第ニ奏 † 辺境の村タラ

 太陽はすっかり登り、暖かい光で大地を照らしていました。しかし、心なしか草木の元気はありません。道の辺に咲いた小さな花には萎れているものもかなりありました。家と家の間隔が狭くなっていく村の中心地を走り抜け、広場を通り過ぎればそこにはエーシュア教会があります。

「遅くなっちゃった」

 三角の屋根には十字のオブジェ。ステンドグラスで彩られた大きな丸い窓が特徴です。

 ルイはその正面の入り口ではなく、柵を避けて左手に曲がり、裏手へと迷わず駆けていきました。

 さっき拾った本をお家に持って帰り、それから、なんだかいつもと違うような気がして、森をあちこち見て回っていたら、だいぶ時間が経ってしまいました。

 お腹の虫はぐるぎゅると音を立てて鳴っています。

 ルイは毎日、水汲みの井戸の脇を過ぎた教会の裏口でご飯をもらっているのでした。パン一つと少しのスープですが、それしか頼りがないルイにとってはご馳走です。

「あれ?」

 しかし、意気揚々と角を曲がると、いつもご飯が置いてあるはずの樽の上には食べ物は見当たりません。あるのは空っぽになった器とお皿だけ。

「え、え!?」

 ガーン、とルイの頭の上で大きな鐘が鳴りました。

 何で? 何で? と、足元や樽の裏に頭を突っ込んで探しても欠片すら見当たりません。ルイは口をあんぐりと開けて、その場で呆けてしまいます。

 すると、

「あールイだ! ルイが来たぞ!」

「!?」

 後ろから投げつけられた大きな声に、びっくりして我に返りました。

「ペト!」

 顔を上げるとそこにいたのは、腰に両手を当ててふんぞり返っているガキ大将でした。

 リーダー格のペトの後ろには、その取り巻きの子供が二人控えています。

「食べものをソマツにしたらいけないんだあ! 魔女が来る前にオレが全部食べてやったぜー!」

「ええぇえぇぇぇ、そんなぁぁあぁぁあ」

 ガーン、とルイの頭の上で二回目の大きな鐘が鳴りました。 反響にお腹の音も重なります。

「お腹すいたよ~!」

「お前が遅いから悪いんだよ!」

 お尻を突きだしてぺんぺんと叩くペトに、ルイは両手でお腹を抱えます。

「それじゃあボクお腹すいちゃうよ! どうするの!?」

「知らねえよ! そこら辺の草でも食べてろ!」

「そこら辺の草って、食べたことある? 苦いよ!」

「し、知らねえよ! っていうか食ったことあんのかよ! 牛かよ! 牛! ルイは牛だ~! 牛ならモーーって鳴けよ! 鳴ーけ! 鳴ーけ!」

「「鳴ーけ! 鳴ーけ!」」

 取り巻きの声も合わさって、鳴け鳴けコールが始まります。両手で調子を取るように小気味良い音も響きます。

「鳴く力もでないよぉ」

 へなへなとしゃがみ込んだルイに、ここぞとばかりに取り囲んだ三人は地面から引き抜いた草を投げ付けます。

「「食ーべろ! 食ーべろ!」」

「「モーー! モーー!」」

「だから苦いからイヤだってば~!」

 頭に振りかけられる草と土を、ルイは両手でぱたぱたと払います。お腹が空いてろくに抵抗も出来ないルイは、みるみる泥だらけになりました。目はごろごろして、口の中もじゃりじゃりしてきます。しかし、ペト達は面白がって一向にやめる気配はありません。どうしよう~とルイが困っていると、突如、雷のような甲高い声が落ちてきました。

