天安寺裏参道 その4

 良円の遺骨は、素空と栄雪の手によってすすがれ、それを新品の桐箱に大小の布袋に分けて納められた。小さな袋には小骨に至るまで、素空の思いと一緒いっしょ一片残いっぺんのこさず納められた。

 小骨を濯いでいる時、素空が天安寺を去る日を告げた。

 『素空様が天安寺を去る日が明日とは…』栄雪は驚いた。

 今日遺骨を掘り上げて、明日には天安寺を下りるとは急過ぎると思った。栄雪は、素空と共に諸国行脚しょこくあんぎゃの道連れになりたいと思っていた。栄雪の焦りは不安に変わり、意を決して玄空大師の部屋を訪ねようとした。しかし、栄雪は貫首かんじゅの部屋を訪ねる資格を得ていなかった。玄空大師げんくうだいしに面会を申し入れても、お付きの僧に断られるのは必至だった。

 栄雪は考えた。『先ず、明智様にお許しを頂かなくてはいけないが、お役を返上するとなるとお許し下さるか心配だ。お大師様のお許しを得るとなると、1日ですむかどうか分からないし…』

 栄雪は、素空と共に天安寺を下り、良円の骨を里に帰したいと語ったことがあった。それは、良円の死を里に伝え、母親の思いを素空に語った時のことだった。

 『もう少し早く許しを得ていれば良かった』栄雪は自分の気持ちをもっと早く決めていれば良かったと思った。

 無理を通せば何のことはなかったが、最後になって甘えたくないと言う気持ちがあった。…どうすればいいのか考えた末、薬師堂やくしどう栄覚大師えいかくだいしに相談することにした。

 薬師堂は栄覚大師の思いの籠った寺であり、栄雪はそれだけでホッとする雰囲気を感じていた。本堂は、まるで、伊勢滝野いせたきのの薬師寺のように変わっていた。瑞覚大師の存命中は、見舞いに遣って来た高僧達によって、祭壇が華美に飾られていたが、その後、無用の装飾は一切持いっさいもち出されていた。ただ、祭壇の奥に立派な厨子が安置され、中に納められているものが、さぞかし貴重な物だろうと思わせた。一見いっけんすると、その厨子の前に立っている釈迦三尊像しゃかさんぞんぞうが祭壇に祀られた本尊のように思わせるが、厨子の中の木彫りの薬師如来立像やくしにょらいりゅうぞうこそが、このお堂の本尊だった。

 栄覚大師は、瑞覚大師と同じように、玄空大師も尊敬していた。伊勢滝野に派遣された時、市井の寺の姿を見て天安寺のお堂に欠けている姿をそこに見出したのだった。毎日の勤めのうちに、当時の栄信えいしんは仏の真の姿を目にすることができるようになったのだった。栄覚大師は伊勢滝野での貴重な体験を、この薬師堂で実現した。しかし、天安寺でのこの祭壇に理解を示したのは、興仁大師と玄空大師を始めとする4、5人の高僧のみだった。

 栄覚大師の存在は、栄雪の僧としての原点と言えた。灯明番の勤めは大きな喜びと、僧としての充実した日々を栄雪にもたらし、僧として多くのものを身に付けることができたのだった。しかし、素空と共に岩倉屋いわくらやに行った時から、次第に素空に惹かれて行った。尊敬して止まない栄覚大師に、素空と共に天安寺を下りたいと願いでた。本堂で経を唱え、庫裏で栄雪の言葉にジッと耳を傾けていた。

 栄雪の申し出を聴き終わると、栄覚大師は暫らく考え、これまでに見せたことのないほど厳しい顔で栄雪を見た。

 栄雪は、口にだしてはいけないことを咎められた時のような気まずさを感じて俯いた。栄覚大師が静かに語り始めた。

 「栄雪、修行は天安寺でもできるではありませんか?素空様のもとで修行をするのもいいでしょうが、素空様の境地に至らぬ苦痛が、やがてあなたの心のかせとなり、修行の妨げになりはしないか心配です。天安寺ではあなたの生きる場は多く、修行の道も幾通りも用意されているのです。やがて御本山を下り、里の寺を継ぐことは、あなたが御本山に初めて参った時の希望であった筈です」

 栄覚大師は厳しい顔で言い放った後、少し間をおいて語り継いだ。

 「素空様は、法力を持ったお方で、1人で諸国を行脚することも障りなく、苦難がお身に降り懸かるとも容易に逃れることでしょう。私は、あなたが素空様の負担になるばかりではないかと心配なのです」

 栄覚大師は優しく微笑み、更に語った。

 「栄雪、私達は御仏に倣いて修行をし、必要としている者のために生きるのです。天安寺はあなたを必要としているのです。これまで通り、私達と共に修行をなさいませ。明智様もそうお望みの筈でしょう」

 栄雪は言葉を返せなかった。生まれて初めて心の底から慟哭の涙に呑み込まれて行った。止まらない涙を拭うことなく泣き続けた。

 栄覚大師は、号泣する栄雪の姿を哀れんだ。栄雪のこのような姿は初めてであり、黙って見ているしかない己の心を責め始めた。栄覚大師は大切な弟弟子の栄雪が、何故ここまで素空に心酔して行ったのか分からなかった。この天安寺で素空の存在は大きく、その仏性の高さは言うまでもなく、悟りを得て法力を備えた僧なのだ。大勢の中の1人として関わることには異議を唱えないが、諸国行脚の同行者として、素空と共にあることは、素空の足手まといになりはしまいか、栄雪自身の苦悩の種になりはしまいか心配だった。栄覚大師は堪り兼ねて庫裏をでて表門の仁王像を拝観した。素空の作だが、この仁王像が時々姿を消すことも、宇土屋喜兵衛の危難を救ったことも知っている。今となれば、その真の姿を見ることもできるのだった。今は、このことだけを取ってみても、素空が僧の中で特異な存在で、玄空大師と並ぶ法力の持ち主だと言うことは、紛れもない事実だった。

 素空の兄弟子として懇意になったが、その時から尊敬の念は増すばかりで、兄弟子と言う立場を恥じ入るばかりだった。そのような素空の側で、己の力のなさを強烈に感じ、自滅の道を辿らねば良いと憂えるのだった。

 栄覚大師が庫裏に戻った時、栄雪はそこに居なかった。ただ、止め処なく流れる涙を拭いもせず流した痕だけが残っていた。

 『不憫ふびんであるよ…』栄覚大師は涙を浮かべて、栄雪を哀れんだ。

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