ベイカーベイカーパラドクス 陸
年の瀬が迫る、頬に冷たい風を感じる今日この頃、日夏さんはデビューをした。
ビアガーデンで弾いていた曲の出自は、母親の筆跡で書かれた譜面が見つかったことにより、母親のオリジナル曲だという結論に至る。
それは息子に継承され、「irony」という曲名が付いた。
サブスク音楽配信のランキングでは、人気アイドルの楽曲を抑えて上位へ躍り出る。
当然会社でも話題に上がった。
「irony」なんて曲名こそ、クラッシュ上司への皮肉じゃなかろうかと噂されている。
駅中の大きな電子広告に、ピアノを弾く日夏さんが大きく映し出されていた。
私はダウンコートのポケットに両手を突っ込み、その広告をボウっと眺めた。
日夏さんの選択は、今のところ吉と出ている。
良かったではないか。
広告の前で立ち止まったのは、私だけではなかった。
右隣りにいる大学生くらいの男女2人組の会話が聞こえてくる。
男性の低い声が言った。
「なんか懐かしい感じがするんよなぁ。どっかで聞いたことあるんよ」
落ち着いた女性の声がこたえる。
「この曲、日本の音階が多く使われてるらしいよ。だからじゃね」
「へぇー」、と、男性が返事をするタイミングと被る、私の心の中の「へぇ」。
さて、行きますか。
電子広告を背に、私はその場を後にした。
準急電車で20分ほど揺られ、自宅最寄りの駅に着く。
私はあのデパートへ直行した。
日夏さん効果なのか、そのデパートは、冬のビアガーデンを開催している。
聖地巡礼客を呼び込めるであろうという露骨な浅はかさは、このポスターを見ればわかる。
日夏さんに許可どりしているのかも怪しい、CMの一場面を切り取った画像がそのポスターに載っていた。
来年は開催するかも怪しい冬のビアガーデン。
そんなの、行くに決まっている。
意外にも、浅はかな戦略は功を奏したのか、予約が取れづらくなっていた。
そんな状況でも、花の金曜日に席を確保できたのは、日頃の行いが良いからだと思う。
しかも夏と同じあの席だ。
白い息吐き、ビールを喉に流し込む。
喉越しと爽快さを感じる夏とは違い、身体中に沁み渡る冬のアルコールもまた乙である。
アップライトピアノはあの夏と同じ場所に設置されていた。
弾く訳でもなくピアノを写真に収める女性がいる。
ファンの行動力は「-凄いなぁ」と呟いた時である。私の視界が遮られた。
訝しげに顔を上げると、黒縁メガネとマスクを装着した男と目が合う。
男はマスクを人差し指で下にずらし、ニッコリと笑った。
男は言う。
「ここ、宜しいですか?」
私は目を丸くして答えた。
「5分で要件を済ませてくれるなら、どうぞ」
向かいに座った男は、今や時の人である日夏さんであった。
「あの-」と会話を始めようとする日夏さんの眼前に掌を翳し、制止する。
「お酒は飲んでないですよね」
「えぇ、ないです」
「オッケーです、続けて下さい」
大きく深呼吸をした日夏さんは、頬を強張らせ訥々と言った。
「先ずは、佐鳥さん、有難う御座います。えっ、えっと、佐鳥さんが、相談に載ってくれたおかげで、その、今日の僕があります」
「いえ、遅かれ早かれ、日夏さんはコノ道を進んでいたと思います。礼を言うなら、動画を流した投稿者じゃないでしょうか」
私のその返事に慌てる様子をみせ、次は饒舌に言う。
「違う!それは違います。他の誰でも無い貴方だから相談をしました。貴方の言葉の一音一音には濁りがない。だから僕は今までずっと、貴方に甘えて相談を持ちかけた」
確かにハンバーグ屋さんでの一件までは相談と言えるかもしれない。
けど、デビューが決まった後は如何だろう。
例えば、「この衣装とこっちの衣装、どっちが僕に似合いますかね」みたいな、しょうもない事しか聞いてこない。
これは相談ではなく雑談だと私は思うのだ。
「わざわざお礼を言いに、今日私がくるかもわからない此処へ? メールで言えば済む話しじゃないですか」
日夏さんの少しムッとした表情は、マスク越しからでも判る。
「こう言うのはちゃんと顔を見て言わなきゃ伝わらないと思います。それに、食事に誘っても断られるし」
「この前は誘いに乗りました」
「この前は僕がゴネまくった結果です」
「今回もゴネまくれば良かったのでは?」
「それだと流石にシツコい」
「今日の様な待ち伏せは、シツコい分類には入らないと?」
2秒程間が空き、日夏さんは低く振るえる声で言った。
「決着をつけたくて」
「決着?」
日夏さんはマスクを外し、少々長めに息を吐きくと、スッと息を吸った。
「佐鳥さん。貴方が好きです、大好きです」
すると、ピアノの音が響く。
それは日夏さんのデビュー曲であった。
当の本人は私の眼前で、私の事が好きだと言っている。
だから、今演奏しているのは別の誰かだ。
ロマンチックな偶然の演出というやつか。
残念ながら、そんな演出に流される様な私ではない。
ここがゴミ屋敷という場であっても、私の答えは決まっている。
私は立ち上がって、小さな丸テーブルに手をつき前のめりになると、ピアノの音にかき消されない様、日夏さんの耳元で告げた。
腰をおろし顔を上げる。
口元を両手で覆い、耳を真っ赤にさせた日夏さんがそこに居た。
そう、ロマンチックに流されるほど、私は情動的ではない。
だけど、アナタの裏の無い表情が可愛いと思えてしまうのは、そういうことだ。
ショートストーリーは突然に B面 月美 結満 @rabibunny
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