「こらあなた達! 何をしているの!」

「ひぁ!?」

 ペトが情けない声を上げます。

 地を震わせるような足音で近付き、縮み上がった子ども達の首根っこを掴んだのは、恰幅のいいシスターでした。この騒ぎを聞き付けて飛んできたようです。

「泥遊びはやめなさいと、あれ程……」

 汚れた子供たちの手を見て、眉間に皺を寄せます。

 ペトを始め、子供たちは今までの調子はどこへやら、かちんこちんに固まっています。

 ルイは助かったぁと胸を撫で下ろしました。次いで、そうだご飯をもらおうと顔を明るくしました。

「シスターカトリーヌ! あの、ぼくまだ……」

 ご飯食べてなくて、そう続けたかった言葉は鋭い視線に遮られます。

「…………」

 ルイを認めたカトリーヌの目は無機質そのもので、瞳を滑らせて樽の上を一瞥しただけでした。

「お皿はきちんと洗って戻しておくように」

 極めて抑揚のない口調で言い放つと、子供たちの襟足を掴んでいた手を放し、くるりと背を向けます。

「さあ、行きますよ皆さん。お祈りの時間です」

「ちぇ、はーい」

 口を尖らせたペトが大人しく後ろを付いていきます。去り際にルイにあっかんべをすることは忘れません。他の二人も同様に去っていきました。

「…………」

 ルイはちょこんと、泥だらけになり捨てられた子犬のようにその場に取り残されます。バタンと教会の扉が閉まった音がして、合わせるようにお腹の虫も盛大に鳴りました。

「……おなか、すいた、よう」

 ルイはがっくりと項垂れると、頭の上から葉っぱが一枚ぱらりと落ちてきました。それをじぃと見下ろしてから、指先でつまんで口へ運びパクリとくわえます。

「むぅ、にがひ……」

 ぺっぺ、と口をすぼめて吐き出したルイの瞳はちょっと涙目でした。


         ◇   


 太陽は天辺から少し傾き、空には雲が少しずつ増えてきた午後。

 葉っぱがパラパラと落ちる木々に挟まれた道を、とぼとぼとルイは力なく歩きます。

 その足取りは少しフラついていて、実際ルイの視界はぐるぐると回ってきました。

「はれれれれ」

 目をごしごしと両手で擦っても、ぼんやりと景色が滲みます。まるで雲の中を歩いているような感覚です。ルイは瞬きを繰り返し、顔をぱちんと叩きました。じんじんするほっぺたに、少しだけ意識が確かになります。

「あらよっと!」

 そこへ、木が途切れて現れた柵の向こうから、大きな野太いかけ声が聞こえてきました。

 見れば歪んだ世界の中で、声の主である農夫が荷台から物を下ろしているところでした。大きな荷台でしたが、一つしかカゴは積まれていません。しかしそのたった一つのカゴの中には、たくさんの林檎が入っていました。

 ―――ぐごぅぎゅるぎるぎゅう! ぐるるるるるぅ!

「!」

 あまりの音におじさんもルイに気付きました。

 虚ろなルイの瞳と、おじさんの不似合いにキラキラした瞳がぶつかります。

 柵を挟んで、じぃぃぃと向けられる眼差しに、皺のある目元がピクリと引きつります。

「……………」

 ルイは見つめます。

「……………………」

 ルイは見つめ続けます。

「…………………………」

 ルイのお腹の音が鳴ります。

「…………………………………」

 ルイのお腹の音がもっと大きく鳴ります。

 おじさんが、ぐぬぬと表情を歪めました。しかし、素知らぬ風にくるりと背を向けてられてしまいました。

しょんぼりしたルイが視線を落とした時、後ろ手にポイと投げられたものがありました。

「ダリウスおじさん!」

気付いたルイは思わず大声を上げます。

ルイの足元に転がってきたのは、まだ半分くらい青い歪な形をした林檎でした。ルイは飛びつくように拾います。

「……それでも食ってさっさと帰るんだな……」

ルイにだけ聞こえる小さな声でそう言うと、ダリウスは「さぁ仕事仕事」と、そそくさと籠を担いで小屋に入っていきました。

「ありがとう~!」

 わぁぁぁあ! と、まるで宝物を見つけたようにルイの瞳は輝きます。

 ぱくり。

一も二もなくかじりつくと、乾いた音を立てて口の中に蜜が広がります。あまり甘くはないそれは、それでもルイにとっては最上のご馳走でした。ぱくぱくしゃくしゃく。あっという間に林檎はなくなってしまいました。残ったのは、芯だけです。

