やくびょうさまは祠の中に

古博かん

やくびょうさまは祠の中に

 こほっと喉に小さなつかえを感じた保育士さんが軽く咳き込んだ時、ちぃちゃんは一冊の絵本を携えてトコトコやってきた。


「ねえ、これ読んで。これ読んで」


 大きなお目々でじぃっと見上げて、小さな両手が差し出した絵本には、暗いところに座り込む女の子の後ろ姿が描かれていた。後ろ姿の女の子は、どこか分からないけれど、どこか明るいところを見つめて小さなお手てをすぅっと伸ばして座っていた。

 明るいところには大きな黒い文字で「やくびょうさまはほこらの中に」とだけ書いてある。それがどうやら、この絵本のタイトルらしい。


「いったい、どこでこんなご本を見つけてきたの?」


 保育士さんは受け取った絵本をまじまじと見つめて小首を傾げた。


「ねえ、これ読んで。これ読んで」


 ちぃちゃんは相変わらず同じことを繰り返し、そばに張り付いたまま、じぃっと見つめてくるばかり。

 せがまれるまま、保育士さんは絵本の表紙をゆっくりと開いた。ちぃちゃんは真横に座ってじぃっと絵本を見つめている。


「むかし、むかし。あるところに、山にぐるりを囲まれた小さな村がありました」


 ——その村は、暑さ寒さの厳しい村で、毎年夏になると日照りが続いて田畑は干上がり、冬になると降り積もる雪に閉じ込められるような村でした。


 なかなか作物が育たないので、春から秋の間は若い男衆は険しい山道を降りて出稼ぎに行き、子どもたちは山間やまあいに分け入って木の実や山菜、アケビや柿を採ってきては村のみんなで少しずつ分けて食べる慎ましい暮らしをしています。


 冬は冬で大人の背丈よりも高く積もる雪が村の全ての出入り口を塞いでしまうので、村の人たちは雪が溶けるまで一歩も外へ出られません。びゅうびゅう唸る風の音を聞きながら、ただ、じっと雪が溶けて風が止むのを待つばかりです。


 やがて外が暖かくなり、ぴちちと鳴く鳥の声が聞こえ始めると、山々の間から、ずどどどどと大きな音が響いてきます。そしてようやく道がひらけて春が来るのです。そんな生活をもう何十年、何百年と繰り返している人々です——。


(これはいったい、どこの地方のいつの話なんだろう)


 保育士さんは絵本を読み聞かせながら、不思議に思ってふとページを捲る手を止めた。ちぃちゃんも保育士さんも、交通網が発達し生活基盤が安定している都会で生まれ育った現代っ子だ。こんな厳しい生活を経験したことも想像したこともない。


「ねえ、早く読んで。続きを読んで」


 ちぃちゃんが止まった保育士さんの手を揺すりながら、大きなお目々でじぃっと見上げて続きを促す。


「ああ、そうね。ええと——、そんな小さな村の外れの外れには、小さな祠がありました」


 ——祠の下には深い穴が掘ってあって、村人はありとあらゆる災いをこの祠に納めていました。そうして祈ると、村のみんなの平穏無事が叶うというのです。


 ある年のある日、村の子どもが一人、こほこほと小さな咳をするようになりました。何日経ってもずっとこほこほ咳を繰り返し、止む様子がありません。咳き込んでばかりでご飯も水もろくに喉を通らないので、子どもは少しずつ少しずつ弱っていきました。心配した隣の家の子どもがお見舞いに訪ねると、少し元気そうにはするものの、やはりこほこほ咳は止まりません。


 手の施しようがないと誰もが諦めた時でした。隣の子どものお見舞いから数日後、子どもの咳はぴたりと止みました。喜んだ子どもとその親が万歳をした時、隣の家からこほこほと小さな咳をする音が聞こえてきました。お見舞いに訪ねた子どもたちが次々と咳をし始めたのです。


