何度目かのニーナ

 夏も半ばの燦々と照る陽の光の中で、やや強い風に土煙を浴びながら鉄人間のニコラは果樹たちに水をやって歩く。遠く映る荒涼とした風景に、眼前の青々とした木々は、雫の重みで小さく葉の頭を垂れて、生命に輝いて見えた。本当の名前はずいぶん昔に置いてきたように朧げで思い出すことができない。水に濡れた手を丁寧にタオルで拭い、それを古びた家の玄関の前に置かれた丸テーブルの上に放り投げる。代わり映えのしない毎日を過ごすことは記憶を摩耗させて彼自身のことも思い出せなくさせたが、それに不満はなかった。木々の世話をするのは楽しかったし、静かな時間も嫌いではなかった。この習慣が元となった人間のものなのか、それとも今の自分になってからのものなのかは判然としなかったが、ひどく長い時間そんな生活を続けていると、それも頓着するほどのことではないように思えた。今この生活があり、それに満足を覚えている、それが肝要なのだ。

 部屋の中に入って大きな本棚から古い本を一冊抜き出して、ダイニングの棚を眺める。そこには太陽の色をした乾燥したフルーツを詰めた瓶が並んでおり、テオドール、エミール、ニーナなど様々な名前のラベルが貼ってあった。彼はアルベールの瓶に手を伸ばし、玄関外にあるロッキングチェアに腰掛け、丸テーブルに置いてあるシーシャに乾燥フルーツを詰めると、火を点けて深く吸って、ゆっくりと煙を吐いた。甘い香りが口内に広がり、鼻孔を擽る。白い煙は濃くもうもうと彼の顔の周囲を覆うと、声をかけてきた。

「はじめまして、ムッシュ」

「ニコラです、はじめましてアルベール」

「庭を眺めながらのシーシャとは優雅だね」

「果実タバコはニコチンもないから健康にも悪くないですよ」

「そこにある本はランボーかね」

「そうですね、でも何度も読んでしまったから、諳んじられるくらいです。

『愛情と生命をはぐくむ炉床である太陽は

恍惚とした大地に燃える愛を注ぎ込む』

ええっと、続きは」

「ははは、歳を取るといろんなことが思い出せなくなるものだ。なに、その度に新しい気持ちで始められるのだから、忘却もなんだって悪いわけじゃない」

「そうですね、この本をまた楽しめるような気がしてきました」

 煙が青空に溶けて散じてしまうとアルベールの声も消えてしまった。そして彼はもう一口深くシーシャを吸って煙を吐く。

「はじめまして、ムッシュ」

「ニコラです、はじめましてアルベール」

 果実にはそれぞれ何者かの意識の残滓が宿っており、火とともに言葉が宿る。つかの間の回帰。だから彼らとの会話はいつもはじめましてから始まる。ニコラ本人が思い出せないはるか昔の知り合いなのかもしれない。だから彼は互いの忘失が支配するこの小さなの会話を楽しみ、擦っても取れない長年の錆のような孤独に滲ませてしばしばその心に起こる波紋に耳を澄ませている。どの果実も彼にとってはもう家族のように馴染み深いものであるけれど、中でもお気に入りは年若いニーナだった。

「はじめまして、ニーナ」

「はじめまして。太陽が眩しくて良い日ですね、こんな日は高いところに登って街を眺めていたいな。冷えたソーダを片手に」

 彼女の声は耳に優しくそよぐ木苺の味がした。そして自室に戻ると、昔のものは殆ど顧みられなくなった山と積まれた日記の頂上の最新のページを開き、彼はそのことを記した。

 明くる日、いつものように木々に水をやっていると劣化した右手の人差し指がポトリと落ちた。すぐに生えてくるとは言え暫くは不便だ。太陽は相変わらず鋭い光で地面を焼いていたから、転がった指を拾うのはひどく億劫に思えた。首に掛けたタオルで顔を拭うとそこがニーナの木であった。実がついていない時期であるから気付くのが遅れたが、彼は欠けた手でその葉を撫でた。

 静かな日々が続いた。シーシャの煙が寂しさを紛らわし、背の焼けたボロボロの本たちが彼方昔の人々の姿を幻視させる。人差し指も元通りになった頃、水やりに果樹園に出ると、ニーナの木に季節外れの実が生っている。彼は意外に思って木の周りを巡ってしげしげと眺めていると視界に率然として薔薇色がかった白い肌の若い女の体が生っていた。それが自重に耐えきれず花托から離れるとパッと目を開いてニコラを見つめて言った。