「……………」

 犬の骨のようなそれは、実の部分とは違ってとても固いでしょう。よくゴミ捨て場に捨てられているのを見かけます。ですが、たら~と、ルイのよだれは止まりません。じぃっと見つめてから、大きく口を開けたその時、

「あぶへ!?」

 突然、真横から叩きつけるような風に襲われました。帽子が紙切れのように舞い上がります。ルイはバランスを取ろうと変に力を入れたせいで、目の前の柵に顔面を強打します。

 ヒヒーンと、笑うような馬の嘶きが過ぎ去っていきました。

「ぃはい……」

 両手で顔を押さえながらおずおずと体を起こすと、左手の方に馬が二頭、駆けていくのが見えました。ルイが吹き飛ばされたのは、物凄い速さで馬が駆け抜けたせいのようです。林檎に夢中だったので、そうなるまで全く気付きませんでした。

 涙でちょっとだけ滲んでいましたが、馬上には立派な鎧に身を包んだ騎士が乗っているのがわかりました。みるみるうちに砂埃の向こうに消えていきます。

「なんだろう~?」

ルイはすっかり林檎の事は頭から抜けてしまって。飛んでいった帽子を忘れずに拾うと、

興味本位で馬の走り去った後を追いかけるのでした。


         ◇   


「申し訳ございません!」

その声は村中に響き渡るくらいの音量で、それはそれは悲痛な叫びでした。

地面にのめり込みそうなくらい頭を下げているのは、タラ村の長であるアダルバートでした。平均よりも低い身長にぶくぶくとした体はまるでボールのようでした。額から滝のように汗を流し、馬上から降りたその人物に深く謝罪をしています。

「謝って済む問題だと思っているのか? おめでたい頭だ。この一年、この村は献金はおろか献上品さえまともに納めていないではないか!」

「誠に、誠に申し訳ございません! 昨今、村の恵みが取れなくなり、村人を養うので精一杯なのでございます。どうか、どうか……」

「黙れ! 言い訳など聞き苦しい!」

 ガン! と、手にした巨大な剣を地面に突き立てたのは、十字の紋章があしらわれた立派な鎧に身を包んだ騎士でした。全身が黒く鈍色の光を放っています。

「只でさえ貴様らは穢れているのだ! 異教の神を崇めていた罪を贖うには全く足りぬ!」

「お……、お言葉ですが、騎士様。それはもう何百年も前の話です。今は我々もこのように心を改め、デウス様に日々祈りを捧げております……!」

「黙れと言っているであろう! それくらいのことで、お前たちの罪が消えるとでも思っているのか!」

 大地を震わせるような低い声で言い放たれ、アダルバートはその身体を縮み上がらせました。ただでさえ身長が倍近くも違う大男と、その差はさらに広がります。

 恐怖に身を竦める村長を、一層威圧するオーラを騎士は放っています。全てを呑みこむような漆黒。その鉄兜から覗く瞳は鷹のように鋭く、一瞥されただけで命を狩られるようでした。

騎士は広場を睥睨します。物陰や家の中から、遠巻きに顛末を見ていた村人たちに聞こえる大声で、言い放ちました。

「この状況が続くのであれば、村人たちを労働力として、都に連れて行かねばなるまい!」

 告げられたアダルバートの顔色がさらに青ざめました。騎士の言う労働力というのは、つまり奴隷と同じことを意味するのです。その過酷な境遇の話は、この辺境の村にさえ伝わってくる程でした。

