炎天下に旗ふれと母は産んだか

ぶざますぎる

炎天下に旗ふれと母は産んだか

 私は2号警備員の職に就いている。

 以前、土木工事の現場で立哨していた際のこと。

 おそらく母と息子であろう、30後半くらいの女性と小学校低学年くらいの男の子の二人組が歩いてきた。通りすがりざま、母親の方が私を指さしながら「勉強しないと、ああなるよ」と男の子に言った。

 母親は、明らかに私にも聞かせるように喋っていたので、私はへへへ、と笑いながら「どうも」と会釈した。

 男の子は私に手を振ったが、母親は直ぐにそれをやめさせて、男の子を連れて去っていった。

 この仕事をしていると、こういった経験も珍しくない。

 ある現場では大学生らしき青年3人組――真昼間だったが彼らは明らかに酔っぱらっていた――が立哨中の私に近づいてきて、「よぉ、底辺! 」とからかってきた。

 この時も私はへへへ、と笑いながら「どうも」と会釈した。幸いにして、私は神経が図太い。身体的な暴力を振るわれない限り、罵倒くらいではダメージを受けないのである。

 そうでなくとも人間には慣れがある。最初はこういった心ない言葉に一々傷ついていた新人隊員も、2、3ヶ月もすれば見違えるようにタフになり、少しのストレスではへこたれなくなる。


 よく現場が一緒になるOという隊員がいる。

 彼は中肉中背、20代後半の男である。

 私が隊長を務める土木工事の現場に、彼が配属されたのが我々の出会いだ。

 彼はその日が初出勤だった。私は現場前日に内勤から

「明日現場が一緒になるOさんは、長い間引きこもっていた方なので、優しく接してあげてください」と言われていた。

 この人は大丈夫なのか、というのが彼に対する私の第一印象である。

 まず、彼はロクに喋れなかった。一応、こちらの問い掛けに対して、ボソボソと喋ったり首を振ることで返答はしていたが、それではこの仕事をこなすのは難しい。

 よく誤解されるが、工事現場の立哨はただ立っていればいいという訳ではない。規制帯からのダンプの出し入れ、それに伴う誘導。近隣住民への気配り、クレームや配達業者等への対応。何かとやることが多く、コミュニケーションスキルもそれなりの水準を求められる。

 私は一応、吃音や緘黙などの症状があるのかとOに尋ねた。

 彼は小声で「違います」と言いながら首を横に振った。おそらく長期の引きこもり生活で、うまく声が出せないのだろう。

 現場が開始した。

 私なりに色々と配慮したつもりだったが、どうしても限界がある。Oは作業員から怒鳴られ、また運悪く質の悪い運送業者に罵声を浴びせられ、昼休憩の際にはだいぶ参っていた。私は無線を使って、現場近くの公園で休憩する彼を励ました。

 そんな彼だったが、今では簡単な現場であれば隊長を任されるくらいに成長し、以前とは見違えるくらいハキハキと喋れるようになった。内勤の配慮かは識らないが、初現場の後も、私とOは同じ現場になることが多かった。そのためか、彼の方でも私に対して徐々に心を開いてくれ、今では私的な話もしてくれるようになった。


 ――ずっと引きこもってたんですけど、ある日、母が亡くなったんです。ぼくは、ずっと両親とは顔を合わせないように生活していたんです。母の遺体を見て、自分の中のイメージと比べて母がとても老いていたことに衝撃を受けました。

 父が葬儀とか諸々の手続きを済ませる中、ぼくは何もできませんでした。そうして作業する父の姿も、僕の中のイメージとは比べ物にならないくらい老いていたんです。

 母の遺品の中に日記がありました。

 多分、遺品整理をしていた父がぼくに読ませようとしたんでしょうね。ある日、リビングのテーブルの上に置かれていたんです。日記の中の母は、ぼくの心配ばかりしていました。

 ぼくは両親を憎んでいたんです。生んでくれなんて頼んでない。お前らが性欲に負けて勝手に生んだんだから、おれが死ぬまで責任を持て。お前らのせいでおれはこうなったんだ。おれをこんな風に作り上げたのはお前らだろ。おれは知ってるぞ、お前らは心の中で、おれに早く死んでほしいと思ってるんだろ。だったら殺せよ。おれだって生きてたくねえよ。

 扉越しにでしたが、両親に怒鳴りつけたこともありました。

 親が死んだら喜んでやるって思ってたんですよ。でもね、母の死に直面して、後悔しか湧いてこなかったんです。後悔先に立たずだって分かってますけど、やっぱり後悔しちゃいますよ。他にやりようは無かったのかって。馬鹿ですよね、あれだけ憎んでいたのに、これですから。

 結局ぼくは子どものままだったんですよ。構ってくれ構ってくれって。ひな鳥が餌を求めて大口開けて親鳥にアピールしますよね。ぼくがやってたのはあれだったんですよ。

 とにかく、老いた両親を見たこと、まぁ母は遺体だったんですが、それから母の日記を読んだこと、他にも色々あったんですけど、ぼくは生活を変えようって決心したんです。

 ひきこもりの支援センターが近くにあったんですけど、それには行きませんでした。とにかく早く仕事を見つけて、人生を変えたかったんです。

 父の老いた姿がぼくを焦らせたのもあります。母は無理でしたが、父が生きている間に罪滅ぼしをしたい。

 いくつも求人に応募して、落ちて落ちて落ちまくって最終的にたどり着いたのがこの仕事なんです。面接でも全然口が回らなかったんです。絶対に落ちたなと思ったんですけど、採用されました。

