紙上の青空

青葉

〈青〉

 中学の三年間は憂鬱以外の何ものでもなかった。


 人の顔色を伺ってばかり。相手の機嫌に振り回され、自分の感情を押し殺す毎日だった。


 教室では嫌われることが怖くて、面白いことがなくても周りに合わせて笑っていた。所属していた美術部では、部員たちの間で次々に変わっていくアニメの話題についていくのに必死だった。


 己の意志を捨て、相手に同調する。それが中学時代の私の生き方だった。


 __そんなの、もうごめんだ。


 そんな学校生活に終止符を打つべく、私は中学の知り合いのいない高校に入学した。これからは人の目を気のするのをやめる。無理に友達を作ろうとは思わないし、部活に入るつもりもない。


 だから、廊下に掲示された部活動勧誘ポスターは素通りするはずだった。


 ◇


「本当は入るつもりなかったんですよ、部活」


 夏休み。シュワシュワと鳴くセミの声と午前の斜陽に包まれた美術室で、私は、向かい側の席に座る香月かづき先輩の絵を眺めながらそう呟いた。


「美術部の勧誘ポスターを見て足が動かなかったんです。あれ、先輩が描いたんですよね?」

「知らね」

「嘘つかないでくださいよ」


 先輩は気だるそうに額の汗を拭い、否定の語を呟いた。__それでも、彼が筆を走らせる紙の上に広がる鮮やかなが、何よりも雄弁にそれが事実であることを語っている。

 

 かちゃかちゃと筆洗いを平筆で掻き回す先輩を見つめながら、私はあの日見た一枚の絵を思い返した。



 青い絵だった。

 十枚ほど貼られたポスターの中でひとつだけ異色を放っていたその。目に入れた途端、全ての意識がその一枚に注がれ、足が止まった。


 夜明け前の湖のような、深い青。海の浅瀬のような、淡い青。その他何十何百もの「青」で、その絵は描かれていた。

 目が覚めるような、鮮烈な青__それはまるで、よく晴れた夏の日の大空のような。


 そのに引き寄せられた私は、書かれていた「来たれ、美術部」という言葉に従って入部届を記入したのだった。


「本当に好きなんです、あの絵」

「そうか」

「原画あるならください」

「意外と欲深いんだな」

 先輩の呆れたような声に、私はにっこりと笑って応えた。香月かづき先輩の前ではなぜだか素の自分でいられる。


 先輩は緩慢な動きで筆を置き、首にかけていたタオルで汗を拭った。

 この時期になると朝でも気温はかなり高い。エアコンのない美術室には意識を揺らすほどの熱の塊が鎮座している。先輩が着ている黒いTシャツには汗が滲んでいた。


かねーなら帰れよ」

 先輩はだらりと両腕を垂らし、私の方へちらりと視線を寄越した。

「見て学んでるんです」

「やりづらいんだよ」

「そんなこと言わずに。先輩の素晴らしい技術をぜひ……痛っ! 暴力反対!」

「うるせえ、黙れ」

 おだてるように言った私に、先輩は真顔でデコピンをくらわせる。冗談抜きに穴が空くかと思った。


「お前ほんと俺の絵好きだよな」

「絵は好きですよ、絵は」

「わざわざ強調すんな」

 後ろに仰け反って二度目のデコピンを回避する。


「あと、私、香月先輩の考え方にも共感してますよ」


 にっこりと笑ってみせた。先輩は不機嫌そうに眉を顰めた。


-


「美術部はキャラクターイラストを描く部ではありません。真剣に美術と向き合う部活です」


 四月に開かれた部活動説明会。壇上に立った香月かづき先輩はまず最初にそう言い放った。その時斜め前に座るメガネをかけた女の子がピクリと肩を揺らしたのをよく覚えている。


「だから、本気で美術やる奴以外入部しないでほしい」



 集会後の教室は、先輩への批判や悪口で溢れていた。


「ヤンキーだろ、あいつ」

「あれ地毛じゃないよな?」

「目、マジ怖かった。あれは人殺しの目」


 くだらない雑言が飛び交う中、隣の席のメガネをかけた女の子とその友人の会話が耳に入る。


「イラスト描けない美術部って価値なくない?」

「ほんとそれ。あーあ、入る部活なくなっちゃった」

「誰が入部するんだろうね、あんな部活。水瀬さんもそう思うよね?」


 ふいに彼女らが私の方を見て、そう尋ねてきた。急に話を振られたことに驚きながらも、二人の視線を受けた私は曖昧に頷く。

 だよね、と笑顔になったメガネの子。彼女の視線が逸れた後、自分がしてしまったことを酷く後悔した。

 

 またやってしまった。私は何も変わっていない。自分の考えを押し殺し、相手に同調する。これじゃあ中学のときと同じだ。やっぱり私は変われないのだろうか、って。

 