「そ、それだけはお許しを……」

「ならば、せいぜい恵みを掻き集めるのだな。デウス様の寛大なる御心で、もうひと月だけ待ってやろう。まあ、その期間で一年分もの量を揃えられるか、大変見物だがな」

 騎士は突き放すように、面白そうに鼻で嗤います。

「フレデリック様」

「ああ」

 控えの兵士に名を呼ばれて、騎士フレデリックは身を翻しました。

「今日はこの程度にしておいてやろう。次は荷馬車も引き連れて来てやる」

 剣を腰に差し、優雅な振る舞いで騎乗すると、フレデリックは馬の腹を蹴りました。

 歩き出す二頭の馬の後ろで、アダルバートが、がくりと膝から崩れ落ちます。

 広場を去っていく騎士と兵士とその馬たち以外に、動くものは何もありませんでした。

まるで時が止まってしまったかのように、場が凍てつきます。

「…………」

 木陰の草むらひょっこりと顔を出して、一部始終を覗いていたルイも同じでした。

 騎士たちは道沿いにルイの元へと迫ってきます。すれ違いざま、フレデリックのゴミでも見るような目に見下ろされました。

「…………」

悠然と去っていくその背中を、ルイはぽかんと見送ったのでした。



     ◇   ◇   ◇



燃えていく。

灼熱の赤が全てを燃やし尽くしていく。

活き活きとしていた植物たちは、悲鳴を上げるように爆ぜながら炭へと還元される。漆黒のドラゴンが吸い込まれるように曇天の空へと昇っていく。清涼な水のたゆたう泉も泥にまみれていた。

美しい祭壇は見る影もなく。

幾何学模様の描かれた石畳も全て、これでもかと槌で砕かれていた。

周りに咲いていた色とりどりの花々も、木々にたわわ実った果実たちも何もかも全て。目に見える現象だけではない。これまで築き上げらた歴史そのものが、凡てが、それに呑み込まれていく。

私は独り佇む。

これは仕方がないことだ。彼らが生きるために、仕方のないことなのだ。

目を血走らせ、荒い呼吸を繰り返すいくつもの背中を見下ろす。

胸に去来する感情は何であろう。

哀しみか、怒りか、憎しみか、それとも。

答えを出すには、あまりにも長い時間が経ち過ぎていた。

勢いはまるで止まることなく。

自ら以外の何もかもを排斥するその歌は高らかに。天をも掌握するように響き渡る。

揺らめく紅の中に、嘲笑うようなその傲慢な顔が浮かんだ。


私は気付かぬふりをして、その場を後にする。



     ◇   ◇   ◇



「やあルイ、こんにちは!」

「フランツ先生~こんにちは~!」

 軋む木製の扉を開け放てば、そこにはいつもの柔和な笑顔が待っていました。

 崩れた天井の隙間からは、夕暮れの強い日差しが差し込んでいます。汚れのこびり付いたステンドグラスは鈍く光っていました。

ここは、村の外れにある、もう使われなくなった古びた教会です。講堂だった場所には蔦が這い、椅子も全て緑に染まっています。

 ルイは祭壇にいるフランツの元へ、身廊をぱたぱたと駆けていきます。

 フランツは足首まで隠れる長さの黒いローブに、胸からは銀製の十字の首飾りを下げています。裾の方にも十字があしらわれており、それはエーシュア教会の紋章でした。

「今日は遅いじゃないか。何かあったのかい?」

「うん! 森を色々見て回ったり、あと川で水浴びしたりしたから遅くなっちゃった!」

フランツのそばまで辿り着いたルイは、主祭壇に両手をつきます。その頭はまだ湿っていて、髪の隙間には落としきれなかった泥が残っていました。

「ルイ、まさかまた……」

「あっリンゴもらって食べたんだよ~! 美味しかったぁ」

 何があったのか一瞬で悟ったフランツは、しかしあっけらかんとしたルイの笑顔に、にっこりと微笑み返します。

「そうか……、良かったね!」

「うん!」

 大きな手に頭を優しく撫でられ、ルイは目を細めてとても嬉しそうでした。

「そういえばさっきね、教会の騎士さまが来てたんだ~」

「教会の騎士……?」

 さっと、フランツの表情が陰ります。

「うん! すごい真っ黒でね、ギラギラしててね、あっ! 馬もすごかったんだよ~」

 気付かないルイは、その騎士がとても大きかったこと、村長はさらに小さく見えたことを面白そうに話します。

 対照的に、聞いているフランツの顔はどんどんと暗くなっていきました。

「黒い、騎士。とうとう異端審問官が……」

「いたんしんもんかん?」

「あ、ああ……」

 フランツは少し言い淀んでから、思きったように顔を上げました。

「この村はデウス様とは違う、別な女神を祭っていたからね」

「女神?」

 ルイはあまり聞かないその名前にきょとんと聞き返します。

 無理もありません。タラの村で女神が祭祀されていたのはかなり昔のことです。ようやく十歳に届いたルイがそのことを知る由はありませんでした。しかも、今やそれは禁忌事項として秘匿されています。

