、そのうちにご飯ができあがっていた。「ち、ちがうんです」やっと継げた言葉は意味をどこかに置き忘れている。それをなんとか探し当てて、ご飯のにおいとともに飲み込む。神様はすこし手を口にあてて笑う。「知らなくて、」笑うことしか。その背中しか。

「……、おしえていただけますか?」

 ん、と神様の持ち上げた箸が上下する。

「なにを?」

 つるりと声がこぼされた。神様の声だ、と了解されたとき、あれの喉もへんな音を出す。ポケットの中に詰まった金平糖がじゃらりと鳴る。窓の向こうでは雨が空気を叩いていた。

「神様のことを」

 やはり知らなかったものですから、と笑う。

 神様とあれの間に漂っているのは、二つの空気だった。一つは白米から出る湯気。いま一つはともすれば崩れそうななにか。最初の一つを選択したのはどちらかなんて知らなかったけれど、とにかくどちらからともなく箸をつける。そうしてハンバーグを小さく割って、デミグラスソースにつけて、食べる。温度が一気に口の中に流れ込んできて、それはたしかに世界の生活のひとつにちがいなかった。おまけにこの店はあたたかくて、それは今までの雨とはべつのものであることを示している。ふと目のふちがやわらかくなる。

 またたいて神様を見つめた。茹でたにんじんが咀嚼されている。

「いいけどおまえ、それじゃよくわかんないよ」

 あと冷めちゃうよと食べることを促される。あわてて箸を動かした。「そんなに急いで食べろとも言ってないけど」笑われる。ブロッコリーを飲み込もうとした瞬間だった。びっくりしたので、そのまま喉の奥に吸い込まれた。「ばかじゃん……」呆れられる。けれどもそれは、ゆるされていないとか、そういうことではきっとない。ことを知った。「あの」数拍して言葉が追いつく。「ばかじゃないです」

「しってるよ」

 おまえ、礼拝堂を見つけられるくらいだからと、あれと生活を過ごす声をもらう。

 また箸を持つ手が止まった。「おまえさおれのこと、よく知らないって言うけど、わりといろいろ話してるほうだよ、知ってるでしょ、そんなこと」神様の箸は対照的によく動いている。「話さなかったっけ?」たくさん。神様の白米がなくなりかけている。「あとおまえ、そんなに速く食べなくてもいいからね、おれが速いだけだから」

 あれのハンバーグはまだ半分ほど残っていた。そしてこのハンバーグはおいしい。切り分けるたびに鉄皿の上で肉汁が躍る。とにかく今は食べることに集中したほうがよさそうだ。喉がごくりと鳴る。味が濃いから、ほかほかの白米がよく進む。ときおり焼いたたまねぎも食べて、野菜のうまみを噛みしめる。ここにしてよかった――とはいえこの店を知っていたのは偶然だった――と思ったのは、もう伝わっているのだろう。

 しばらくしてあれがごはんを食べ終えたとき、神様はまたメニューを見ていた。「なにか飲みます?」喉乾いたじゃんと差し出される。「え……」「もう決めたから、あとそっちで」また悩むことになってしまった。メニューにあるのはかわいらしいジュースばかりである。逡巡の末に一つの選択肢を指さす。「アセロラソーダ?」「アセロラジュースのほうです」声が小さくなる。

 それからはだいぶどちらも黙ったままだった。すでに夜をまわった時計がボオンと動いている。「それでさ」口を開いたのは神様が先だった。「どうしたいの」鼓膜がふるえた。

「ん……」

 けれども咄嗟には答えることができなかった。両手を握っては開いて考える。「……なにも、しらなかったので」それは答えにはならない。「ずうっと、背中だけを見てきて、それで」きょうは礼拝堂からずっといっしょにいた。礼拝堂の外でいっしょにいたことはなかった。きょうは仕事をするところを見た。歩くところ以外は見たことがなかった。きょうはごはんを食べた。温度もしぐさも声も、生活に関することはひとつもしらなかった。

「そう」

 どこか落としたような声であれに答える神様は、どんな顔をしていたのか、あれにはよくわからなかった。届いたアセロラジュース越しにもう一度見てみたけれど、やはりあれにはむつかしすぎたのかもしれない。

「じゃあ、おいで」

 手が差し出されていた。

 その手を握って、金平糖をもう一度口に放り込んだ。


「××はさ……ずるいと思うんだよ。ひとりで歩けるくせに、ひとりで歩けないような顔をして。だれにでも優しくできてしまうから、僕にも優しくしたんでしょう。それで、またそういう顔をするんだ。それじゃあまるで僕が悪いみたいだろう。悪いのは、××だよ。そうやって認めてくれたら、××に感情を向けたすべての人間がすくわれるというものなのさ。

 だからどうかはやく認めておくれよ。××が悪かったんだって。××がずるかったんだって。だれも必要としていなかったくせに、すぐに僕らが差し出した手を握ってしまって申し訳なかったって。謝ってよ。そうして僕らをすくっておくれ。××にはそうするだけの義務があるんだから……だって××はそう言っただろう。すくってしまったならすくい続ける義務があるって。言葉を反古にしてはいけないさ。それがこの世界の法則だって、賢い××が知らないはずはないんだから。それともいつものようにわからないとでも言うつもりなのかな。いや、いや、いや! どちらにしたって僕らには同じことだ! ××、きみだって気づいているはずだ。恨むなら、おのれの生まれた星を恨むといい。