 その日の放課後、私はを見ることになる。


 ◇


「誰も来ませんね」

「暑いからな」

 二人きりの美術室はやけに静かで、広く感じる。

「なんでエアコンつけてくれないんでしょうね」

 先輩は何も言わない。そもそもこの人は元来あまり喋らない人だ。


 窓から注がれる夏の日差しとセミの声を背中に受けながら、私は香月先輩と初めて会った日のことを思い返した。


-


「新入部員?」

 美術室に足を踏み入れた私の頭上から、低い声が降ってきた。恐る恐る顔をあげると、頭一個分ほど上で三白眼と目が合う。


「ちょっと青野、一年生怖がらせないでよ」

「あ?」

「こいつ、部長の青野香月かづき。美術部の問題児」

「うるせえ」

 副部長の桃子先輩がその三白眼先輩を指差して言った。


 三白眼先輩こと香月かづき先輩は、ぐいと腰を折り曲げ私と視線を合わる。

「お前、本気で美術やる気あんの?」

「は、はい」

 私が小さく頷くと、先輩は「ふーん」と訝しげに目を細めた。


「今作品ある?」

 低い声でそう問われ、カバンの中に入れておいたスケッチブックをおずおずと差し出す。


 先輩はそれを二、三回めくると、

「つまんねー絵」

 開口一番そう言った。

 あまりに遠慮のない批判に泣きそうになる。


「ちょっと青野!」

 香月かづき先輩が長い指でスケッチブックを裏返し、桃子先輩の方に向けた。駅の絵だった。先日電車を逃して暇をしていたとき、思い立って鉛筆一本で描いた絵だ。


「ただ見て描いただけ。お前は、これを美術と言うのか?」


 見て描いただけ。

 冷たいその声に呼び起こされたように、中学時代の記憶が蘇った。


『見たまま描くのだったら写真で良くない? なんでそれをわざわざ絵でやろうとするの?』


 早口でそう言った顧問は私のスケッブックを雑に畳み、他の部員のイーゼルに向かう。そして、彼の絵--めちゃくちゃに絵の具をばら撒いたような絵を見て、「独創性があっていいじゃない」と高い声で褒めたのだった。


 ずっと人に合わせて生きてきた。

 でも、美術これだけは。


「写実的な絵が、好きなんです」


 それに、もう逃げないって決めたじゃないか。


「個性が重視される世界で、私は実物を忠実に再現した絵が何よりも美しいと思ったんです」


 勢いあまって舌がうわずり、声が裏返った。


「これが、私の美術なんです」


 先輩はスケッチブックをじっと見つめていた。私の話を聞いていたのか聞いていなかったのか、変わらずの表情でページをパラパラとめくっている。


「悪い、さっきのやつ撤回するわ」

「え」

色彩いろがいい」

 先輩はページをめくり続ける。

「現実的で、それでいて鮮やかだ。全体のまとまりもいい」

 先輩は言う。

「構図もいいな。奇抜ではないが、ありふれたものでもない。よく考えられている」


「ごめんね。青野、ネットでバズる『超リアル! 本物そっくりな絵!』が嫌いらしくて」

 急に述べられた賛辞にぼけっとしていると、桃子先輩が慌てたようにフォローし出す。

「当たり前だ。あんなの美術じゃねーもん」

 あれはただのコピー機だ、と、子どもっぽい口調で言った香月かづき先輩は、ぱたりとスケッチブックを閉じた。


 そのとき目に入ったのだろう、表紙に書かれた私の名前を見て、微かに目を見開いた。そして「お前は絵を描くために生まれたきたんだな」と笑う。


 先輩はニヤリと口角を上げ、私と向き合って言った。


「美術部にようこそ、あや


 ◇


 暑い。暑すぎる。輪郭をなぞる汗の粒をタオルで拭い、下敷きであおいで風を起こす。

 先輩も首筋に汗を浮かべているが、表情はどこか涼しげだ。軽快な手つきでアクリル絵の具を筆に絡め、机に置いたキャンパスの上にそれを走らせる。


 だ、と思った。

 目が覚めるような、鮮烈な青。私をここへ導いた青だ。


 その時、先輩の顎から一粒の汗がこぼれ落ちた。パレットに垂れたその雫に絵の具の青が滲み、揺れ、染まる。

 先輩は、汗ごと絵の具を拭い取り、その筆をキャンバスに乗せる。するとあっという間に汗は姿を消し、絵の一部になった。


 毛先に色彩を絡めた絵筆が、B2キャンバスの上を軽やかに踊る。先輩の動かす筆は「障害など一つもない」と言わんばかりに、のびのびと線を描いた。

 私はまだ、クラスの子たちに美術部に入ったことを言っていない。


「先輩は自由ですね」

 先輩は自由だった。自分が嫌になるくらい、自由な人だ。

「先輩は、絵が好きですか?」

 ふいに投げかけた質問に、先輩はパッと顔を上げ、ぽかんとして私を見た。そして、すぐに不敵な笑みを浮かべる。


「当たり前だ。俺は美術を愛してる」

「ですよね、知ってます」

「お前は?」

「え」

「彩は違うのか?」


 真っ直ぐな声でそう問われ、私は思わず黙りこんだ。足元に視線を逸らし、膝に乗せた拳に力を込める。


 夏風にカーテンが揺れた。

 大丈夫、もうあの頃の私じゃないから。


「私も、好きですよ」


 ぎごちなく、そう口にした。自分の耳に入ってきた音もなんだか変で、恥ずかしくなって先輩から目を逸らす。

 先輩はそんな私に「彩」と呼びかけた。


「彩、よく聞け」


 セミの声がうるさい。うなじに刺さる日差しと流れる汗が鬱陶しい。美術室にエアコンをつけなかった奴はきっと馬鹿だ。


 先輩は筆を取り、真っ直ぐキャンバスと向き合う。


「お前は自由だ」


 その時、先輩が優しく微笑んだ気がした。


 ◇


 私もそろそろ描き始めます、と言って自分の画材を準備し先輩の隣の席に腰掛ける。

 そしてスケッチブックに鉛筆を走らせ、窓の外を写し取った。

 

 それからは夢中で筆を踊らせた。私は自由なんだ、と心の中で何度も口にしながら。


 紙上しじょうには、どこまでも遠く澄んだ青空が広がっていた。


 


 

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紙上の青空 青葉 @aobasan0

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