 フランツはしばらく口を噤んでいましたが、やがて意を決したようにルイの瞳を見下ろしました。

「……君は、知っていた方がいいかもしれない」

「?」

 フランツの真剣な眼差しに、ルイのぽけーっとした顔が映り込みます。

「このタラの村には、男神であるデウス様とは全く別の、土着の女神様が祀られていたんだ。……その名はダナ・マーテル。この新緑の大地を司る、母なる女神だ」

 その御名が発声されると、どこからともなく風が吹いてきました。緑の匂いを纏いながら、ルイとフランツの髪を揺らします。

「ダナ・マーテル……。女神、さま。でも、なんで今はその女神さまはいないの?」

「エーシュア教会が追いやってしまったんだ」

「なんで追いやったの?」

「エーシュア教会は一神教でね。ひとりの神様、つまりデウス様以外は認めないんだ。他はそう、偽物ってことだ」

「ニセモノ……? 女神さまはニセモノだったの?」

「いいや。本物だよ。この世にはたくさんの神様がいるんだ。それに偽物も本物もない」

「?」

 首を振ったフランツの意図を掴めず、ルイは黙ってしまいます。

 太陽が雲に遮られてしまったのでしょう。それまで窓から差し込む光で明るかった聖堂は、一気に薄暗くなってしまいました。どこからか誰かが見つめているように、空気まで張り詰めていくようです。

「だからこそ、この村では恵みが取れなくなってしまった。女神の恩恵に与るこの地で、その女神を蔑ろにしてしまったからね……」

 フランツは何かを悔いるように拳を握り締めました。その手を額に当てて、目をぎゅっと瞑ります。

 どれくらい経ったでしょうか。ルイが待っていられる時間だったので、実際はそんなに経っていなかったかもしれません。

遠くで鳥が羽ばたく音がして、空からはまた光が降り注いできました。

「ルイ、村にまた騎士が来ても、決して近付いてはいけないよ?」

 肩の力を抜いてルイを見下ろす眼差しは、心配の色が滲んでいました。言い聞かせられたルイは口を一文字に結んで、少し考える素振りを見せると、何の気なしに尋ねます。

「でも、騎士さまもフランツ先生と同じエーシュア教会の人なんでしょ?」

 どうして? という言外からの問いに、フランツはそうだねと苦笑します。

「同じ教会でもね、一枚岩ではないんだよ」

「一枚、岩? 一枚の岩? どういうこと、先生は岩なの?」

 首を傾げるルイにフランツはにっこりと笑うと、もう一度その頭をゆっくりと撫でました。

「ルイ、今日は新しいお話をしようか」

「わぁ! 新しいの? やったぁ!」

 ルイの意識は簡単にそれました。フランツは少しだけ申し訳なさそうに、両手を組んで視線を巡らせます。

「今日はそうだなあ、森に棲む魔女のお話をしようか」

「あっそれなら知ってるよ! 教会でたくさん聞かされたもん。口が耳まで裂けててー、ぼくたちを食べちゃうんでしょう? あとすごいしわくちゃで、声もガラガラで~」

「あはは、そうだね。魔女はそう言われているね」

 両手をぶんぶん振って楽しそうに話しだすルイに、フランツの表情も明るくなっていきます。

 森に棲む魔女のお話は、このタラの村があるミース地方では有名な言い伝えでした。

 森に迷い込めば魔女の餌食となり、薬の材料や料理にされてしまうと、だから不用意に森には入ってはいけないと言われてきました。それは、小さい子が森で迷子にならないようにするため、という理由もあります。

