果樹園の物語

柚木呂高

回帰の母

 いつも車窓から見える果樹園は目にする度に違って見えるようであった。その話は人によっては同意を、人によっては否定を受けるので、どっちとも言えないようで、彼の中でも断ずることができかねた。「果樹園は昔、海底にあったのよ。海の底で、静かに、人も来ないうちに実を付けて、海に溶けてしまっていたの」そう言ったのは彼の母親だったが、信じることは難しかった。「何もない土地に突然雨のように土や種が降り注いで、やがて出来上がったのがあの果樹園さ」と言ったのは彼の担任の先生だったが、それもやはり信じられなかった。誰に聞いても果樹園について正確な情報を聞き出すことはできない。ただそれでも人々は誰かから誘われるように妙なるそこへ訪れ、人によっては何日も遊んだ挙げ句にやっと帰ってくるという。どれだけ面白い場所なのだろうと思って行ってみたいと零した際に両親は「いつか連れて行ってやるけれど今ではない」と言う。彼はそれが不満だった。なだらかな風景の続く学校からの道のりに、ふと遊園地のように華やかな彩りを見せる果樹園は、途中下車をすればすぐに手が届くようであった。然るに両親の言いつけは魔力を帯びているかのように作用し、彼にその機会を失わせていた。「そんなに行きたいのだったら一緒に行ってみましょうよ、学校なんかほっぽり出して」と、そこに誘惑教唆したのが同窓の彼女である。学校では閑雅な雰囲気を漂わせている彼女であったが、その実殆どお転婆で、気を許すと途端に正体を表わすのがどうにも彼の気に入るところであった。彼は親の言いつけを思い出して思い悩んだが、乙女というのはこれも一種の魔術的なもので、酷く頑なな桎梏に囚われた男をも軽々と転がすのだ。そして彼は彼女に突き動かされて、遂にある日、学校から抜け出して果樹園のある駅に共に下車したのであった。

 駅から道を登っていくと目の前に現れた果樹園は想像以上に大きい。現代の楽遊原が如く騒がしく、木々入り乱れてかすかに果実の香りがするようだ。入り口の拱門は果実や花を左右対称にあしらったアルミ製のもので、よく磨かれているのか太陽の光を反射して眩しいくらいである。入場料を払って中に入ると二人は園内案内冊子と小さな花綵のバッヂを渡されて歓迎された。木々や低木が整然と並んだ普通の果実畑を想像していたが、まるでテーマパークのように設備が整備されており、人々が溢れ、楽しそうに果物を使ったスイーツを食べながら歩いている。二人は遊園地に迷い込んだような喜びに心躍らせた。木々の横に浮かぶ空中ディスプレイにはその木や果実の名前と簡単な説明が書かれていて、彼女ははしゃぎながらそれらを覗き込んで行く。木々は整頓されているというよりは、ある程度の連なりを持っているとは言え、混在するように錯綜していた。それでも歩きながらよくよく観察していると、ある種の統率というものが見え、道行く過程で変化する景観が楽しく新鮮に感じられ、一見ランダムに見える木々の並びや伸び方は、実は綿密に設計された景観であることが伺える。

 暫く進んでいくと不自然な人だかりがある。そこには小綺麗な木製の白い小屋のようなフレッシュジュースの店が出ており、人々が我も我もと買い求めているようだった。目玉商品はむべと無花果をベースにした白く濁った赤いミックスジュースで、並んでいる若い男曰く「ベースとなっている二つの果実はともに不老不死の果物と言われている、このジュースにはそう言った効能があると言われているんだ」とのことであるが、この果樹園ができてからどれくらい経ったのかわからないけれども、誰かが不老不死を証明するほど長く生きたのだろうかと思って、彼は俄には信じられなかった。ある女性は「美容に凄く良いのよ、もちもちのぷるぷる、十代の肌みたいになるんだから」と言っていた、こちらはいくらかあり得るような気もする。すぐさま効果が出ないにしても、効能を感じることはできるだろう。それにしても大人たちの口々に登る効能は種々様々にして統一性がないように思われた。やれ「精力を増強させる」だの「剥げていた髪の毛が生えてくる」とか、果ては「様々な知恵が授けられ、あらゆる問題が解決する」など、皆自分の願いを叶える飲み物のように捉えているかのように、めいめいの欲望を漏らしているようにも感ぜられた。彼女は強く興味をそそられて、「一緒に飲もう」と提案をした。彼も単純に美味しそうに見えたからそれに同意したのだが、売店の売り子は二人を見て「これはアルコールが入っているから子供には売れないよ、大人になってからまた来てね」と言って、売ってはくれない。彼女はむくれて「ケチ」と一言石ころを投げるように言い捨てて、その場から去ってしまった。彼は急いでその後を追いかけて行くと、広場になった先にある露店のような別の売店で、切ったフルーツの乗ったアイスクリームを注文していた。二つのアイスクリーム持って彼に近寄ると一つを手渡した。彼はそれが妙に嬉しくて自分が特別になったような気分になった。食べると桃や無花果、梨のそれぞれの風味が複雑に入り混じって、舌の上で溶けていく。如何にも濃厚でいて、それでいて舌にスッと抜けていく後味が非常に美味だった。二人は満足げに笑い合い、笑顔が夏の日差しを浴びて花と咲いた。

