天安寺裏参道 その6

 素空は薬師堂に栄覚大師えいかくだいしを訪ねた。まだ陽が落ちる前だったので裏門から入り、帰りは表門から出るつもりだった。

 素空は毘沙門天びしゃもんてんの前を通ると、厨子の扉を開き経を唱え始めた。すると、毘沙門天は金色の輝きに覆われ、時折、強く輝き始めた。

 《素空、良いお名前だ。そなたは何時もその名を以て仏と繋がっているのだ。その名のあるところ、仏と一緒いっしょにあるのだ》

 素空は、毘沙門天に幾つかの質問をして、答えを聴きたいと思った。素空は、宇土屋喜兵衛が最初に言った言葉の疑問を質したかったのだ。

 素空が言った。「私は、彫り終わった後に魂を籠めましたが、毘沙門様は何時魂を持たれたのでしょうか?」

 毘沙門天が答えた。

 《玄空は彫りが終わる前に天安寺を下り、魂を籠めることはなかったが、彫りの半ばで悟りを得たのだ。悟りを得た者が精魂籠めた彫り物は真の姿を成すのだよ。同時にその彫り物は仏の加護を受けるのだよ。つまり、何があろうと仏はその彫り物を守ると言うことなのだ》

 素空は、宇土屋が見付けた時、朽ちもせずどんな天候でも陽だまりのような場所で守られていたのは、仏の業だったことを確認した。

 素空が尋ねた。「毘沙門様は、御仏の眷属けんぞく御座おわしましょうか?」素空は僧としての知識を確かめたかった。すると、毘沙門天は思いもしなかった答えを口にした。それは、素空が瞑想のうちに目にしたことを覆しかねない答えだった。

 毘沙門天が答えて言った。

 《素空よ、人は神仏を都合の良い姿に変えたがるのだ。よろしくないことだが、そもそも、仏道が多神教を初めとしているのであれば、仕方がないことであるよ。そなたが見た如来にょらいも、菩薩ぼさつも、眷属けんぞくも皆仏であるよ。仏は唯一ゆいいつであるが人の都合によってその形も様々となったのだよ。素空よ、良くお聴き、仏は人の都合に寛容で人が様々な姿を求めれば、その求めに応じた姿を示し、仏を信じる心を大切にするのだよ。素空が瞑想のうちに目にした仏は様々なものでありながら唯一ゆいつのものと言うことだよ》

 素空はこれまで信じたことが、偽りではないが、すべてではなかったことに呆然とした。そして、毘沙門天が言ったことは、素空の仏道を求める心に1つの変化をもたらすことになるのだった。

 素空は念を押すことになると思いながらも、失礼を承知で尋ねた。

 「毘沙門様にお伺いいたしますが、仏道では御仏と言うお方が御座しますが、またある宗教では形の異なる御仏が御座すとおっしゃるのですか?」

 毘沙門天は初めて笑みを浮かべて答えた。《素空には分かっていることであるよ》そう言った後、元の表情に戻って言った。

 《異国では仏道の仏と異なる神が信じられているのだ。また他の国では、それとは異なるものを神として崇めているのだよ。その殆んどすべては真の仏であり、真の神なのだ。この世には、神が開いた宗教はただ1つであるが、それとは違う仏道は悠久の時を超え、真の宗教になったのだよ。それは、人の善意が形となって崇高な仏に倣うことで、正しきを得たのだよ。素空よ、良くお聴き、人が作り出した贋の神仏は常人では見分けられないが、神仏に近くある者には容易に見分けがつくものだ。行脚の道々でそのことが分かるだろうよ》

 毘沙門天は言い終わると、意味ありげに素空を見て微笑んだ。

 素空は、毘沙門天の言うことが理解できたので黙礼して立ち去った。

 毘沙門天は金色の輝きが次第に薄れ、そこは元のように夕暮れ前の厨子に戻った。

 素空は薬師堂の本堂で、栄覚大師と経を唱えていた。

 素空の声がほんの少し先になり、栄覚大師が後を追った。2人の声は絶妙の響きを成していた。素空が、明智と経を唱える時とは少し異なる響きがあったが、どちらも素空の心を静かに落ち着かせた。

 やがて、3本目の経がすむと栄覚大師がにこやかに言った。「もう陽が落ちましたね。夕餉ゆうげをご一緒に如何ですか?少々ご相談いたしたいことがあります」そう言うと、先に立って庫裏に引き上げて行った。

 先ず、素空が言った。「天安寺に上がって以来、栄覚様には一方ひとかたならぬご厚情を賜り心より感謝申し上げます。また、瑞覚大師ずいかくだいし兄弟弟子きょうだいでしとして可愛がって頂きましたことは、終生忘れ得ぬ思い出として心に留め置きます。あっと言う間の3年間でしたが、常に心の糧を頂きましてありがとうございました」

 素空は明日の別れのための口上を言うと、後は取り留めのない話題で楽しい時を過ごした。しかし、素空は、栄覚大師の言葉を忘れてはいなかった。

 素空が言った「ところで、栄覚様にはお話になりたいことがおありなのでは?」

 栄覚大師は意を決したように語り始めた。それは、栄雪のことであり、良円の遺骨を帰した後も、諸国行脚の素空に同行したいと言うことを告げた。

 栄覚大師が珍しく目を潤ませて語り継いだ。「栄雪が、素空様を尊敬申し上げている余り、諸国行脚の同行を願っていることは、やがて、栄雪の心を萎えさせ、曲げはしまいか心配でなりません。如何したものか?…」

 素空は、栄覚大師の心が治まるのを待って話し始めた。

 「栄覚様は、本当に栄雪様をお思いなのですね。しかしながら、余りにも近くにあることは却ってそのすべてを存じ得ないことが多いとも言えましょう。栄雪様のことはそれに当たるのではないでしょうか?栄覚様のご心配は良く分かりますが、栄雪様は僧として立派なお方なのです。天安寺を去り、諸国を行脚するのも修行なのです。どこでどのようなことを成しても、僧は常に御仏のみに向かっているのです。お許しなさいませ」

 素空はそれだけ言うと薬師堂を正門から出て行った。月明かりの中、仁王門におうもんの前で経を唱え始めた素空に、阿形尊あぎょうそんが声を掛けた。これは初めてのことだった。

 《素空よ、私は千手観音せんじゅかんのんの眷属と言われる密迹金剛みっしゃこんごうである。毘沙門から聴いたであろうが、仏のひとつの姿であるよ。那羅延堅固ならえんけんごも私も一体いったいで、仏の1つの形であるよ》

 阿形尊がそう言うと、隣の吽形尊うんぎょうそんが語り始めた。

 《素空よ、あなたは真の姿を表し、すべてが本当の姿であることを信じて彫り続けるが良いでしょう。あなたが彫り上げたこの姿は、あなたの意に従い、この天安寺ときょうの治安を担いましょう。既にあなたは私達仏の世界に身を置いていることを心得ることです。つまり、仏は姿を変えて素空と一体になるのです》

 素空は驚いた。そして、素空が見出した結論は、人が精進し仏にのみ向かって生きる時、仏と一体の境地を得、更に法力として仏の力を得ると言うことだった。このことはやがて、素空の身をもって体現することになるのだった。

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