「じゃあその魔女が持っていると云われる、たくさんの宝物が何か知っているかい?」

「ちゃんと知ってるよ! キラキラしたすっごい美味しいリンゴとかブドウとか、樽いっぱいのジュースとか、あっ食べきれないくらいのパンも持ってるんでしょ? あとそれからそれからー」

 指を一つずつ立てて、言い連ねていくルイの瞳は輝いていました。

魔女は強欲なので、ご飯を早く食べなかったり、食べ残しをしたりすると奪いにやってくるとも言われています。また、同じ欲張りの子もさらわれてしまうとも言い聞かせられていました。

ただ、魔女の持っているという宝物は、一方で憧れの的でもありました。挙げられる物は全て魅惑的で、想像しただけでお腹が刺激されます。

ルイも言いながらよだれが口から垂れてしまって、慌てて手で拭いました。

「うんうん。でもね、それは違うんだよ」

「えっ、違うの?」

 ごしごしと服の袖で口元を拭くルイは、ぱちくりと目を見開きました。フランツはこっそり秘密をばらすように、ルイの耳元に顔を近付けます。

「それもあるかもしれないけど、本当はね、森そのものが魔女の宝物なんだ」

「森そのもの?」

「そうだよ」

「葉っぱとか、木……とか?」

「ああ。そこで生きる鳥も、兎も、他の生きとし生けるもの全て。それだけじゃない。石ころだって、みんな宝物なんだよ」

「?」

「だから、魔女に怒られないためにも、森を大切にしないとね」

 いまいち意味を理解出来ていないルイの頭を、フランツは優しくぽんぽんと叩きました。

「ぼくが知ってるお話と全然違う……」

「ああ、お話なんて、そういうものさ。どちらかに都合のいいように書き換えられ、歪められてしまう。だから私は……」

 最後の方は声にならず、ルイの耳には届きませんでした。

「先生?」

「いいや、何でもないよ」

 首を振るフランツの顔を覗きこめば、いつもの柔らかい笑みが返ってきます。

「よし、じゃあ今のを全部書き出してみようか。新しい文字も覚えよう!」

「わぁ、は~い!」

 ルイは新しいことが勉強出来るというわくわくに、すっかり興味が移ったようでした。

 飛び跳ねながら講堂の隅にある机へと向かい、足元に置いてあった紙を引っ張り出して机上に広げます。すとんと椅子に腰を下ろして、ペンを握ってフランツに言われた通りに文字を書き始めます。

その様子を見守るフランツはふと視線を上げました。そして、壁に刻まれた十字の紋様を見つめて、祈りを捧げるようにまた瞼を閉じました。



     ◇   ◇   ◇



 ガサゴソガサゴソ。

 誰もいない筈の草むらで、風もないのに葉っぱの擦れる音がします。月は雲に隠れていました。闇が落ちた辺りには人影はおろか、動物の気配もしません。

 サワサワザワザワ。

 しかし確実に、膝丈ほどの草花は揺れて音を立てています。

「きゅぅ」

「みゅー…」

 時折、猫のような鼠のような、奇妙な鳴き声も混ざりました。

 ガササササササ。

 草葉の揺れるような音が続きます。

 原っぱには、モグラが通った跡のような盛り上がった道筋が二本、ぐんぐん伸びていきます。そのうちの一つが向かう先には、ちょうど木の幹がありました。

 そして。

 ―――ズボッ。

 大きな音と潰れた鳴き声がすると、辺りは静まり返りました。

 ジタバタジタバタ。

 何かが激しく動く音がします。

 上空で突風が吹いたのでしょうか。月がもくもくした雲からゆっくりと顔を覗かせました。月光に照らし出されたのは、木の根っこからはみ出ているぷりっとしたお尻と尻尾。

「むきゅきゅきゅ!」

 体をぴんと伸ばしては緩め、ぴんと伸ばしては緩め。どうにか抜け出せないかと奮闘しているのは、真ん丸とした大きさの、猫のような生き物でした。黒い毛並みをしたそれは、木の根っこの隙間にすっぽりとはまってしまったようです。

