第6話 ねたこをおこす
床に散らばる濡れたガラス片を細く長い指がつまみ上げた。
人影の底に沈んでしまいそうなそれらに目を凝らし、その小柄な体貌に相容れない安物のスーツを着たヒロは、慎重に手の平に重ねていく。
室内は薄暗く、鏡張りのフロアに紫色の光を放出する間接照明。
前身であったスナックの名残をそのままにカウンターとソファ席とが通路を挟んで並んでいる。
ホストクラブ『6th Devil』は、シャッター通りの一角にある袋小路に飲食店ばかりが密集した場所にあった。
周囲の建物に比べて背が低い分、常に湿っぽい陰を従えわせているためかその外壁は、まるで心理検査に用いられるロールシャッハのような黒いシミに覆われていた。
今夜も見た目通りの悪所の香りをのぼらせ、ちらほらと訪れる酔狂な客のために店は扉を開いていた。
床に膝をつくヒロの頭上のソファに掛けた数少ない常連客のマミがご執心のこの店ナンバー1のホストであるアランにしっかりと体を寄せた。
「嫌だ超怖いーっ何その話い」
自称二十二歳という年齢より幼く見えるマミは、つい今しがたアランから聞かされたとっておきの怪談のオチに震え上がり、シャンパングラスを見事に落下させたばかりという状況であった。
さり気なくマミの耳元で何かを囁き、ミニスカートの太ももを僅かにかすめて伸ばした手で、その腰元を引き寄せたヒロの先輩であるアランは、年齢不詳のステレオタイプのホストで、イタリア製の細身のスーツに平成の只中に流行った俳優のような外見や、女が好むキザな所作が堂に入っている。何も好んでこんな場末の店に燻っているような男とは見えないのだが、それがかえって何かしらの曰く有り気な背景を感じさせるのであった。
アランはマミに向かって整った白い歯を見せて笑った。
「――実は俺もその夢見たことあってさ」
「嫌だそれヤバくなーい」
酔いに任せてマミがアランにしなだれ掛かった。その隙にヒロはマミの足元に残る細かなガラスの破片の在処に目を凝らす。
アランにしがみつきながら、マミは回らない舌をチラリと出してヒロを一瞥した。
「ごっめんねえ、ウチ酔ってるかもぉ」
大袈裟な身振りでマミが体を捩った拍子、テーブル上を飾っていた高級シャンパンや飾り立てられたフルーツの乗った皿が次々と派手な音を立てて無に帰していった。
あわやとマミを庇い立てながら身を引いたアランはヒロに目配せをした。
「すぐ片付けるからマミちゃんはそのままでね」
こっくりと頷いたマミがちらとヒロを伺い見た。その眼の奥には鈍い輝きが揺れていた。
目の前の惨状にやるかたなしとしながら立ち上がったヒロは、すでに話題を移して盛り上がる二人に背を向けて小さく舌打ちをした。
薄闇に包まれた店内で、なす術もないほどの惨状を前にして対応に苦慮したヒロが顔を顰めたその時、もさもさとした白っぽいものがついとヒロの視界に入った。
「お客様お怪我はないですか」
次いでヒロの目の前にモップを携えた福田るいが現れた。
るいは一五八センチのヒロよりも目線の位置が遥かに高く、中性的な顔だちの細い眉を常にハの字に下げてはいるが、れっきとしたこの店のマネージャーである。
いつも通りの困り顔でるいはヒロに笑いかけた。
「手伝うよ」
ヒロはその視線が交わる前についとるいから目を逸らした。
「いい、いらない」と、言い終わらないうちにるいの手からモップを奪い取った。
そのやり取りにマミがけたけた笑い声を上げた。
「やっだぁーヒロっち今日もまじ上からー」
明確な拒絶を示すヒロの背中にるいは手も足も出ず棒立ちになった。
弱冠二十歳にしてるいは、常に不在がちな店長に代わり経理から雑用、スタッフの教育まで幅広く担っていた。とは言え水商売でそういった事情は別段珍しいものでもなく、もっと威厳を持って堂々としていてもいい筈なのだが、経営よりもギャンブルで小銭を稼ぐことに力を注いでいる店長が実の父親である引け目からか、生まれ持ったネガティブな性格のせいか、誰に対しても強くは出られないのが彼女の最大の弱点でもある。そして、そのオドオドと此方を伺う仕草や言動はヒロの内心を逆撫でし、入店以来この二人の距離感は一向に埋まることがない。
