第5話 あさきゆめみし

 年季の入ったロースターがドラムを軋ませ回転している。

 鈍色をした筒の中で直火焙煎されるコーヒー豆が爆ぜ混ざる軽快な音と、豊かな芳香に満たされたアールデコ様式の室内は、元々の深く渋い黄赤地に金のペイズリー柄の浮かぶ壁紙が経年変化を覆い隠すために薄い幕を引いたようなオレンジの照明に染められ、天井まで届く飴色の光沢を浮かべる陳列棚には多彩なコーヒー豆が揃えられている。

 奥行きの長い、いわゆるウナギの寝所のような空間に押し込められたカウンター席四つとソファ席が二つ。昭和の名残を留める珈琲店『マヌエル』は、最寄駅の再開発に乗り遅れたことで、人影もまばらな西口側の更に裏通りの小さな商店街の片隅で、三十余年もの間、繁盛することもないが衰退することもなくやってきた知る人ぞ知る無難な店である。

 この日も、濃く青い空に冴えた白い綿雲が浮かぶ情景を切り取った窓際のソファ席は、一杯のアイスコーヒーの上澄みを啜った後から溶けた氷で再度かさ増しされた無味無臭で茶色いだけの液体を何時間もかけて小鳥のように啄むような、まさに毒にも薬にも成らぬような常連客で埋められていた。


 不意に耳障りな音を轟かせ、豆を焼いていた焙煎機のドラムが不貞腐れてその場に居座ることを決め込んだ子供のように動きを止めた。

 カウンター内でうたた寝をしていた胡麻塩頭の中年が弾かれたように顔を上げるなり、そそくさと習熟した動作で焙煎機の前に立ち、本体に備え付けられている温度計を確認すると円筒型の細長いスプーンを取り出し、おもむろにドラム内に差し込んだ。

それから、その内で起きた惨事を物語る斑らに焦げた豆を目にして緒方孝人は顔を顰めた。

 緒方は糊の効いた白シャツに形よく結ばれた蝶ネクタイを身につけた、まさに珈琲店に相応しい苦み走った雰囲気を持つ、この店ただ一人の従業員である。

 既に慣れきったはずの焙煎の手順である冷却用のスイッチと攪拌用のスイッチをちぐはぐに何度か間違え、緒方はようやく豆を冷却槽に落とした。

 周囲に心地いいとは言い難いくぐもった臭いが漂う。

 そわそわと落ち着かない様子のまま、ひとまず緒方は素人目にも失敗作とわかる豆たちに風を当てるため、それをかき混ぜ始めた。

 その時、不意にショウウインドウの外を紺のブレザーにチェック柄のスラックスを纏った少年が駆け抜けて行った。

 八月昼下がりの暗影に思わず手の止めた緒方が息を詰める。

 しばし呆然としていた緒方が、これも昨夜、夢見が悪くほとんど眠れないまま出勤してきたことが仇となったのだ。と、思い立った。

いくら常に暇を持て余した店であろうと、日中ぼんやりと過ごすことはあってもこれまで一度たりとも居眠りなぞしたことなどなかった緒方は頭に掛かる靄を払おうと首を振った。

 それから気を取り直すようにロースターの電源を落とし、棚に仕舞われていたハタキを手に物販スペースの掃除を始めた。


 出入口近く、こちらも年季の入った丸テーブル上には、この店の主で緒方に珈琲についてのいろはを叩き込んだ師匠でもある片桐老人の趣味で収集された古ぼけた陶器製のミルや、珍妙な生き物の飾りが付いた鉄製のケトルなんかといった小物が無造作に混ざり合っている。それらはどれもが骨董的な店の一部のようにも見えた。ただ、その一角に明らかに場違いな若い女の子が数人並んだ写真パネルとCDが展示されていた。

 実の所パネルに映った女の子たちとは、緒方が執心している主に四国内で活動している三人組ご当地アイドル『和SUNボン』である。

 緒方が自作したパネルの左端で鮮やかな薔薇色のスカートの裾に届きそうな程のロングヘアの一部に赤紫のエクステンションを垂らした女の子に注視した緒方は、途端に息が詰まるのが感じられた。

「はあっ……MAYUちゃん」

 と、小さく首を左右に降り、震える手を疼く胸元に当てた。

その手の平には汗が滲み、熱を持った指先が脈打つのが感じられた。

 