「はじめまして、えと」

「ニコラです。キミはニーナ?」

「そうです、ニーナです。あのすみません、着るものはありませんか」

 ニコラの服を着たニーナはオーバーシルエットの下に細い体が隠れているのが太陽に透けて見えた。ニコラにとって煙以外のものと会話をするのは新鮮な驚きであった。ニーナと少し遠くに散歩に出かけた際、乗り捨てられた車たちが連なっている街をビルの上から見た彼女は「色とりどりのビーズのよう」と言った。後日にニコラがあの日に見た鳥が何だったかという話をすると「ゴシキヒワですよ、知らないの? 鮮やかな差し色がキレイ。あのときはあなた、ずいぶん動物におびえていて可愛かった」などと笑って、話が一つの連なりとなり、積み重なり連綿と続いていった。それは不思議な驚きであった。昨日の話の続きが今日できて、その話がまた明日に繋がっていく。孤独は硬化した感情の中では無頓着の固結びで微動だにしなかったが、ニーナとの生活の中で徐々に滴る雫が穿つように紐解かれていくような感覚を覚えた。

 ニーナはよく働いた。植物の知識を持っているのだろうか、木々に対する細やかなケアも怠らず、丁寧な仕事ぶりにニコラは大いに助かった。仕事のない時間には二人伴って出かけたり、シーシャを楽しんだ。シーシャの煙を二人で吹かすと、ニーナは彼らと過去を懐かしがって会話したりする。ニコラが遠く過去に置いて来てしまった過去を彼女は知っているのかもしれない。しかし彼にとって過去はとうに自分から切り離されたなにかでしかなかった。今はニーナとの日々の生活が楽しくて仕方がない。彼は煙のニーナを相手にしていたときから感じていた仄かな恋慕が日々、徐々に心の中で大きくなっているのを感じていた。木苺のような甘い声、雅量のある明るい態度、葉を撫でる薔薇色の指先、嫋々と靡く明るい金髪。その一つ一つがニコラの心を揺さぶるようであった。しかし、ニーナの働き振りは少し常軌を逸していた。雨の日も強い風の日も、まるで何かに執着しているかのように働き、そんなときはニコラの言葉も耳に入らないようであった。彼はその態度に隔意を感じ、心は千々に乱れる。次第に彼女との生活は、今まで感じたことのなかった他者が存在するからこそ現れる孤独感を一層浮き彫りにした。

 彼は彼女を知るために過去の日記を紐解いてみることにした。彼女が果樹園の残滓との古い知り合いであるならば、この果樹園の過去にニーナに関する情報が書かれている可能性が高い。彼は埃だらけの日記に息を吹きかけ、表紙を撫で一番古い記録から閲覧していった。

「地球外よりもたらされた金属は生命体であることがわかった、この生命体は生き物に寄生し、宿主の肉体を掌握する。意識は宿主と金属どちらのものが残るのかは今後の経過を見て――」

 そんなことは知っている。一番古い記憶だ。ニコラがまだニコラではない頃の朧げな記憶。

「――金属生命体の受け入れを行った。今これを書いているのは僕なのか金属なのか。これからはどんどんその境界が曖昧になっていくと思うと恐ろしくて仕方がない」

 今のニコラには理解できない感情だった。彼は彼であるし、それ以外に自分を定義するものはない。毎日の生活の中で喜びを感じたり、ニーナに心をざわつかせているのがどちらの自分であるかなど関係なく、それは単にニコラなる自分に違いなかった。

「鉄人間は寿命が著しく長くなる為、長期間の管理者にうってつけだ。――自給運営型果樹園の管理を任されることになった。小さな果樹園だが果物や花は好きだ。楽隠居のようなのんびりした時間を過ごせそうで満足している」

 近づいている気がする。ページを捲る手が早くなる。

「――金属生命体の一部を植物に与えると、程度自我を持った果実生命体が発生する。彼らはそれぞれの個性ある普通の人間のように振る舞うが、本能的に自分を育んだ木々に対する献身を行う。この習性を利用して自給運営型果樹園を運営する。果実は自分たちの木々を世話し、育て、寿命を迎えると木々の間で果て、或いは肥料に、或いは新たな木になる、木からは再び果実生命体が生まれる。こうして果樹園は自給的に運営することができるだろう」