「みゅー…」

 隣にはもう一匹。クリームがかった体は、夜に明るく浮かび上がるようでした。

 相方が必死に抜け出そうとしているのを、二本の足でちょこんと立ち、口をぽーっと開けて眺めています。何も手伝おうとしません。ただ、見ているだけです。

「むきゅきゅきゅ……きう」

 しばらく抵抗していたもう一匹も、やがて諦めたように動くのをやめました。

「「…………」」

 さわさわと冷たくなったそよ風が草原を揺らします。

 二匹は梢の向こうに浮かぶ、真ん丸なお月様を見上げながら、

「ぽへー」

「ぷへー」

 やがて瞼を上下させると、そのままうとうとと眠ってしまうのでした。



     ◇   ◇   ◇



 ルイがお家に帰ったのは、日が落ちてだいぶ経った、もうすっかり暗くなってしまった夜でした。

 真っ暗な部屋で慣れた手つきで燭台を手に取り、火を付けます。

 浮かび上がったのは、小さなベッドにテーブルと椅子が一つずつの、簡素な造りの部屋でした。虫に喰われた壁からは隙間風が吹き、窓枠もガタガタ揺れますが、ルイは気にも留めません。

「あー今日も楽しかったぁ」

 満足そうに伸びをして、帽子を頭から外すといつもの場所に引っかけます。

「そうだ!」

 やっぱりもう寝てしまおうかとベッドに向かった足が止まります。視界の隅に入ったのは、正方形のテーブルでした。その上に置かれていたのは、今朝がた森で拾った一冊の本。

 ルイはそれを手に取ります。しっかりとした重さのあるそれの、分厚い表紙は少し汚れていましたが、 黒い色のそれは細かい模様で縁取られ、その部分だけ蝋燭の光が反射します。そこにはタイトルはなく、裏表紙に刻印のように花を象った模様が描かれていました。森で長く暮らしているルイでも見たことがないその花の形が、一瞬揺らいだ気がしましたが、気のせいでしょうか。

 ルイは親指の腹を縁に引っ掻けます。厚みのある紙一枚が、やけに重く感じられました。思いきって開くと、

「わっ!?」

 ぶわっと。

 勢いよく風が噴水のように吹き出してきました。まるで何かが本から飛び出てきたようでした。驚くルイの顔面に当たり、前髪を散らします。びっくりして思わず手から放すと、本は音もなく床に落ちました。

 パラパラパラパラ。

 一ページ、一ページ、本は勝手に捲られていきます。

 目を剥くルイの目の前で、それはとあるページで止まりました。

「…………」

 ルイの両手を広げたよりも少し大きいくらいのそれが、何かとてつもなく恐ろしげなものに見えてきます。思わず後ずさって瞬きを繰り返していると、端が少し破れた褪せた紙の上に一瞬、変な文字が浮かんだ気がしました。

「ん?」

 机の影になって少し見えづらいそれに目を擦って、もう一度凝視するとそれは消えていました。見間違いかと、ルイが恐る恐るその本に手を伸ばした時、

 ―――カリカリカリカリカリカリ!

「!?」

 ペンはどこにもありません。ルイが書いているわけでもありません。

 ですが、白紙のページに、次から次へと文字が書かれていきます。

 カリカリカリカリカリカリ。

 線が引いてあるように等間隔に均一に。一段、二段、三段。

 まるで見えない誰かがそこで筆を握って書き連ねているように、何事かが羅列されていきます。みるみるうちにそれは紙面を埋め尽くします。初めは見たこともない記号のようなそれが、時間が経つにつれルイの知っている文字へと変わっていきます。

 そして、ひとりでに捲られ、数ページに渡りそれが続いたかと思うと―――プツリ。それは唐突に止まりました。

「…………」

 ルイはポカンと口を開けたまま、その場で固まっていました。

 自分が石像にでもなってしまったかのように、宙に手を伸ばした状態で。一体どれだけの時間が経ったでしょうか。

 はっと我に帰り、瞬きを繰り返します。

「…………」

 本はもう、うんともすんとも言いません。

 今までの出来事は幻だったのか、元から文字が書かれていたのか。ルイは訝しみながら、けれど細心の注意を払って。本がまた勝手に動き出さないかビクビクしつつも、手を床について這いつくばりそれを覗き込みます。