 十三年前、平凡なサラリーマンであった緒方の築き上げた家庭は前触れもなく、息子の突然の失踪をキッカケに、妻との間にできた深い溝を埋められぬままに離散した。

 息子の和哉が姿を消した丁度その日は彼の十八になる誕生日であった。寝る間も惜しんで息子の姿を求め方々を探し歩き、片っ端から友人関係を訪ねて回り、成果もないまま途方に暮れるよりなかった緒方に向かって妻は、

「そういえばあの子はとても頭のいい子でした」

 と、ぽつりと呟き虚空に視線を漂わせた。

 それっきり妻も家を出て、無理を通して新興住宅地に建てた家も慰謝料に代わった。その後、仕事にも身が入らぬまま、やがて精神的に追い詰められた緒方は一時はホームレスにまで身をやつした。

 それでも全ての人間にそうであるように、無情にかつ平等に巡る時間の中で運を掴んだ緒方も紆余曲折を経て、ようやくこの店に落ち着くことが叶うこととなった。

 再出発してからの緒方は文字通りがむしゃらに働いた。これまでの人生の収支を取り返すような懸命な日々の中で、緒方は家族を恋しく思うだとか、過去を悔やむ余力などは無かった。

しかし、ようやく仕事にも慣れ、穏やかな生活というものを実感できるようになった頃、ふとどんなに振り絞って思い出そうにも“息子”という存在の顔はおろか、声や思い出さえもまるでタール状の赤い液体に上塗りされたようになって、判然としないことが気に掛かるようになった。

 その事実が過ぎる度、緒方は暖かく柔らかなベッドに横たわる自分に意識の及ばぬ所で自身が罰を与えているではあるまいかと感じられ、繰り返される鈍い痛みを伴う後悔のフラッシュバックに苦しんだ。

そんな緒方の心の慰めとなってくれたのが他ならぬアイドル『和SUNボン』であった。

夢に向かって一心不乱に笑顔を振りまく少女たちの姿に緒方は大いに慰められた。やがて彼女たちは、借りを返すために残りの日々と財産を捧げるに値する存在となっていた。


 緒方は頭にもたげた不快なものを振り払うようにして、写真のMAYUちゃんから向けられる無垢な笑顔に指先を這わせた。

 ――ああ、私はすっかりどうにかなってしまったんだな。

 緒方は自嘲するが、いつまでも冷めず残る手の平の温度に苛まれた。




 珈琲店『マヌエル』の常連客である斎藤敦啓はソファ席で一人スマートフォンを操作していた。

 横面を撫で、敦啓は何度目かのため息を漏らした。

 着信を知らせた画面上でクマのキャラクターのスタンプがハートを繰り返しこちらに向けて差し出し続けていた。

 視線を外した敦啓が項垂れたテーブルには、一見優しげな緑色で縁取られた離婚届が置かれていた。その右側の欄にはねが強く丸みのある筆跡で“斎藤莉緒”と署名がされている。