 お見舞いに訪ねた隣の子を訪ねた更に隣の家の子と親がお見舞いに訪ねると、数日後にはぴたりと咳が止み、次には隣の隣の子とその親が咳をするのです。そうやって次々と、申し送りをするように咳が流行はやり、次へ移るを繰り返します。


 村人の間には、いつの間にか「咳は移すと治る」という噂がまことしやかに広まりました。


 村人たちは我先を争うように咳をもらい、咳をするようになりました。では、最後に咳を移される人は、いったいどうすればいいのでしょう。


 村の中では次々と咳をしては治まってを繰り返し、最後に咳をし始めたのは村の外れに一人で住む小さな女の子でした。その女の子には両親はいません。おとうは女の子が生まれた年、出稼ぎに行ったまま二度と帰ってきませんでした。おかあは春先の、ずどどどどに巻き込まれて二度と戻ってきませんでした。


 村の外れでたった一人、女の子は時々村の大人が様子を見にくる以外、ほとんどの時間をたった一人で過ごしています。そんな女の子が咳をし始めたのです。


 村人は、女の子を連れて村の外れの更に外れにやってきました。小さな祠はそこに建っていました。

 村人は祠の下にある深い穴に女の子を押し込めて、小さな祠の小さな格子戸を閉ざします。そして朝晩に一度ずつ、麦飯のむすびと竹筒の水筒をお供えし、両手を合わせて「やくびょうさま、やくびょうさま。お鎮まりください、お鎮まりください」とだけ唱えて去っていきます。


 女の子はこほこほと咳をしながら、小さな手を目一杯伸ばして麦飯と水筒を手繰たぐり寄せます——。


(これって、人身御供ってやつ?)


 古い時代、まだ医療が発達していない頃、あらゆる疫病、災いは生贄を捧げて治まるものと考えられていた。集団の利益のための小さな犠牲は、一種の社会正義であり、また必要悪とされていた。幼い頃に聞いたことがあるような、ないような、保育士さんは思わず眉を顰めて手を止めた。


(ひどい話。こんな絵本、とてもじゃないけど子どもに読ませられない……)


 一定の社会保障が制度化された現代で、こんな絵本は時代錯誤もいいところだ。むしろ情操教育に悪影響だと読むのをやめようとした時だった。


「ねえ、早く読んで。続きを読んで」


 ちぃちゃんが先ほどよりも少し強く腕を揺さぶったおかげで、保育士さんは、はっと我に返り、ずっと隣にちぃちゃんがいたことを思い出した。


「ちぃちゃん、このご本はもう——」

「ねえ、早く読んで! 最後まで読んで!」


 思いのほかの剣幕で、ちぃちゃんは小さなお手てで保育士さんの膝をぱんと打った。大きなお目々には年齢に見合わない強い非難が見てとれた。すっかり気圧されてしまった保育士さんは、渋々、読みかけの絵本に視線を落とす。


「村の外れの外れに建つ小さな祠、そこに、やくびょうさまを鎮めたおかげで、山にぐるりを囲まれた小さな村には再び穏やかな生活が戻ってきました」


 ぼそぼそと掠れる声で読み上げる保育士さんの方が辛くなり、本当はこれ以上読みたくないのだが、ちぃちゃんは読んで読んでと急かすばかり。


 ——村人はみな笑顔を浮かべて活気づき、春から秋まで男衆は出稼ぎに向かい、子どもたちは山間で木の実や山菜、アケビや柿を採ってきます。


 村の外れの外れに建つ祠のことには、誰も何も触れません。こほこほと咳をしていた女の子のことを一言も口には出しません。自分たちの日常が、身寄りのない小さな女の子の疫病ぎせいの上に成り立っていることを分かっているから、あえて何も言いません。誰かの不幸の上に村の幸せがあることを知っているから、人々は何も言いません。言えるわけがありません——。


