天安寺裏参道 その3

 早朝、天安寺の墓所で経の声が低く広がり始めた。素空の声は良円りょうえんの墓所から霧が広がるように四方に響きだした。経の響きは密やかで、近くで聞いてもその場所が分からないほどだった。

 「あのお声は素空様に間違いありません!」墓所の入り口で栄雪えいせつが立ち止まって言った。他の3人にはまだ聞こえないほど小さな声だったが、立ち止まって声を探しているうちに、仁啓じんけい法垂ほうすい栄至えいしの3人にも聞き取ることができた。

 仁啓が言った。「このような早朝に、何故素空様がおいでなのでしょうか?」

 誰も答えることができず、立ち尽くしていると、栄雪が口を開いた。「私達は墓を掘り、遺骨を拾い上げることを、あまりにも簡単に考えていたのではないでしょうか?素空様は半日を掛けてご準備なさっているのではないでしょうか?」墓所では時折、掘り替えや掘り上げが成されるのだが、作業前に経を唱えるくらいだった。

 3人は、栄雪の言葉を重く受け止め、素空の行いがそれを証明していると思った。

 栄雪達が墓所の入り口を通り、良円の墓に辿り着いた時、丁度素空の経が終わったところだった。素空が言った。「皆様、おはようございます。掘り上げは巳の刻みのこく(午前10時)からと伺っていましたが、如何なさいましたか?」

 栄雪は逆に尋ねた。「素空様こそこのような早朝から如何なさいましたか?」素空は、4人の顔を見て、巳の刻開始が偽りで、その真意にも気が付いたが、そのことには触れずに、栄雪の問いに答えた。

 「私はこのところ毎日、早朝の墓参をしているのです。今日は良円様の遺骨を掘り上げる日で、皆様への感謝と掘り上げのご無事をお祈りしていたのです」

 素空が続けて言った。「私はこれから忍仁堂にんじんどうに参りますが、皆様はこれからお始めとお見受けいたします。明智様にはお気遣い下さり、ありがたく思っていますと、お伝え下さい。巳の刻までには戻って参りますので、先ずはこれで失礼いたします」

 素空はそう言うと良円の墓から、悠才ゆうさいの墓に移って経を唱え始めた。悠才の墓は土が沈んでいたので、回りの土を寄せて補修した。既に棺桶の蓋が痛み始めているようだったが、素空は良円の墓参のたびに、そのようなことをしていたのだった。

 栄至が言った。「素空様はすべてをご存じのようでしたね。それにしても毎日墓参をなさっていたとは驚くばかりです」

 栄雪が言った。「素空様のなさることは決してその場限りのことではないのです。私は浅はかにも先読みをしてしまいましたが、素空様は、私達が決して及ばない深い真理をもとに行動なさいます。毎日の墓参は素空様の深いお心の表れであると思っています」

 4人は、良円の墓前で経を唱えると、雁爪がんづめを深く入れて掘り進み、くわ木桶きおけに土を入れて掘り出した。墓には既に棺桶かんおけはなく、深くなるにつれて、慎重に彫り進めた。時折、素空の方を気にしながら作業を進めたが、素空は、悠才の墓から、瑞覚大師ずいかくだいしの墓前で3本の経を唱え、更に太一たいちの墓に移動した。

 素空は、太一と両親のために経を唱え、最後に地蔵菩薩じぞうぼさつに額ずき、この墓所に眠るすべての霊のために祈った。素空の経は暫らくの間墓所に響いたが、墓所の入り口に2番手が姿を現した時、素空の経が終わった。

 明智みょうちは、素空に近付くと気遣わし気に言葉を掛けたが、素空は明るい笑顔で、明智の気遣いに感謝し、心配を掛けたことを詫びた。

 素空は1番手の4人にも言ったように、忍仁堂を訪ねることを告げて別れた。

 素空は忍仁堂で玄空大師げんくうだいしに挨拶をした。言葉が詰まりそうになるのを堪えながら、天安寺を去るに際して、東院貫首とういんかんじゅ、玄空大師への暇乞いの挨拶だった。

 素空は形式通りの挨拶をした。素直に心を表せば、とても最後まで口上を述べられなかった。しかし、素空の型通りの挨拶が、玄空大師の心を揺さ振り言葉を奪った。

 素空はゆっくり語り合うのはこれが最後だと承知していたが、良円の骨を拾わねばならないと言って、玄空大師の部屋を去ることにした。素空は型通りの口上の後の長い沈黙だけで満足な思いだった。素空には、玄空大師の心の内が手に取るように理解できた。沈黙が心と心を繋ぐことを初めて体験した思いだった。

 素空はもう1度墓所に立った。明智に知らせを受けた時刻だった。

 栄雪が言った。「丁度良いところでした。骨をすべて拾い上げ、ふるいに残しています」

 素空は丁寧に頭を垂れて篩に歩み寄った。大きな骨は既に木箱に納められ、篩の中の小骨を見て、明智に行った。

 「この篩は私に引き取らせて頂けないでしょうか?」

 明智は、小骨は墓に戻す慣わしだったので、素空に訳を尋ねた。

 素空は神妙に答えた。

 「天安寺での慣わしとして、小骨は穴に戻すことは聴いております。新しい穴に埋め直す時は、その穴に土と共に混ぜて埋めることも存じておりますが、私は良円様のお母上に1欠片かけらも残さずお返しいたしたいのです。欠けた体でお返しすることは、ご母堂様の悲しみを癒すことにはならないと思いました」

 明智は素空の律義さに感心し、その思いのすべては、人がするかしないかではなく、どうすることが良いことか、それだけを考えているのだろうと思い当たった。

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