 目の前の紙に集中していた敦啓はふと背中に生ぬるいものを感じ振り返った。

 店内で二つだけのソファ席のもう一方に居るカップルの女性客の方と視線が鉢合ったのだが、敦啓夫婦の成り行きを盗み見ていた女性は慌てた様子で目を逸らした。

 捨て鉢な心持ちで脱力した敦啓はテーブルに額を押し付け、思わず愚痴をこぼした。

「何だこれ? どうしてこうなった?」

 それから混乱する頭を掻きむしると、テーブルに置かれている離婚届をチラ見するなり、敦啓は妻との記憶を辿った。


 スマートフォンの操作に夢中の敦啓を莉緒は向かいの席からじっと見据えていた。

「ねえあっちゃん、私の話聞いてた?」

「うん……ううん、えっ僕?」

 と、そのまま画面を操作し続ける敦啓に莉緒は強い視線を送り、何かを言いかけるが、代わりに顎を引き、深く息を吸い込んだ。

「もういい」

 そう言うなり、鞄から取り出した紙をテーブルに勢いよく叩きつけた。

 意表をつかれた敦啓も体をビクンっと跳ね上げ、スマートフォンを見つめたままで照れ笑いを浮かべた。

「えっ何、びっくりしたぁ」

 その緩み切った表情は余分に莉緒の怒りを焚きつけた。

 一方で敦啓はのらりくらりと咄嗟に抜け落ちた返信内容に頭を捻り、ようやく絞り出した言葉を打ち込みながら莉緒からの問いかけに曖昧なまま答えた。

「えっと、もういいってどっちのもういい? もういいって意味? それとももういいってこと?」

 いつもの莉緒ならそこから補足され、汲み取られた夫婦の会話が続く筈であった。

 しかし、今日の彼女は何かが違った。

 唇を引き結んだまま、おもむろに立ち上がった莉緒から敦啓に平手が飛んだ。

 静まり返った店内に陽気なラテン音楽のBGMだけが響いていた。

 そして振り返ることなく莉緒は出入り口のドアベルを鳴らして去って行った。

 敦啓はスマートフォンを握ったままの格好で痛みを越えた衝撃に身も心も硬直していた。

 やがて、店内奥側のソファ席に座っていたカップルがひそひそと囁き合う声が敦啓の頭上をたなびいて渡って行った。

そこへ丁度やって来た緒方がテーブル上に湯気の立つコーヒーと渦巻き状のストローが付いたオレンジジュースを並べた。

これまでの一部始終を別段意に返さない様子で伝票を確認して伏せ置き、立ち去って行った。


 水滴を帯びたオレンジジュースのグラスの氷がカランっと鳴って崩れた。

 ようやくぎこちない動きで敦啓は固まっていた横顔を正面に戻すことに成功した。


 *


 美容室の店長を務める敦啓の店のオーナーの開いたホームパーティで敦啓と莉緒は出会った。

 莉緒はオーナーが別に経営するヨガスタジオのアシスタントであり、記録的な酷暑が去ったばかりの金曜の夜に開かれたパーティの裏方として文字通りキリキリと働いていた。


 優雅なジャズが流れる高層マンション上階から望む夜景。傾けたシャンパングラスの泡に溶ける社交場を愉しみ寛いでいると見せかけることに長けた強かで美しい人々。

 男女もしくはそのどちらでもある客人たちを眺めならが敦弘は、その場の純度を下げるでもなく気配をその場に紛れ込ませクラブボトルのビールを流し込んでいた。

 そうして彼にとっての本当に美しい人を思い浮かべていた。


 時計は八時を回り、すでに小一時間ほど泥酔したモデル風の若い女に絡まれていた敦弘は、ようやくその友人らしい女たちによって解放された。

 襟を正す敦啓をちらちらと盗み見る女たちに、敦啓も愛想よく手を振ってみせた。

 やがて、くすくすと甘やかさを含んだ弾むような声を上げてその一団は去って行った。


 敦弘にとって新人の頃から可愛がってもらていったオーナーの家は、まさに勝手知ったると言ったところであり、広いベランダの隅に置かれた丸々お客様用の酒だけが詰め込まれている業務用蔵庫からまんまとキンっと冷えたビールを手に入れた。

 絡みつく様な湿気に満たされた屋外に人影はまばらで、先月に開かれたバーベキューパーティでうっかり脚を焦がしたガーデニングチェアに敦弘はどっかりと腰掛けた。

 そうしてポケットからスマートフォンを取り出すが、着信の様子はない。

 ここ数日、敦啓は意中の人からの途切れた連絡にまんじりともせず、拗ねてもいた。

 仰反るように背伸びし、逆さまになった窓越しのキッチンで電話の子機を片手に忙しない様子で動き回る人影が映った。

 その影ははフェミニンなターコイズのレースワンピースを纏いながら、ゆるく波打つように巻かれていたであろう横髪が頬に張り付くほどに汗に塗れ、剥がれたマスカラは粒になって目元に張り付いた上、ファンデーションも斑らに浮いた悲惨な様相ながら、同時に正体不明の二本のボトルを組み合わせて奇妙な色のカクテルを作っていた。

 何を隠そう敦啓もそれとなしにオーナーからこのパーティの手伝いを任されてはいたのである。そして、もう一人スタッフが手伝いに来る手筈だとは知らされていたのだが、それらしい姿を認めたのはこの日初めてのことであった。

 敦啓が後日話を聞いたところ、気丈にも莉緒は一人きりで次々に訪れる客のあらゆる飲み物の注文と、ばらばらに帰り始める客のタクシーの手配、まばらに遅れて顔を出す客には甲斐甲斐しくアペリティフを振る舞っていたらしい。