 やがて閉園時間になって、人々は帰路につく。彼はこの特別な時間がいつまでも続けば良いのにと思っていると、彼女はある方向へ指を指した。そこにはもう閉園時間だと言うのに未だに残っている六人ほどの大人の集団がいて、出て行く気配がない。園内の従業員もそれを承知のようで放って置いている。二人は訝しげにその様子を見ていると従業員の男の人に「もう閉園だからまた来てね」と言われてしまった。彼は仕方なくこの夢の時間の終わりを甘受しようと思っていると、彼女は不羈奔放な娘であるから、「きっと閉園後に何かがあるのだわ、このまま木々の間に隠れて見てみましょう」と言う。彼は彼女と一緒にいられる時間が伸びるならと喜んで受け入れた。

 果たして多くの人々がいなくなり、ライトアップされた木々が夜の涼しげな風に静かに揺れる中、まるで酔眼朦朧とした様子の大人たちが、果樹園の中心の大きな木のもとに集まって行くではないか。その木にはディスプレイがなく、一体何と言う名の植物であるのかわからない。大人たちはどうにも先程フレッシュジュースの小屋の近くで見た顔のようである。そこで大人たちは皆服を脱ぎ裸になると「おお、水銀の処女の大いなる母よ」と言って両の手を天に掲げた。そこに新たに二人の裸の男女が合流して、大きな口を開けると大人たちに頭から齧り付いた。壮絶な光景であった、まるで林檎を齧るように頭を噛み砕く、まるでみずみずしい果実がその果汁を滴らせるように手足が食い千切られ、はては硬直した男性器や潤んだ女性器が裸の男女によって飲み込まれていく。大人たちは恐怖するでもなくただ「おお、水銀の処女の大いなる母よ」とそれがまるで祝福のように喜び祈って自分の順番を待つのであった。人間が人間を食う、その食いっぷりは鬼気迫る様子であった。「甘い甘い、からだの隅々まで果汁が染みている」と人間を食らう裸の男女は喜んでおり、果汁のような血を全身に浴びて赤く滴らせた姿は、木陰に隠れる二人に鬼を想起させたが、その二人は正しく人間であった。彼女は怯え震えている、しかし声を漏らさないように両の手で口を塞いでじっと恐怖が吐き出されないように耐えている様子であった。彼はそんな彼女に気付きもせず、胸の中で火打ち石がカッカッと火花を散らすような疼きを感じ、人を食う裸の男女の様子を食い入るように見ている。むしゃぶりつくように骨まで残さず食う裸の男女に何か誠実さすら感じているようだった。

