きみの名前を呼びたかった

桜乃はる

第1話


「またいるんですか、せんぱい」


その人は、有名人らしい。


名前は知らない。確かに、やたらと整った顔をしているけれど、残念ながら知り合いじゃないので有名かどうかなんて分からない。


「うん、また来ちゃった」


ただ、毎日毎日、飽きもせずここにやってくる。住宅街の隅っこ。誰も来ない、小さな公園の、そのまた隅の方。

私の指定席だったそこに、この人はよくやってくる。


「暇なんですね、せんぱいって」


ちなみに、先輩と呼んでいるけれど年齢は知らない。なんとなく年上っぽいからせんぱいって呼ぶ。あとこの人が暇人なのは知っている。


「暇って、ふつうに暇だけど」


それと、ふつうって言葉が異様に好きなのも知っている。


「ふーん」


まあ、どうでもいいけど。

どうせ2人でいたからって、話が弾むわけでもなく、ロマンスがはじまるわけでもない。ただ、そこに自分以外の人間が存在している。そういうくらいの距離感に、私たちはある。


「きみはさ、俺のことどう思ってる?」


「どうって、別にふつうです」


だからどう思ってるかって、ふつうとしか答えようがない。普通の人なら傷つきそうな私のそんな返事に、彼はいつもやたらと嬉しそうな顔をして、週に一回のペースでこの返事を要求する。


「てか、せんぱい、私からふつう、以外の答え、求めてないですよね」


えへ、と笑う、そんな顔が絵になるひとなんてごくごくひと握りだと言うのに、目の前のひとは奇跡的に、そのひと握りのなかにいる。


「そうだね、俺にとってきみは特別だけど、きみだけは、俺を特別にはしないでね」


へんなひと。ほんとうに、へんなひと。

ふつう、ひとは誰かの特別になりたがるんじゃないのだろうか。かくいう私だって、せんぱいが私を特別と言った、その一言が嬉しかったのに。


「はいはい、分かりましたよ」

そんなへんなせんぱいに、私は肩を竦めて頷いてから、そっと地面に視線をやった。

せんぱいは、どうしてそんなに普通にこだわるのだろう。人間なんてどうせ、皮が剥がれたら骨しかないのに。


「ありがとう」


そんな私に、せんぱいはにっこりと笑う。それが私の見た、最後のせんぱいだった。


ばかなひとだなあ、と、思うのだ。

次の日、せんぱいは来なかった。

それをどうしたのかなと思うまもなく、翌日にはもう、あんなにふつうを好んだせんぱいは、全国区のニュースに登場するヒーローになっていた。


とある有名な進学校に、刃物を持った男性が現れて、先輩は、その男から他の生徒を庇って死んだらしい。


ばかなひとだなあ、と思った。

テレビの箱の中に映る、完璧な笑みを浮かべたそのひとは、確かにヒーローに相応しい。


ばかなひとだなあ、と思う。

ひとの死に様は、ひとの生き様なのだという。だとしても、死ぬ時くらいはもう少しふつうに死んだら良かったのに。


学年トップの成績、運動神経抜群なサッカー部のエース、生徒からも、先生からも信頼の厚い生徒会長。

彼の死を飾り立てて、わざとらしく瞳に涙を浮かべたアナウンサーを冷めた目で見つめながら、ちがう、と、心の中で思った。


あのひとはただ、ふつうになりたかったふつうのにんげんなのに、それを知る人は、この世界にどれくらいいるのだろう。


ばかだなあ、と思った。わたし。

こんなことだったら、聞けばよかった、せんぱいの名前を。

ニュースで流れる彼の名前は、もはや、せんぱいのものではない。その中にいるのは、せんぱいなんかじゃない。彼の輪郭がない。


「せんぱい」


せんぱい、やっぱり私より、年上だったんですね。


「私は、最低ですね」


せんぱい、そう呼んだとき、そのふつうの響きがいいね、なんて、あんまり嬉しそうに笑うから、言わなかったけれど。

私にとってのせんぱいは、たぶん一生あなただけなのだと思います。


「ごめんなさい」


こんなことになるのなら、ふつう、だなんて、言わなきゃ良かった。

私がせんぱいにとっての特別でなくなったとしても、きみの名前を呼べばよかった。


せんぱい、

あなたとの時間に、彼のいないこの場所に、

つける感情の名前を私は知らない。

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きみの名前を呼びたかった 桜乃はる @ouno_haru

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