 鬼気迫る表情でとにかく手落ちなくパーティーを終わらせることに注力している莉緒の姿はまるで躾の行き届いた忠実なメイドのようで敦弘は思わず苦笑した。

 一見お人好しな性格の裏にある雑草根性と漲る野心の独特な匂いが敦啓にも嗅ぎ取れたからである。


「もっと上手にサボればいいのに」

 追加の食材の買い出しを任された莉緒に、同じく新たなシャンパンをケースで頼まれた敦啓が近場のスーパーを目前にして信号待ちに並び立った横断歩道の前で言った。

 ほんの数分前に自己紹介をしたばかりの敦啓に、一瞬ムッとした横目を向け、すぐに信号に視線を移した莉緒は小さく息を吐いた。

「こういう性分なんです」

 敦弘は嫌味に聞こえない様にあくまで緩い口調で笑った。

「なら尚更、手を抜ける所も覚えなきゃでしょ」

 返事をしないまま俯いている莉緒の顔を敦啓は戯れに覗き込んだ。

 すると途端に莉緒は視線を逸らし、

「斎藤さんってモテるでしょ」

 と、苦々しい表情を浮かべた。

 思いがけず口説きにかかっていると取られたことに敦弘は困惑し首を捻った。

「まさか」

 すると、唐突に莉緒が敦啓に問いかけた。

「斎藤さんもいつかはああいう所に住みたいって思う?」

 その視線はいつからか信号より上を見つめているようであった。

 それを追うように敦弘も顔を上げた。

「さあ、僕は別にゆっくり眠れる場所ならどこだっていいかな」


 夜中の十一時。真の夜が訪れることのない空の下を足早に行き交う人々。所在証明するように騒音をたてて駆け抜けていくスポーツカー。どこかで甲高い女の叫び声とガラスの割れる音。街灯の下でゴミを貪るカラス。

 絶え間なく煌々と光を溢す街に影を落として佇む敦弘は体の内からぞわぞわと湧き出す衝動にたじろいた。腹の底で時間をかけて入念に隠した泥沼と化した理性と欲求が相容れぬままとぐろを巻く。

 こんな時、敦弘は頭の中で自身を幼い子供のようにして言い聞かせる。

 ずっと好きな女がいる。どんなに尽くしてもきっと彼女は僕を愛さない。

 でも、それでいい、ただ恋心を捨てられない僕が間抜けなだけだ。

 それでも僕だけは誓ってあのひとを一生見捨てたりはしない。誰にも傷つけさせない。そのために必要なことは何だってやる。誰よりも近くで僕こそが一番の親友でいるんだ。

それから呪文のように念じる

 僕は幸せだ。これで十分。望むものなんてない……

 その時、敦啓のスマートフォンが着信を知らせた。

 宥めすかす声を無視した狂おしい叫びが、乾き切ってひび割れたの胸懐の隙間から吹き出すのが感じられた。

 ……だけど、僕はどうしようもなく彼女が恋しい。


 何もかもを振り払うように敦啓は莉緒の横顔を見た。


 *


 ぬるくなったコーヒーを一口すすり、試しに瞼を暫くぎゅっと閉じ、薄く徐々に開いてみるがテーブルの上の緑の紙はそこに在った。


 いつからか妻の様子がおかしいことに敦啓は薄々勘づいていた。

 まずこれまで仕事中に連絡をしてくることの無かった妻がやたら語気を強めて帰宅時間を知りたがり、目覚ましも必要としない朝型であった筈がひどく寝起きが悪くなった。日に日に掃除をさぼりがちになり、聞きなれない大粒のサプリを顔を顰めながら飲み始めた。そして、何より大好きなコーヒーを止めた。

 恐らく莉緒は妊娠したのだろう。紛れもなく自分との子供である。それとなく敦啓も察してはいた。にも関わらず莉緒はそれを打ち明けないまま離婚を決意している。この事実をどう受け止めるべきなのだろうか、大人の男として、配偶者への責任を持つ夫として、子供の親として、こんな場合には一体どうするべきなのだろう。

 すると、思考を遮るようにスマートフォンが着信音を響かせた。

 敦啓の手の内で鉛のように重たくなったスマートフォンがこぼれ落ち、机の上を滑って向かいの席にいたはずの妻の影を乱暴にかき消した。

 敦啓は身体ごと乗り出してと縋るようにそちらへと手を伸ばした。




 緒方は写真パネルのMAYUちゃんと見つめ合っていた。

 すると、その背後から軽やかなドアベルの音が響いた。

 締め付けられる胸に手を当てたまま緒方は深く息を吐き、ゆっくり振り返った。

 視線の先に俯いたまま微動だにせず、立ち尽くす女性客がいた。

 口を開こうとする緒方を遮る様にその女性は一歩を踏み出した。

「あの、私のことわかりますか?」

 落ち着かない心持ちを紛らすようにロングヘアをかきあげたその顔に緒方は目を凝らし、やがてはっと息を漏らした。

 汗を滲ませたその手からハタキが滑り落ちた。

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