天安寺裏参道 その5

 素空は、興仁大師こうじんだいしの部屋に座して暇乞いの口上を申し上げていた。

 興仁大師は実に機嫌よく迎え入れ、茶と菓子を出して持て成した。樫仁かじんが同席することは滅多になかったが、素空との別れの前と言うことで、許されたのだった。

 樫仁は薬師堂やくしどうで、素空と玄空大師げんくうだいしの彫り物が真の姿を示して以来、2人の仏師としての力量に畏敬の念を抱いていた。

 樫仁は何時になくかしこまった格好で座っていた。興仁大師は、樫仁の姿を眺めながら、素空より随分年長なのに、年下に見えることが不思議だった。

 樫仁は、興仁大師が認めるほどの心善き僧だったが、それが故に、実際の年齢より若く見えるのだった。『こうして並ぶと、素空の方が年長のように見えるのが不思議であるよ』興仁大師は2人を見比べてご満悦だった。

 「樫仁や、素空に申したいことがあれば何なりと申すが良いぞ。今日をおいては叶わぬことであるよ」興仁大師の言葉に、樫仁が応えて言った。

 「それでは、お尋ねいたします。薬師堂で仁王像におうぞう毘沙門像びしゃもんぞうが動いたことは、昨年もお伺いしたのですが、そもそも、私の前で何故動いて見せたのかお教え願いたいのです」

 いつもの素空なら口を濁して語らなかったかも知れないが、この日が最後となるとそう言う訳には行かなかった。

 素空が答えて言った。「御仏が御姿を現す時、御仏に何かしらの訳がおありなのです。恐らく、御仏が人を見たのでしょう。樫仁様に御姿を現したことで、ご自身か周りの方々に何かしらの変化が生じた筈なのです。如何でしょうか?」

 樫仁は暫らく考えて首を横に振った。「残念ですが、何も思い当たりません」

 素空は、興仁大師を見詰めた。興仁大師は、素空と目が合った時、ハッとして思わず口を開いた。

 「そうじゃ、樫仁は何も変わることがなかったのじゃ。しかし、わしは樫仁を以って御仏を試した故に、わしの心を御仏が御試しになったのだよ。わしは何と恐れ多いことをしてしまったのだろうか…」興仁大師は力なく語り、言葉をなくした。

 『樫仁や、暫らくここで格子の中を覗き、その後で裏門の毘沙門様の厨子を開いてごらん。僧であることを喜びとすることができるかも知れませんよ』興仁大師は、樫仁を伴なって薬師堂に赴いた時、仁王門の前で樫仁に言ったことをハッキリと思い出していた。『何んと言うことであろうか!わしは御仏の出現を冗談紛れに口にしたのだ…』興仁大師は心から悔やんだ。

 「何と!わしのために御仏が、樫仁に御姿を御現しになられたとは…」

 素空が言った。

 「興仁様、すべての罪の種に気付くことはなかなかに難しく、気付かぬ罪を持って死することは、冥府を彷徨うことになるのです。嘗て、瑞覚大師は想雲大師への心のありようを立て直し即身成仏を果たしたのです。罪に気付くことができたことは実に喜ぶべきことなのです」

 興仁大師はジッと目を閉じ大きく頷いた。

 樫仁は素空の言葉を聴いて、もう1つの疑問を投げ掛けた。

 「素空様、そもそも何故私などに御仏の御姿が見えたのでしょうか?」

 樫仁にはどうしても腑に落ちないことだった。

 素空が答えて言った。「僧は常に御仏のみを見ているのです。言い換えれば、誰もがその器に応じて信仰をし、御仏の御慈悲を受けているのですが、そのことに気付くことは難しく、気付くことがそもそも御仏の御慈悲であろうと存じます。それが樫仁様の場合、目に見える形となったのです。徳の高い僧ほど御仏の御慈悲を感じ取ることができるのです。昨年、私が申した通り、1度の機会を疑いなく信じることが、御仏の御慈悲に応えることなのです。そもそも、樫仁様の身に付いた徳に対して、御仏が御姿を現し、興仁様の罪を取り去り、樫仁様をもっと深い信仰に導いたのです。これすべて、御仏がお2人に御与えになった御慈悲なのです。樫仁様の徳は消え去るものではありません。よって、2度の御降臨に浴すことは大いにあり得ることなのです」素空はそう言うと、樫仁に微笑んだ。

 「私は一介いっかいの僧で、決して徳を備えた僧と言える者ではありません」樫仁は食い下がったが、素空が優しく微笑んで諭すように話した。

 「徳のあるか否かは自分で判断できないことなのです。御仏が御示しになったのですから、素直にお認めなさいませ。肝心なことは、御仏が御明おあかしになった樫仁様の徳を信じて今後の修行に生かすことなのです。そのような自覚がなければ、何時の間にか徳が失われることにもなりかねないのです」

 素空は暫らく歓談し、興仁大師の部屋をでて行った。

 興仁大師は、素空の指摘で気付かぬ罪を知って、罪を見詰める心を養うことは僧として必要なことであったと、樫仁の前で省みた。

 そして、樫仁は素空の言葉を深く心に納めて、更なる高みを歩むことになった。

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