行脚の始め その2

 栄雪は夢の中でことが運んでいるような思いだった。朝の勤めが終わり、駆け寄った僧達に様々な言葉を受けた。多くが素空と共に諸国行脚するのかどうかの質問と、それをうらやみながらの激励が入り混じりながら、時折歓声に包まれていた。

 老僧にたしなめられて、栄雪を取り巻いていた集団が本堂から流れ出た時、栄雪はようやく自由を取り戻した。明智が、栄雪に近寄り言葉を掛けた。「栄雪、良かったですね。栄覚大師と素空様に感謝申し上げることです」そう切り出した後、玄空大師から聴いた顛末を手短に伝えた。

 栄雪は泣いた。薬師堂の栄覚大師の前で泣いたように、明智の前で涙に暮れた。

 明智は、栄雪の心の中に決して消えることのない喜びの種が蒔かれたように思った。「栄雪、泣いている場合ではありません。急がねば素空様に置いて行かれますよ」そう言うと、ニッコリ笑った。

 素空は西院に戻ると、主だった僧達と別れの場を持つことができた。

 「興仁様のお計らいなのだよ。素空のお陰を以ってすべての御仏が真の御姿を成すようになったことはまことにめでたいことであった。また、四神建立により、瑞覚様の即身成仏の使者として働きを成したことは、余人を以って叶わぬことであった。まさに、素空なればこそであるよ。よって、我らは打ち揃って別れを申しに参ったのだよ」憲仁大師けんにんだいしが、興仁大師の傍らに立ってそう言った。

 釈迦堂での朝の勤めが終わった頃、それぞれのお堂で朝の勤めを終わった座主や、素空と所縁ゆかりのある僧が別れに訪れていた。憲仁大師も維垂いすい臥円がえんを連れて来ていた。他にも青龍堂せいりゅうどう喜仁大師きじんだいし善西ぜんせいが別れに訪れていた。西院の僧は物静かで、奥ゆかしさを備えていたが、皆喜びを露わに時折歓声も出るほど騒々しかった。

 素空が感謝の言葉を言った。

 「皆様仰せの通りこれが最後の別れではありません。諸国を巡る途中に訪れることもあろうかと存じます。再会を楽しみに、暫しのお別れをいたしたいと存じます」

 素空は釈迦堂での別れを終えて、興仁大師の部屋に座していた。部屋の外には旅の支度がなされ、良円の遺骨を納めた箱と、彫り物をするための道具箱が置かれていた。

 「いよいよ参るか?体に気を付け、供の者を思い遣ってくれよ。そなたの周りの者はそなたほどの力を持たないのだから…」最後の言葉として、笑顔を向けた。

 素空は、興仁大師に深くこうべを垂れると、釈迦堂を出て行った。旅装束は白ずくめで、お遍路のような姿だったが、腰に下げた大きな数珠が天聖宗の僧侶だと言うことを示していた。荷物は他に着替えと托鉢たくはつにも使う椀があるくらいで、乞食坊主と余り変わりがないほど粗末だった。

 釈迦堂をでて、正倉の前の広場に来ると、西院の多くの僧が見送りに来ていた。皆、最後の最後まで名残りを惜しみ、無言で素空の後姿が消えるまで見送った。

 素空は忍仁堂の角の大楠おおくすの下に来ると、天を見上げて大楠に経を唱えて、通行人の無事を願った。

 巳の刻みのこく(午前10時)になり、今日の別れを暖かい陽射しが祝福しているようだった。そこには、東院と西院の僧達入り交じって待っていた。素空は1人ひとりの僧達の顔と名前を心に刻んだ。皆、良い笑顔で送り出してくれていることを感謝しながら、天安寺龍門の前まで来ると、振り向いて深々と黙礼した。

 門の外には薬師堂の僧と、明智が立っていた。明智が栄雪の供が許され玄空大師と共に鞍馬谷くらまだにへの分かれ道の前で待っていると伝えると、素空は笑顔で黙礼した。

 明智が言った。「素空様、私を僧として立ち直らせて下さいましたことを、心よりお礼申し上げます」深く黙礼した後、言葉を継いだ。「素空様は、私が僧となって初めて目にした完全なる僧でした。初め抗いながらも素空様に向いて歩むことは、御仏に向いて歩むことと同じであると知り、やがて真の御姿を彫ることもできました。そのことが、異端と言われた時の思いを晴らすことになったのです。すべて素空様のお力でした…」明智はそれっきり言葉を出せずに嗚咽した。

 栄覚大師は、明智の姿を気遣わし気に見ながら、素空と別れを惜しんだ。「くれぐれも栄雪をお頼み申し上げます」最後にそれだけ言うと言葉をなくした。

 素空が言った。「我が命に代えましても、必ずお守りする覚悟です」

 素空は、天安寺に上がって以来、特に思い入れの深い2人の僧に、深々とこうべれて振り返ることなく広場を突っ切った。鞍馬谷への分かれ道まで来た時、胸に込み上げるものが足を止めさせ、目から涙をこぼさせた。

 玄空大師が無言で微笑みながら、素空を待っていた。

 「素空様、お供いたします。よろしくお願いいたします!」栄雪の弾んだ声が聞こえた。素空が言った。「栄雪様、こちらこそよろしくお願いいたします。しかしながら、裏参道を下る時、難儀が待っているかも知れません。心して進みましょう」

 栄雪が言った。「悪鬼悪霊の手を逃れる術を、お大師様から教わったばかりですので、恐らく大丈夫だと思います」

 玄空大師は眉根を寄せて、素空に目で合図を送った。素空は、栄雪が手放しで喜ぶほど効果がないことを理解した。そして、栄雪に望めないことは自らが補うことを心に誓って、玄空大師を強く見返した。2人の意思は通じ、別れの言葉は一切口いっさいくちにしなかった。

 素空は、玄空大師に黙礼すると、振り返ることなく裏参道を歩きだした。

 天安寺の僧達の誰もが、素空の姿を目に焼き付け、そして、僧達の誰もが、2人と居ない存在を何時までも胸に納めようと思ったのだった。

 時刻が正午になった時、天空が俄かに掻き曇り、天安寺龍門の龍が雷鳴と共に蠢き始めた。玄空大師は咄嗟に天安寺裏参道に異変があったと感じた。

 既に、素空と栄雪は鞍馬谷を目指して半時(1時間)ほど歩いていた。


   仏師素空 天安寺編 下巻 終わり

   仏師素空 諸国行脚編 上巻に続く

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仏師素空 天安寺編(下) 晴海 芳洋 @harumihoyo112408yosi

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