 〇〇(私のこと)さんもご存じの通り、働き始めのぼくは全然ダメだったんです。正直もうやめたいと思ってました。でも、ここにしがみつくしかない、ここで折れたらお終いだと思って耐えてたんです。そのおかげで、今こうして曲がりなりにも社会人でいられるんです。あの時、堪えてよかったなと思ってます。

 でもガッツだけで乗り越えてきた訳じゃないんですよ。ぼくの心を支えてくれた、そして向後も支えてくれるであろう、ある出来事のおかげでもあるんです。

 

 J建設の現場を覚えてますか? ほら、急傾斜地の崩壊対策工事の。〇〇さんが隊長で、よく僕も配属されてたところです。


(※J建設は、警備員に対する当たりが非常にきつく辛辣な業者である。同僚の警備員の中にはJ建設の現場にNGを出している人もいる。ある日、運悪くそのJ建設の現場で隊長に任ぜられた私は案の定、えらい目にあった)


 ――〇〇さん、一日中怒鳴られてたじゃないですか。ぼくの立哨位置まで作業員の怒鳴り声は届いてましたよ。大変でしたよね。でも、ぼくもかなり怒鳴られたんですよ。

 金髪の作業員が居たじゃないですか、あいつがぼくの立哨位置を通るたびに、嫌味を言ったり怒鳴りつけてきたりしたんですよ。

「こっちは暑い中動いてるのによぉ、てめーは、ニンジン(※現場用語: 誘導棒のこと)ぶらさげて日影で突っ立ってるだけかよ」

 とか色々と嫌なことばっかり言うんです。しかもあいつ、誘導指示に従わないじゃないですか。バック誘導の時に、通行人が居るから止まれって言ってるのにダンプを停めないし。それでいて

「てめーが通行人抑えてりゃいいだろうが」ですよ。最悪ですよ。

 何度か現場に配属される裡、ぼくはあいつのターゲットにされたみたいなんです。 

 ことあるごとに、ぼくに当たり散らすんです。

 今思えば現場にNGを出せばよかったんですけど、それだとなんか負けた気がして悔しかったんです。〇〇さんも一日中あんなに怒鳴られてるのに、規制帯の真ん中で作業員に囲まれながら頑張ってる。だからぼくも頑張ろうって思ってたんです。

 でもある時、あいつに言われたんです。

「てめーみたいなのが子どもだと、親も気の毒だよな。あ、てめーみたいな奴の親って時点で、どうせロクでなしのクソ野郎か」

 殺してやろうかと思いました。

 でも喧嘩になれば絶対にぼくは勝てません。それに隊長の〇〇さんにも、会社にも迷惑が掛かるじゃないですか。我慢したんです。それでもやっぱり悔しくて辛くて。あの時ばかりは本当に心が折れかけていたんです。

 ぼくの立哨位置の右手に、緩やかな短い上り坂があったのを覚えていますか。親を馬鹿にされて落ち込んでいた時に、そこへ気配を感じて、ふっと見上げたんです。

 母が立っていました。

 遺体の時の、老けた母じゃありません。若くて元気なころの、ぼくが引きこもる前の母でした。

 その母が坂の上、陽炎のむこうでニコニコとしながら立っているんです。

 ぼくは駆け寄ろうとしました。すると母が静止するようなジェスチャーをしたんです。

 仕事中でしょう。そう言われたような気がしたんです。そして母は優しくぼくに手を振りました。ぼくは涙が出てきて、思わず目をこすったんです。もう一度坂の上を見ると、もう母はいませんでした。

 たとえ幻覚だろうと、ぼくは母の姿のおかげで持ち直したんです。もう少し、もう少し頑張ろう。そのもう少しを積み重ねれば長い年月を我慢できる。心が軽くなりました。あの日、無線で〇〇さんから休憩に入るように言われた時、ぼくの声は弾んでいませんでしたか。あの元気の訳はそういうことだったんです。

 それに、もうあのいじわるな作業員のことも怖くなくなりました。あの後、あいつはまたぼくを馬鹿にしに来たんです。でもその内容も、もう覚えていません。母がぼくを支えて守ってくれるという確信があったんです。

 ぼくをバカにして嘲笑う作業員の横に、母が立っていました。

 母は物凄く目を見開いて、作業員のことを睨みつけていました。母の眼球が勢いで外れてしまうのではないかと心配になりました。作業員には母の姿が見えないようでした。作業員はしばらく僕を嘲ったあと、満足したのか去っていきましたが、母はずっと作業員について行ったんです。後ろ姿であっても、母があの凄まじい目で作業員を睨み続けているのが何となく判りました。

 そういう経験もあって、その後もあの現場に配属されることがあっても耐えることができたんです。ぼくも現場経験を重ねる裡に自信がついて、気づかぬ間に雰囲気も変わってきたのでしょうか、あの作業員もちょっかいを出してこなくなりました。



補記

補1

 話の舞台となった急傾斜地崩壊対策工事の現場は、既に終了した。私は現在も、たまにJ建設の現場に配属される。そして案の定、えらい目に合う。ただ、Oをいじめていたサングラスの作業員のことは、傾斜地の現場以降、一度も目にしたことがない。

補2 

 基本的にこの業界は慢性人手不足なので、余程の問題がない限り、面接を受ければほぼ確実に採用される。現2022年、コロナ禍では多少状況に変化があったらしいが、それでも他業種に比べれば門戸は広く開かれている。

 本稿では辛いことばかり書いたが、現場によっては作業員も優しいし、おいしい思いができることもある。

 もしあなたが職にあぶれたとしたら、この仕事を候補に入れてみるのも悪くないと思う。

 もしかしたら、私と出会うことになるかもしれない。その時はよろしく。


<了>

 

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