その一瞬、マミが金切り声をあげて人差し指を突き出した。
「あれっ! 何」
示された指の先には無人のボックス席と、その手前の通路から左奥に事務所へと続く従業員入口があるのだが、平日は節電に努めライトは落とされていた。
おかげで元々日陰に伏す建物の暗がりはより濃密になって深い海の底ように見えた。
暗所からは頑丈そうな長身の人影がこちらへと向かって来ている。
マミは頬を引き攣らせアランの腕にしがみついた。
人影に目をやって、アランはすぐにマミの手を握った。
「あれなら大丈夫」
姿を現した人影の正体は店の裏方であるサルマルという従業員で、その手には懐中電灯が握られていた。
暗がりから顔を見せたサルマルの見るからに柔和な顔はマミのいかめしく構えた肩を自然に下げさせた。
サルマルはヒロと同じ二十三歳だが既に妻子持ちで、家族のために将来に備えていくつもの仕事を掛け持ちし、陽の高い内は清掃業や土木業、夜になると水商売に鞍替えする。ホスト向きの華やかな顔立ちではないが手先が器用で老若男女から信望厚いため、此処では雑用からキッチンまでの仕事を一通りを任されていた。またその人好きする性格から顔も広く、ヒロとは旧知のオンラインゲーム仲間であった。そして、人員不足を理由にヒロを短期のバイトに誘い込むなり、すっかりシフトの頭数に紛れ込ませてしまったキッカケを作った張本人でもある。
当初はヒロ自身も他人を不快にさせない“普通”でいることが得意な性分ではないことなど承知していて、店に残るよう誰からの説得にも逃げの一手であったのだが、曲者ばかりの従業員と気弱でお人好しな小娘が営む廃れた店にやって来る客もまた変人ばかりなことが幸いしたことと、当時高校を中退してからというもの繰り返される親子喧嘩にうんざりして飛び出した実家から逃げ込んだ従兄弟のマンションでの生活も丸三年となっていたことで、自堕落な引きこもり生活を続けてることに鬱屈とした思いを抱えていたのが時宜にかなったことで今に至るのであった。
マミに目礼するなりサルマルはヒロの肩を軽く叩いて、手にしていた懐中電灯でその足元を照らした。
「俺も手伝うよ、暇だし」
さっと顔を上げたヒロが見回した店内には確かに閑古鳥が鳴いていた。
屈み込んだサルマルの背中にヒロは言葉を詰まらせた。
「いや、でも――」
手早く作業をこなしながらサルマルは歯を見せて笑った。
「こういう時はみんなでちゃちゃっと終わらせた方いいじゃん?」
邪気を感じさせない横顔にヒロは渋々といった体でモップを握り直した。
周囲の人間がくるくると動き回る間、マミがアランの袖を引っ張り耳打ちした。
「さっき、彼処に女の子がいたような気がしたんだけどな」
半ば呆れたようにアランがマミを宥めた。
「マミちゃん飲み過ぎ」
「でもぉ――」
酔いからか動揺からか潤んだマミの瞳はじっと暗闇を見つめていめた。
*
閉店時間を迎えた店の裏口のドアを開けるとパラパラと小雨が降っていた。
酔い覚ましも兼ね降り続く雨に頭を冷やしながらヒロはゴミ箱の蓋を開けた。
酒に弱い訳ではないが徹夜明けのまま飲んだのが不味かったようで、内側から絞り上げられるように頭が痛んでいた。
痛みの波に飲み込まれぬように身体に打ち付ける雨粒に意識を集中させて、ゴミ箱の中の袋を引き抜いて回収すると、明日の朝一番でやって来る業者にもわかりやすい位置に処理券を貼り付けた所で、ヒロの視界に真っ赤な大ぶりのダリアの柄が際立つ傘をさした若い女にせっつかれていている岩永祥輔が目に入った。
ヒロは覚えず息を潜ませた。
*
