第9章 行脚の始め その1

 素空が、仏の言葉に従い天安寺で3年の時を過ごし、いよいよ寺を去る日になった。興仁大師の計らいで、忍仁堂の朝の勤めに加わることになった素空は、その前に玄空大師への挨拶に訪れた。既に別れの挨拶はすんでいたが、その後2度目の訪問となり、2人とも妙な気分だった。

 「素空や別れの後に、こうして2度も対面できることは、本当に嬉しい限りだよ」玄空大師は手放しで喜んだ。

 玄空大師は朝の勤めまで歓談の時を得たので、素空に心に残ることを話して欲しいと言った。すると素空は、昨日毘沙門天が語り掛けたことを報告し、菩薩も如来も眷属も、すべて1体の仏だと言うことを伝えた。

 玄空大師はジッと目を閉じ言葉がでなかった。

 素空は、毘沙門天の言葉を借りて言った。

 「仏道は多神教を元に生まれたのであり、人が多くの仏を作ったことを御仏は御慈悲を持って、寛大に御許し下さったそうです。そのことより、人が御仏に向かう心を良しとしたそうで、更には、異教の神も御仏も同じであると仰せでした」

 玄空大師はなおも言葉を出せず呆然自失の体だった。

 素空は、師が長年信じて来たことが覆り、大きな混乱の中にあることに驚きを感じた。自分が何故素直に受け入れることができたのか考えた。若さのせいか?直に言葉を聴いたせいか?色々と考えた後、素空はあることに気付いた。

 半年ほど前に有賢大師ゆうけんだいしと言う西院の高僧と話をした時のこと、有賢大師曰く、『この世は、仏道ばかりが人を導くにあらず。異国には耶蘇やそと言うものがあり、その教えに従う者は、教えを守るためには命を投げだすこともいとわないと聴いておる。仏道に身を置く者がすべてそうであれば、異国の教えに囚われるこなど、なかったであろうと思うが如何に?』

 素空はその時、有賢大師の問いに答えることができなかったことを覚えていた。

 玄空大師が言った。「わしが瞑想のうちに目にした御姿と、その眷属は本当の姿だったのだろうか?」

 素空が答えて言った。「私達が目にした様々な御仏の御姿は、何時も変わることなく現れる本当の御姿で、人の作り出した姿とは言え、御仏が表す真の御姿であり、四神が現れた如く人の想像で作られたものでも、御仏が良しとすれば降臨することができるものと存じます」

 玄空大師は、素空の言葉に圧倒され、またも言葉をなくした。しかし、暫らくして発した言葉が秀逸だった。

 「素空や、驚き圧倒されることばかりだったが、わしはこの年だから、これまで通り変わることなく仏道を歩むのみであるよ」

 素空は、師の言葉にホッとした。これは自分の思いに他ならなかったからだ。

 素空が言った。「お大師様の仰せの通りです。仏道にある者は御仏のみを見て修行をし、異教に身を置く者はその神だけを見て生きることであろうと存じます。私も、お大師様と同じ思いであることに安堵いたしております」

 玄空大師は、素空が知らぬ間に高みに上っていたとに満足の笑みを浮かべた。

 「そろそろ朝のお勤めの時刻じゃ。素空と過ごす時は何と速いことか。忍仁堂での最後のお勤めであろう。いつもよりちょっとだけ心を籠めておくれ」玄空大師は茶目っ気たっぷりに言った。

 素空が、玄空大師に続いて忍仁堂の本堂に入った時、既に半数の僧が座して、各々が口の中で経を唱えたり、禅を組んだり、黙想などをしていた。玄空大師が祭壇の前に立ち、横に素空を見た時、一同いちどうが騒然となった。

 明智みょうちは灯明番を3人残して、栄雪達えいせつたちと共に座していたが、一同の視線の向こうを見て驚いた。栄雪も同じように驚いたが、昨夕、薬師堂での涙の後であり心が折れそうな気分だった。