「だから、この絵本を読んだあなただけは、暗い祠から手を伸ばす、やくびょうさまのことを忘れないであげてください。おしまい」


 読み終わった保育士さんは、どくどくと嫌な鼓動を感じながら、なんて薄気味の悪い本だろうと思い、苦々しい気持ちで絵本の裏表紙をぱたんと閉じた。


「やくびょうさま、やくびょうさま。おしずまりください、おしずまりください」


 ちぃちゃんはじぃっと裏表紙を見つめながら呟いた。裏表紙には小さな暗い祠が一つ、中央にぽつりと描かれていた。


「今は医療が発達しているから大丈夫。やくびょうさまは、もういないよ」


 保育士さんは、ちぃちゃんを宥めるようにそう言った。ちぃちゃんは大きなお目々でじぃっと保育士さんを見上げて、それからぽつりと呟いた。


「ちぃちゃん知ってるよ。今は、こういうの——って言うんだよ」


「え?」


 まだ幼いちぃちゃんが、どうしてそんな難しい言葉を知っているのか、保育士さんは思わぬ返事に面食らいながら、ちぃちゃんを見つめた。


「やくびょうさまはいるんだよ。今もここにいるんだよ。暗いところに押し込められて、こほこほ咳をしてるんだよ」


 ちぃちゃんの大きなお目々には、強い強い感情が溢れていて、保育士さんはすっかり気が動転してしまった。


「あのね、ちぃちゃん」


 保育士さんが言葉を続けようとした直後、背後でがらりと引き戸が開いた音がした。びくりと肩をすくませて振り返ると戸口からひょっこりと顔を覗かせたのは、少し白髪の混じったいかにもベテランといった風格の先輩保育士さんだった。


「あら、ちぃちゃん。またここにいたの?」


 ダメじゃない、みんなお教室にいるのに。


 小言まじりのため息を吐きながら、先輩保育士さんは床に座り込んで大きなお目々でじぃっとこちらを見上げているちぃちゃんのそばに歩み寄る。


「ああ、よかった。ちぃちゃん居たんですね」


 少し遅れて戸口から顔を出した、糊の効いたエプロンも初々しい若い保育士さんが安堵の声を上げた。


「あら、ちぃちゃん。なあに? そのご本」


 ちぃちゃんが両手に抱えている絵本に気がついて、若い保育士さんは小首を傾げた。


「ああ、それね。薄気味悪いお話なんだけど、ちぃちゃん本当にそのご本好きねえ」


「疫病の神様ですか?」


 若い保育士さんは絵本のタイトルを見て怪訝そうに尋ねる。


「うーん、正確には疫病患者を神様に見立てて隔離放置するって感じかなあ」

「いやだ、ネグレクトじゃないですか、それ」

「まあ、現代だとそうなるかな」


 そのお話の舞台が、この辺りだったらしいよ——と少しおどけた調子で先輩保育士さんがからかえば、若い保育士さんが驚いた様子で、ひぇっと息を呑んだ。ちぃちゃんと手を繋いで教室を後にする保育士さんたちの背後で、こほっと一つ小さな咳払いが漏れた。


「あら、風邪? ちょっと大丈夫?」

「え? 何がです?」


 若い保育士さんは不思議そうに振り返る。至って健康そのものという様子に、先輩保育士は釈然としないながらも空耳かと思い直した。

 ちぃちゃんの手を引いて元の教室まで戻ってきた時、ふと保育士さんたちは妙な既視感に囚われて立ち止まった。


「そう言えば、前もこんな会話をしたような気がするんですけど……」


「ちょっと気味の悪いこと言わないでよ……あら、待って。ちぃちゃん、どこ行ったの?」


 確かに手を繋いでいたはずのちぃちゃんの姿が絵本ごと、忽然と影も形もなく消え失せた。二人は顔を見合わせて、それからまた、初めからそうであるかのように、ちぃちゃんを探して同じところをぐるりと辿る。


「ねえ、これ読んで。これ読んで」

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