 このあたりの情報は記憶の彼方に消えていたものだ。あの日落ちた指をそのままにしたからニーナが現れた? ニコラはいくつかの日記を飛ばして少し中頃の日記を開いた。

「エミールの冗談にはいつも笑わせられる。彼は近所の人間からも評判が良く、とりわけ子供たちから人気が高い」

 エミール、やはり、煙の主たちは木々に記憶された果実生命体の記憶の残滓だ。彼らはニコラと一緒にこの果樹園を運営していた。

「僕は彼らのあり方に疑問を持つようになった。まるで機械のように与えられた仕事をこなすことに生涯を捧げ、自由もなく死んで生まれ変わる彼らを見て心が軋んだ。なまじ彼らが個性を持っていることが痛々しく感じる。彼らが好きだ。選択のない人生に意味はあるのだろうか。そんな生を歩ませるくらいならいっそ生まれないほうが良い、というのは僕のエゴだろう。裁かれても仕方がない、しかし今度の更新周期には金属生命体の一部を与えずに、ただの果樹へと戻して彼らの桎梏を解こうと思う」

 ここから先の日記は孤独に耐えながら自責と時間の摩耗によって徐々に記憶を失っていくニコラの日々の記録が綴られていた。彼は突然ニコラになったのではない。長い時間をかけて、孤独を飼いならす過程でニコラになったのだ。過去の忘却は新たな出会いに強烈な愛を育ませた。彼はあの美しいニーナに再び出会ってしまった。今の彼にとって重要なのは彼女と共にある生活で、彼女に振り向いてもらい、一緒に新たな人生を出発することだ。彼は結論する、彼女が果樹園に拘泥するのであれば、その呪縛から解き放てばよいではないか。彼はもう果樹園に囚われず共に自由を謳歌することを願い始めた。

「ニーナ! 僕と一緒にいておくれ! この果樹園を去ってともに旅をしよう。一緒に歌って、踊って、笑い合おう! 鳥を見に行こう、ニーナ」

 ニーナは摘果している手を止めずにこちらに振り向き笑顔で手を振る。ニコラは灯油を手に果樹園を走り回る。そして、仕事をしているニーナのもとにたどり着くとそれを放り投げて彼女の手を取った。籠が中に放り出され果実が地面へ転がる。彼は丸い青い瞳を見つめながらジッポライターを擦ると、それを木々の方へ放り投げた。火がワッと広がり、生木の燃える煙があたりを覆い尽くす。その煙は声となり、互いの再開を喜ぶように会話を始めた。そして彼らは見つめ合うニーナとニコラの姿を認め、指笛を鳴らしたり、二人を祝意の言葉を投げかける。やがて祝福は歌声となり、歌詞のないメロディーを口ずさむ。

「ニーナ!」

「ニコラ」

 木々の爆ぜる音が合いの手を入れ、二人は果樹園を包む音楽の中で踊り始める。赤く照らされた彼らの顔は笑顔に満ちている。ニーナのすべすべで温かい手がニコラの手をそっと握る。煙は渦を巻き、それは二人を包み込む舞踏会のドームのようだ。ニコラは煙たちの声による伴奏に合わせてメロディーを編みランボーの詩を諳んじる。

「『ねえきみ いろんなものが見えるんだね

あんなあばら屋にも

燃える炎が 灰色のガラス窓を

あかあかと照らし出せば……』」

 炎が揺らめいて、舞う二人を黄金色に染め上げる。

「『さあ 行こう 来てくれるだろう 君が好きだから

すてきな道行だよ』」

 煙は言葉の紙吹雪を彼らの頭上に降らせる。ニーナはスピンの拍子にニコラの腕からスルリと抜け出て、満面の笑顔を向ける。ニコラはそれを全身で受けるように両手を広げた。燃え上がる炎と白い煙が奏でる音楽はピークを迎えようとしていた。彼女は飛び跳ねるようにして一息に彼の方へと飛んだ、しかし次の瞬間、ニーナはニコラの足元にあった籠を手に持つと踵を返して笑いながら炎の中へと消えて行った。黄金色の中、木苺のような甘い香りがニコラの鼻孔を擽った。

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果樹園の物語 柚木呂高 @yuzukiroko

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