天安寺裏参道 その7

 素空が大門の前の広場まで来た時、フッと鞍馬谷くらまだにの方を見た。天安寺に於いてきょうからの道を表参道と言い、志賀しがからの道を裏参道と言った。表参道は東山ひがしやまからの1本道だったが、裏参道には数本の猟師道があり、鞍馬谷から尾根伝いに1番大きい道をそう呼んでいた。

 素空は、裏参道に漆黒の闇が潜んでいるように思い、1町ほど先まで歩を進めた。

 月明かりの中で、辺りは青白く形を現わしていたが、道の1角いっかくから漆黒の闇となって道も石も木も、闇の中でまったく見えなかった。月明かりは一様いちように光を与えていたが、そこだけが光を吸い取ったように見えた。

 素空が闇の手前で言葉を発した。「汝は何者であるか?闇の中で蠢くは悪鬼悪霊あっきあくりょうと見たが如何に!」

 素空は既に数珠じゅずを翳して闇と対峙していた。

 闇の中で、悪鬼となった桑原博堂くわはらはくどうが言った。「お前は何者だ、わしは人が通るのを待ちわびていたのだ。おとなしく我が手に落ちるが良い」そう言うなり、漆黒の闇の中に誘い込もうとした。桑原博堂は鞍馬谷に近いところに舞い落ちたが、鬼の手によって裏参道の入り口付近に運ばれていたのだった。この場所の方が人通りが多く、取り付くには都合が良かったのだった。

 素空は、悪鬼と自分のために結界けっかいを敷いた。勿論、悪鬼を逃がさないためと、自分を守るためだった。桑原博堂は突然結界を張られたことに驚き焦りの声を上げた。「お前は何者だ?わしはこのままでは朽ち果てるのだ。この結界を解け!」桑原博堂は魂の滅びに恐怖した。

 素空の経が辺りに響き始め、素空の結界から、桑原博堂の結界へと伝わり、結界の中の桑原博堂に、のた打ち回るような苦しみを与えた。悪鬼はここで苦しみを受けることは、地獄で鬼に苛まれるのと同じだと思った。違うとすれば地獄の苦しみは永遠に続き、この結界の中での苦しみはすぐに終わり、朽ち果てた邪悪な魂が1つ転がることになるだけだった。

 絶体絶命の苦しみの中で、悪鬼は鬼の名を呼んでひれ伏した。地伏妖の冷徹な顔を思い出しながら、何度も何度も頭を垂れた。

 素空は、苦しみながら赦しを請う素振りを見せた悪鬼を見ながら、なおも緩むことなく経を唱え続けた。

 桑原博堂は次第に萎えて行き、あわやこれまでと言う時になって、結界を破る黒い影が、萎えて消えそうになった桑原博堂をさらって行った。「地伏妖様じふくようさまありがとうございます。これからは決して、決して逆らいません!…」

 素空は経を止め、暫らく鞍馬谷の方を見遣っていた。

 素空は厳しい顔できびすを返して釈迦堂しゃかどうに帰り、興仁大師こうじんだいしに目通りを願い出た。

 興仁大師は、素空が珍しく夜分に訪れたことに異変を予感した。

 「素空や何事かあったのかな?察するに、火急の用なのかな?」興仁大師には何らかの異変が持ち上がったことはすぐに分かった。

 素空は夜分の訪問を詫びた後、地伏妖の名と、悪鬼の様子を具に語った。

 「お大師様、ただならぬことです。今もなお、鞍馬谷に通じる参道に悪鬼悪霊が潜んでいる模様です」素空は裏参道の往来がもはや危険で、常人の通行ができなくなったと言った。

 興仁大師はとくと考えた。そして、語り始めた。「素空や、このことは天安寺ばかりか市井の人々にとっても一大事いちだいじであるよ。そなたは結界を張り、身を守る術を知っているが、僧と言えども鬼や悪鬼の前では身を守ることができないものなのじゃ。そなたが捕らえようとした悪鬼は、一体いったいどのような者であろうか?また、地伏妖と申す鬼はどのような力を持っているのだろうか?僧は仏道と共に、悪鬼悪霊どものことを知らねばならぬようじゃ」

 素空は、興仁大師に報告をすませた後、忍仁堂にんじんどう玄空大師げんくうだいしを訪ねた。

 玄空大師の部屋では夜分の訪問には触れずに、率直に本題に入った。

 玄空大師はジッと目を閉じ意を決して語り始めた。「素空よ、我らは御本山にあり、悪鬼悪霊の害を受けにくいため、僧と言えども却って無防備であろう。地伏妖と言う鬼の正体を見極め、駆逐することは仏道を守ることに他ならないのだよ。素空よ、そなたが市井に下るのであれば、心して過ごすようにするのだ。諸国行脚しょこくあんぎゃをする僧の中には、ひたすら悪鬼悪霊との戦いの日々を過ごす者もいると聞く。そなたがそうならないよう願うばかりであるよ」

 素空は、この日図らずも2度目の訪問をし、最後の時を喜びのうちに過ごした。そして、最後に1つの願い事をした。「お大師様、明日良円様の遺骨を抱えて御本山を下りる時、同行の僧をお1人付けて頂きたいのです」

 そこまで言った時、玄空大師が言葉を遮り語り始めた。

 「素空は、同行の僧が悪鬼悪霊に取り付かれた時どうするつもりかな?」

 素空が答えた。「同行の僧はそのような不覚を取ることなどないと存じます。万一取り殺されるとも、お覚悟はできていようと存じます」

 玄空大師はその僧の名を聴いて驚いた。

 「栄雪えいせつとな!」

 素空は、栄覚大師えいかくだいしの言葉を借りて語った。すべてを聴いた後、玄空大師はジッと目を閉じポツリと言った。

 「栄覚も心配しながら同行を許しているようじゃ。しかし、覚悟かくごと、そなたの責務せきむとは別物なのじゃ。心して行脚をいたすことだよ」玄空大師はそう言うと、素空に微笑んだ。その顔は、素空が伊勢滝野いせたきので毎日慣れ親しんだ顔だった。

 素空は黙礼して、釈迦堂へと帰って行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る