 ××、きみのような人間は、もうどこを探したっていやしないのさ。そして××はじぶんでそうであり続けることを選択してしまった。選択には責任がともなうものだ。だからその責任を果たすために、この世界で必要な生活を続けていくために、××は生活しなければならないんだよ。

 じぶんひとりで逃げていこうったって僕らの亡霊がゆるしはしないよ。世界は僕らの味方なのだから、逃げ場所なんてないのだよ。ひとはみなひとりではないのだよ。××、どうかきみが世界や生活や人間をほんとうに愛しているのなら、僕らをすくい続けてくれ。僕らのメシアでい続けてくれ。……」


 雨が降っている。世界の隙間から逃げ出した手は、雨にはあたらない場所で体温を分けあっているから、冷たいという言い訳は通じなかった。見上げた背は大きくて、この背中ばかり見てきたのだと思うけれど、決して届かないものではない。物理的にそうであることが精神的にもそうであると限らないのがかなしいところで、けれどもそういうことはきっと、雨に流されて明日になればわすれている。ここに言葉はひとつもない。問いと答え以上のものがもともと存在しない関係だったので、それは当たり前のこととも言えた。

「逃げちゃう?」

 見透かされたようにつぶやかれたものだって、どんな温度をともなっていたかなんて解明され得ない。けれどもどちらもわかっている。ここにいる理由は、ここにいてもいい理由にはなり得ない。

 気づけば屋根の終わりまで来ていた。この先は雨の真下だ。そして目の前の柵の向こうには海がある。移動手段はない。行き止まりである。そんなもんだよと笑ってしまった。それはイチタスイチがニになるような、アップルの翻訳がリンゴになるような単純な答えだった。こういうのを、低予算の映画であると、むかしだれかが言っていた。

「もうずっと逃げてます」

 言葉がうちがわから吐き出された。

 見つけたことも、その場所にい続けたことも、生活の一部であると思っていた。それでも終わったあとにはすべてをわすれていたから、やはり生活の一部ではなかったのだろう。そのことに気づいたのはほんとうはずいぶんと後で、そのぶんだけたくさんのことを見逃されていた。結局、何も変わりはしないのだ。じぶんも彼らも人間であって、世界はいつだって優しくはなくて、救いや赦しや忘却を求めて夜をねむるだけなのだ。

 だからここにいるふたつの影は、あれの神様ではない。あれだってあれではない。

 雨が降っている。金平糖はもう食べ終えてしまっていた。最初からそんなものはなかったのかもしれないけれど、この時間はいつもやさしかったから、あったように思うことにしている。「やまないですね、」声はいつものように間延びしている。「傘、持ってくるの忘れちゃったな」重くなっちゃうと嫌で、なんて笑ってしまう。笑う場面でないのにそうするのは、積み上げた生活のくせである。「天気予報見なかったの」返される声はやはりすこし呆れている。いちばんただしい反応であると、思う。

「海、すきなんですか」

 つるんと口からこぼれ出たのは、たぶん意味のないものだった。「なんで?」あまり間を置かずに疑問でもって答えられる。「すきだといいなあって思って」同じになれるから、という言葉は、まさか飲み込んだままである。

「そりゃまあ好きだよ」

 海に、住んでたんだよねと言う声は、いつだって足の先のほうへ落ちていく。「なじみ深いっていうか」そっちは、とこちらを向かずに投げられる。

「えっと」

 じぶんのことを語るのはあまりにも不得意だったので、一瞬押し黙った。息を吸う時間が必要だった。三回ほど深呼吸をして、そんなもんです、と返した声はどんな色を持っていたのだろう。「そんなもんて」案の定ちょっと困ったような声音が届けられる。そういうときこそ笑った。「リョウシンが」「うん」「リョウシンの、ジッカがそういうところで」「むかしから来てたの」「そうです」「どこ?」「ここの反対側」「ああ……」

 そして会話らしい会話はそれより先へは続かずに、ひたすらに柵から海を眺めることだけが継続された。

 雨の海は当たり前に空との境界がなくて、しかも夜の海だったから、そのあいまいさはもっと深かった。いくつか波紋が向こうの明かりに照らされるたびに、闇の中へぼんやりとした水面を見る。タイムリミットであることはわかっていたのに、まだここを去りたがらないひととじぶんのようだと思った。最初の言葉を反芻する。繋がれたままの手を見る。ひといきに共犯者に転落してしまったのに、完全に共犯もできないおとなが、こどもが、人間が、ふたりぶんの重さを託す場所を探している。

「……」

 それでも、それももう終わりにしなければならない。明日へ向かわなければならない。

 帰りましょうと歩き出した途端、ころんと小さなものが手に触れた。分けあっていたほうの手に、代わりにあるものは金平糖だった。見上げる。宇宙の深さをした目は、しっかりわたしのほうを向いている。

「××」

 雨の止む音をたしかに聞いたとおもったのは、この世界の暗転を知っていたからなのだろうか。

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雨と金平糖 沙雨ななゆ @pluie227

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