『6th Devil』の向かいでドアノブにCLOSEの掛け看板を掲げながらも、まだ灯りの点いた室内窓際で、カウンター上のノートパソコンを眺めながらグラスを傾けている祥輔の姿が見える。
同じ袋小路にあって、落ち着いたレンガ造りのファサードの『BAR GOLDEN BAT』はハイクラスの客がお忍びで集まる隠れ家的人気店である。
そのオーナー兼バーテンダーである祥輔は、近隣の事業主たちからも一目おかれていた。
というのもそれは祥輔に関する噂のせいという側面もあったのだが。
「ああ見えてどうやら彼は元々はちょいと後ろ暗い仕事の関係者らしいのですよ、何でも店に顔を出す馴染み客の中にどうもそっち系の上役がちらほら見受けられるって専らの噂でねえ」
本業は劇団員で臨時のバイトであるタケルが生き生きとヒロに耳打ちするその妙な口ぶりは次回上演予定の探偵ミステリーものの影響であったのだが、それは別として普段見かける祥輔の剣呑な雰囲気からもその話に妙に納得しながら、ヒロはタケルの言葉を耳には留めなかった。
「最近じゃ頻繁に若い女の子が訪ねて来ては追い返されているみたいですよ、彼にご執心の花屋の店主が言うには彼独身なのに子持ちみたいですし、一体どういった関係なんでしょうね」
と、小鼻を膨らませたタケルがヒロの方へ手を大きく広げ振り向くが、その先には姿は無く、無情に裏口の扉は閉まった。
その場に取り残されたタケルは慌ててヒロの後を追った。
「ちょっとーまだ説明中でしょうがぁー」
ほどなく『BAR GOLDEN BAT』の灯りが消えた。
*
雨の勢いが増し始める。
ヒロの遠目に女と二、三言葉を交わしている祥輔が見える。
祥輔が女を見据え何か短い言葉を吐いた直後、金切り声を上げた女は祥輔を突き飛ばし足速に去って行った。
不用意に動くことが出来ず、その場に留まるヒロがこちらの気配に気がついた祥輔と目を合わせた。
ヒロは自分が生唾を飲み込む音が聞こえた。
気まずい視線を外しながら軽く会釈した。
束の間、祥輔が目を眇める。
慌てて踵を返し、ヒロは裏口の扉を開いて飛び込んだ。
動揺に鼓動が早まっていた。
明らかに見てはいけないものを見てしまった運の悪さを嘆きながら、裏口ドアに背中をつけたヒロは痛みの増した頭をおさえ、深く息を吐いて屈み込むと腕時計見た。
――あと三分だけ。
指針を確認しないまま、規則的な秒針のごく微細な振動だけが肌に触れていた。
床に足を投げ出し座り込んだその矢先、室内へと続く廊下に凝った暗闇の内で、えも言われぬ気配が走った。
ヒロの口から悲鳴にもならない息が漏れた。
「誰だ」
薄暗い廊下には物音もない。
それなのに“何か”がいる。
ヒロは勢いをつけて立ち上がった。
目の前にある廊下の先にある照明のスイッチまでの五歩を小走りし、壁際の四角いスイッチを強く何度も叩いた。が、仰ぎ見た天井の蛍光灯は元より抜かれていて、不安を振り払うすべもないヒロは焦った。
ドクドクと脈打つ頭を抱えて恐怖から己を引き離すようにきつく目を閉じた。
すると、細い糸がぷつりと切れたように気配は消えた。
*
とうに日付は変わり、深い時刻を迎えた店内は無人でヒロ一人だけが残されていた。
蛍光灯の灯りに浮かび上がった五畳ほどの室内は、入ってすぐ正面に向かい合わせの事務用の机が二つ、向かって右奥にトイレ、左側にパーテーションに仕切られた休憩所と応接間を兼ねたスペースが設けられている。
結局のところ今夜の客はマミ一人のみでお仕舞いとなり、そうした経営状況からみても接客、調理はもちろんのこと掃除からゴミ出しまでのあらゆる細かな業務も従業員総出で行うことは此処では至極当然のことであったのだが、いつもなら一通りの作業を終え、既に帰宅しているはずの時刻になってもヒロは休憩スペースのソファの上に留まっている。と言うのも、るいがうっかり食器洗浄機の洗剤を切らして閉店作業が中途半端な状態で滞っていたのである。