 やがて裸の男女は大人たち全員を平らげてしまうと、中央の木の根本で立ちながら抱き合って「我らが母よ、種子を受け取り給え」と言って、尻から糞放りぼたぼたと足元に次々と落としていく。木を中心に並ぶ二人の男女の尻からは次第に勢いを増し滂沱と神の涙の如くほとばしり、糞は木の根元に降り注がれる。彼女はただ震えるばかりだが、彼はそのプリミティブな様子に魅了されたようにカッと目を見開き、爛々と妖しい輝きを放つ両目で仔細漏らさぬよう眺めている。裸の男女がたった二人の量とは思えぬ糞をやがてひり終わると、それは地面で渦巻くように混ざって、地を張る根にまるで乾いた土が水を吸うようにすうっと溶け込んで行く。それでもまだこんもりと盛られた糞に裸の男女は両の手を差し込むと、体をくねらせながら木に文字のようなものを書いてゆく。「純粋な火と水の精神によって月の白い水よ実を成せ実を成せ。子のために循環のために」裸の男女は尻も拭かずに跪くとそっと木に寄り添うように身を擦り付けると両手でその木肌を撫でながら、耳を付けてなにかを聞こうとしているようだった。その様子を固唾を飲んで見守っていると、ドクンドクンとかすかに鼓動のような音が二人の耳に届いたように感ぜられた。彼はそっと足元へ手の平を伸ばすと、鼓動は中央の木を中心に地面を伝って小さな振動を起こしながら、周囲の木々へと伝っていくようである。すると、遠くの梨の木だろうか、枝がみるみるうちに変化していき、木の形そのものが変わり果て、タイムスケイプで見るような速さで果実が成長していく。それは通常の梨の大きさをみるみるうちに追い越して、どんどん巨大に生っていく。ところがその途中から突起物が生えるように異様な形に変化して大きくなってき、最終的には人の姿のようなものが出来上がった。果樹園の木々はそれぞれの独立した植物ではなく、全て中央にある名のない大きな木の一部であることが伺われた。二人が驚いて見ていると、彼らのすぐ脇でも実が成り始めていた。それに気付いた彼女は恐る恐るそちらを指差し、彼の注意を促した。二人が見ているとその木は身を捩るように変形していき、桃のような果実はやはり、奇妙に形を変えて成長して、最終的には人の形となった。その果実の肌艶はまるで若々しい人間そっくりで、よくよく見れば姿は先程食われた大人の一人に違いなかった。実は自重に耐えられず地面に落ちるとパッと目を開けて、中央の木に向かって歩いていった。その数は明らかに最初の六人を超えていて、ざっと二倍以上になっていた。しかし、そのうちの半数以上は人間の出来損ないのような姿格好をしていた。快活な動きをする完璧な人間の姿である六人は先程脱いだ服を着て、裸の女に連れられて園の奥へと消えていった。残った裸の男は余った果実たちを一箇所にまとめるといつの間にか用意していたミキサーの中に突っ込んで行く。果実たちは逃げることなくその順番を待っていて、やがて全てが白く濁った赤いジュースへと変わった。男は作業が終わると何を感じたのか睥睨してから肩を竦め、まっすぐに二人の方に歩いてくる。彼女はまるで壊れた自動人形のようにがたがたと震えて彼の手を強く握っている。その力が強くて彼の指先は赤く鬱血している。裸の男の尻からは甘い匂いがしていた。男はじろりと二人を見ると何もせずに「物の材料と実体は不滅であるがゆえに」と言った、そして「様々な瞬間に、連続して、及び交替で、万人及び万物は、万物及び万人となる。ジョルダーノ・ブルーノの言葉だ」と続けると、二人の頭を撫でて「大人になってからまた来なさい」と優しく囁いた。彼女はその言葉と様子に理性的な人間の姿を見て、頭から伝って来る温かい優しさに、もう怯えて震えることすら忘れていた。彼は勇気を奮って「あの服を着た果実たちはどうなるの」と聞くと、「水銀の処女の母から回帰した彼らの記憶は、戻るまでに時間を要する。故に少しの間園の施設で生活をする」と答えが帰ってきた。そして、もう何も言うことはないといった態度で果樹園の門の方へ指差すと、ぷいと後ろを向いて木々の奥へと消えて行った。頭にべったりと血のついた彼女の目からはもう恐怖が消えて、何か欲望のようなものが膨らんだ仄暗い光を湛えていた。

 夜も半ばに帰ってきたから両親は「寄り道するなら連絡をしなさい」と叱ったが、その言葉の裏には安心が見えていて、彼は温かい気持ちになった。果樹園で見たことは言わなかったし、両親も何をしていたかは聞かなかった。或いは彼のその頭に残る血の甘い匂いから察したのかはわからない。両親はまだ食事を取っていなかったからすぐに用意をすると言って、母親は台所へ引っ込んで行った。彼は埋め合わせをするように「手伝うよ」と言って後に続いた。彼がじゃがいもの皮を剥いていると、母親が「痛ッ」と手を引っ込めた。包丁で指を切ってしまったらしく、血がまな板と床にポタポタと垂れている「絆創膏を取ってくるわね」と言ってバタバタと向こうに行ってしまった。彼は床に這いつくばって、その血を舌先で拭った。すると得も言われぬほど甘く美味で、彼は床やまな板を夢中で舐め回した。そして「彼女は一体どんな味がするのだろう」と思った。食後、彼は彼女に「大人になったら一緒に行こう」とメッセージを送った。程なくして「うん」というただ一言の返事が来た。果樹園の仄かに甘い匂いが鼻の奥に残響していた。

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