 前列の高僧達が揃って座に着くと、玄空大師の声が堂内に響き、続いて高僧の声が荘厳な響きを放った。明智はこの時、素空の声が忍仁堂でどのように響くのか興味を持って見ていた。すぐに素空の声が聞こえた。他の多くの僧達は、素空の後に付いて唱えだしたが、高僧達の声は玄空大師の後、素空の前だった。明智は、高僧達が居住まいを悪くして次第に素空の後に付くだろうと思った。

 素空は、玄空大師の望み通り心を籠めて無心となって唱え始めた。

 明智は知っていた。素空が無心となり、経を唱える時、その先を唱えると心が苦しくなり、そのまま経を続けられないことを…。

 明智の予想通り、素空の声はすぐに玄空大師の後に付いた。しかし、明智の予想もここまでだった。

 やがて素空と玄空大師の声が先になり、後に付きしながら響きだした時、明智は素空が僧として玄空大師と並ぶほどの高みに上ったことを理解した。

 しかし、またも明智は予想を裏切られた。

 素空と玄空大師の声が何度も交錯しているうちに、素空の肩口が青白く輝くのを見た。僧達の中にも数人が見たようだったが、騒ぎになることはなかった。青白い光は金色に変わり、揺らぎ始めた。

 明智は自分にこの輝きが見えたことに驚いた。不思議だった…。素空の置き土産のようなものかと思い、余り気にしないようにしたが、これは明智の徳を更に高めるための予兆だった。後日、明智の彫り上げた仏像が真の姿を表し、僅かながら金色の輝きを持つことになるのだった。

 経が終わると、素空が天安寺を下りることが告げられ、別れの挨拶が始まった。若い僧の殆んどが素空を崇拝し、その力を直に示された者は、熱狂的とも言える崇拝者になっていた。中でも六円りくえんと言う僧は、明智一派の崩壊の時、素空の指示を受けて仏の姿を体験し、それ以来、素空の深い考えと、即断即決の行動力に常人を越えた特別の存在と崇めたのだった。

 素空は挨拶を終えると、釈迦堂に戻って行ったが、続いて老僧の1人が栄雪を祭壇の前に呼んだ。栄雪が前に歩み寄ると、玄空大師が言った。

 「栄雪や、永い間灯明番として大切な務めを果たしてもらってありがとう。これよりお役を解くこととする。ご苦労であった」

 栄雪はどうしてこのようなことになったのか分からなかった。昨夕、栄覚大師に、素空に付いて天安寺を下りたいと打ち明けたことへの罰だろうかと思った。栄覚大師が告げ口まがいのことをする筈がなかった。

 栄雪が胸を締め付けられるような思いのまま立っていると、玄空大師がそっと言った。「栄雪や、この後は素空と共にあり…修行に励みなされ」

 栄雪は更に呆然として立ちすくんだ。思いも寄らないことだった。

 「僧、栄雪は天聖宗本山での修行を終え、本日より所を替えて仏道に精進するよう申し伝えます」老僧の声が堂内に響き渡った。

 本堂に集まった僧達に動揺が広がった。明智は、素空が行脚の供として栄雪を選んだのだと思ったが、すぐにそう望んだのは栄雪だったと察した。呼び出された時、栄雪が喜んだ風でなかったのは、望みが叶わぬことと一旦諦いったんあきらめたからだろうことまでは察したが、素空本人の望みとしなければ納得の行かないことだった。

 「明智や、そなたに相談なく決めたことを詫びまする」勤めの後、本堂で玄空大師が侘びの言葉を口にして顛末を語った。

 明智はすべてを承知した。「お大師様、栄雪の後任はなかなかに難しいでしょう。一体どのようにすべきか…。行信ぎょうしんあるいは淡戒たんかいにとも考えましたが、もう暫らくの修行をいたさねば務まらないと存じます」

 「明智や、灯明番に栄雪の後を任せるに足る者がおらぬのじゃな?」

 玄空大師は何やら考え始めた。

 「明智や、この天安寺でそなたが後を頼むに足る者がいるとしたら、どのような者であろうか?栄雪の積み重ねた知識をすぐに身に付け、そなたの代わりを任せるに足る者とは、一体どのような僧であろうか?」

 その日、玄空大師と明智は1日中考えていた。栄雪が灯明番に欠かせない存在だったことを思わずにはいられなかった。

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