じゃんけんに勝ったサルマルとるいが買い物に出ている間、マミと営業後の食事に出かけるアフターを終えたアランがいつ帰ってもいいようにヒロは留守番を任されていたのである。
不穏な気配は感じられず、取り残されたヒロは痛みの波が引いたこめかみに触れ、何気なく手の平を天井に翳しただしぬけに人差し指の爪の間に黒いシミが入り込んでいるのが目に付いた。
汚れを落とそうと、もう一方の同じ指の爪を差し込んではみたが上手く取り去ることができず、思い立ってヒロはトイレの方へと足を向けた。
ひび割れたタイル張りのトイレに足を踏み入れるなり、すえた臭いに無理やり覆った芳香剤の甘ったるい臭気が鼻についた。
こんな風にしてひとつが気になり始めると毎度その他の情報もとめどなく押し寄せてくる。小さな物音や風の揺れ、物陰に見えるはずのないものが見えそうな気さえし始めた。
抗えず焦燥感に駆られながら洗面台に向かい立ったヒロは手早くシミを落とそうと、躍起になった。が、運悪くどこからか微かに鼓膜を震わせる無機質な高音に神経を絡め取られた。同時に目眩のような浮遊感に襲われ、頭の内側では痛みの波が押し迫り……微かな囁きが鼓膜を揺らした……
……束の間、静けさを掻き乱すような聞き覚えある明るい声が室内に響き渡った。
「たっだいまー」
両手に膨らんだ買い物袋を携えたサルマルが、肝心の洗剤を買い忘れて商店に戻ったるいよりも一足先に帰って来たのだ。
きょろきょろと気配を辿って室内を見回し、明かりの点いたトイレに向かい声を張り上げた。
「遅くなって悪かったなー、アランさんまだ帰ってないのー?」
半ば呆然と蒼白の顔を洗面台の鏡に映していたヒロは、カラカラに乾いた唇を舐めてからサルマルになあ、と声をかけた。
サルマルは買い物袋を音を立てて探りながら鼻歌まじりに答えた。
「うん?」
「やっぱ、俺さあ――」
「うん」
そこで思い惑い、ヒロは言葉を切った。
「――いや、何でもない」
ついに気が触れたのかも、などと口にするべきかどうか迷ったのだ。
ヒロは鏡の向こうの自身の視線から逃れるように眼を伏せた。
扉の向こうのヒロに笑みを投げかけたサルマルは、
「そっか」と、従業員入口を開いて出て行った。
*
ヒロだけになったフロアはどこかキンと冷たい沈静に包まれていた。
陽の届かぬ海底の暗闇にただ一人、来るともしれない外敵に全神経を働かせるようにして恐れを苛立ちにすり替えて貧乏ゆすりを続けていると、前触れもなく眼の前に仄明るい光が溢れヒロははっとした。
普段から締め切られたままの窓を覆うブラインドの隙間からちらちらと光が漏れていた。
正体を探るようにヒロはブラインドを引いた。
眩む様な光がどっと溢れて押し寄せるように意識は吸い込まれ、ひどく息が詰まった。
――目が眩むほどの陽光に包まれた屋外の陸上競技場。
――トラック上を揃いのユニフォーム姿の少年たちが一斉に駆け抜けて行く。
見たくもないフラッシュバック。
残像は硬い粘度でいつまでもしつこく嫌らしく絡みついて離れない。
――ヒロの顔を玉のような雫がいくつも滴り落ちる。
――悪態をついて踵を返したヒロの行手を少年たちが塞ぐ。
何度かき消しても繰り返し繰り返し頭を掠める光景はヒロの心を引き裂く。
――嘲笑、軽蔑、怨嗟、憎悪をそれぞれ露わにした醜い顔がこちらを見ている。
*
洗面所でヒロはふいに我に返った。
いつの間にここに居たのかそれまでの記憶がなかった。
サルマルに続いでるいとアランが戻り、キッチンの片付けが終わって……
……それから此処へは何をしに来たのだったか。
かぶりを振り、ヒロは勢いよく顔に水をかけて鏡を覗いた。
急流から命からがら這い出したようにずぶ濡れの惨めな顔がそこにあった。
はたとヒロは対峙した目の前のこの人物と意識の中の“俺”との乖離に驚いた。
俺の顔はこんな顔をしていたか?