 丁寧な、まるでお手本のような文字が、そこには並んでいました。

 読み書きはフランツが熱心に教えてくれたお陰で、村にいる子どもたちの中でも一番だとルイは密かに自負しています。

「カトリーヌ、は、………」

 なので、それはルイにも簡単に読めました。

「教会の、裏庭にある樽の中に、毎日、一枚ずつ、リア銅貨を、隠してる……?」

 最後は疑問系。

 無理もありません。それはルイの読んできた本の出だしとはあまりにも違うものでした。これまでフランツと一緒に読んできた物語は『昔々あるところに……』から始まるものがほとんどで、こんな内容から始まることはそうありませんでしたし、何やら不穏なことはルイにも読み取れました。ただもっと気になったことは、

「カトリーヌって、シスターカトリーヌと同じだ~」

 浮かんできた主語は、いつもルイにご飯を用意してくれる教会のシスターの名前と同じでした。今日はペトたちのせいでご飯は食べられませんでしたが、ちゃんと言われた通りお皿を洗っていつもの場所に返しました。教会の裏庭にある樽というのも、ルイがいつもご飯をもらう場所なので、なんだか想像しやすいです。

文は続きます。

「間違って落とした物や、零れた食べ物をいつもルイにあげている……ってぼく?」

 なんと今度は自分と同じ名前が出てきました。L、o、u、i、s、指でなぞって確認してみましたが、間違いありません。ずっと前にフランツに教えてもらった一番初めの文字なのですから。

「?」

 ルイは不思議に思って首を傾げます。本から目を外してちょっと考えてみましたが、とりあえず読み進めることにしました。

「えーっと、なになに? ペトは、アニアに好きと言っているが、ニーナにも同じことを言っている……の!?」

 お次はペトの名前まで出てきました。

 ペトは知っているも何も、あのいじめっ子のペトです。アニアはよくペトといちゃいちゃしている女の子です。そして、ニーナはルイより三歳年上の女の子で、アニアとは犬猿の仲です。もはやルイには聞き取れないほどの凄い早口で、お互いの悪口をよく言い合っています。

カトリーヌ、ペト、アニア、ニーナ。たった数行で、ルイの知っている名前が四つも出てきました。しかも、自分の名前まで。ルイは目をぱちくりしました。

「え、え、え?」

 一体どういうことなのか、ルイには全くわかりません。物語の登場人物の名前がたまたま同じなのでしょうか。

「う~…ん」

しかし、他にも現実とぴったり重なる点が多い記述に、偶然とは言いきることは出来ませんでした。極めつけは、なんと今日、ルイがペトたちにいじめられたことまで書かれていることがわかりました。

「まさか……村のみんなのことが、書いてある、の……?」

 本は答えてはくれません。しかし窓のすぐ近くで、眠っているはずの鴉が不気味な大きな声で鳴くのが聞こえました。

 ルイは恐怖も忘れて本を拾い上げると、夢中になってそれを読み始めました。

 一文字一文字、一単語一単語、一行一行。

月が静かに位置を変えていき、やがて西の空に沈みかける頃。

「……。すぅー……」

だんだんと頭が揺れてきたルイはとうとう、床の上にぺしゃんと崩れ落ちます。手から落ちた本が一度ぱたんと閉じましたが、また人知れず開かれると、文字が次々に書かれていきます。

「…………」

ルイはぼやける視界の端でそれを眺めていましたが、いつの間にか深い眠りについてしまったのでした。



*⋆꒰ঌ–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––໒꒱⋆*



※第三奏~は製品版のみの公開になりますので、ご了承下さい。


特設サイト: http://el-ma-riu.com/louis_note/

BOOTH: https://el-ma-riu.booth.pm/items/4058434

CD: https://el-ma-riu.booth.pm/items/673312

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ルイと悪魔のノート~試し読み~ el ma Riu(えるまりう) @el_ma_Riu

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