この目は、この鼻は、口は、こんな形でここにあったか?
思いを巡らせてうちにヒロは背後に小さな影が佇んでいることを気取り、振り返った。
視線を落とした途端に影は動き出し、傍へ回り込んで来る。
思わず足を滑らせ凄然とするヒロに構わず影は話しかけてくる。
「ねえ、あなたも夢の中にいるのね」
くすくすと笑う影は、薄い色の長い髪と白いワンピースの裾を揺らす幼い少女の外形を浮かべている。
ヒロは不穏な予感に震え上がった。
また悪夢の中に落ちているのだと。
身体中の血が激しく脈打ち、息が詰まる。
うずくまり身を捩ってヒロは叫んだ。
「嫌だ、やめてくれ、こんなの俺はもうウンザリなんだよ!」
ドアが大きな音をたてて開き、
「おいっどうした」と、叫ぶ声とともにアランがヒロを覗き込んでいた。
ヒロが視線を移したその場につい先ほどまで居たはず少女は消えていた。
あえぐようにしてヒロは眼を潤ませながら首を振った。
「何でも……何でもないから」
意に反してこぼれ落ちた涙を隠すためヒロは顔を片腕で覆った。
ため息混じりにアランが手を差し出した。
「お前さあ――」
ヒロは泣き顔を見られたことに恥入り、アランの脇をすり抜けその場を逃げ出した。
ドアの前で立ちすくむ困惑顔のるいとすれ違い、情けなさに唇を噛み締めた。
宙に浮いた掌を握ってアランは苛立ちを発散させようとその場をウロウロし始めた。
「あー! もう何なんだよあいつマジで!」
アランの背をるいが辿々しく摩った。
「えっと、ヒロ君はほらっちょっぴり個性的って言うか恥ずかしがり屋っていうか」
「そんなレベルかアレ、客でもねえのにいつまで気い使ってやんなきゃいけねえんだよ」
余りのアランの勢いにるいがびくっと身を縮めた。
「そっそれは、私も、あんまり人のことは言えないし――」
「改善しようって気概が見えねえんだよ、そんな奴と一緒にやってけるのかって話だぞ」
るいは何とか小声でもごもごと言い訳を並べた。
「けどそれは……」
その場に不穏な空気が立ち込めていた。
ネオン輝く夜の街角を獲物を求めてカラスが跳ね歩く。
見渡す限りにひと気もなく明滅する照明だけが呼吸をしていた。
不夜城の入口で青い光を浮かべた殺虫器に身を投げた毒々しい蛾がバチンっと音を立てて落下する。
それを合図に滴り落ちた雫がぽつりぽつりとアスファルトを濡らし始めた。
法則に則った秩序ある雨音に混じってどこからか鼻歌が聞こえてくる。
袖と裾にピンクのリボンの付いたパジャマ姿の有紗が道路を裸足のまま歩いていた。
雨粒に重なる白い足に踏みつけられたの水たまりに波紋が広がる。
有紗はしゃがみ込んで小首を捻り、道路脇の側溝に眼を凝らしていたかと思うと、視線を泳がせて駆け出し、電柱とブロック塀の隙間に素早く手を伸ばし、それから踵を返して水溜まりの前で立ち止まった。
不可解な動きを続ける有紗は次第に唇から歌声を響かせる。
清廉さに密やかに宿る煩いが蛍光色の街に染み入る。
電柱に留まったカラスたちがじっと有紗を見下ろしていた。
唐突に視覚に捕えた何かを目掛けて有紗が駆け出した。
カラスたちがけたたましく喚き始め、飛び立った。
羽音が遠ざかり、雨が上がった。
やがて辺りには静寂が訪れ、有紗の姿も夜に溶けるようにして消えた。
キンメリオイの国に飛ぶ蝶は 島江南佳 @cajiri
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