Extra story Ⅱ

「では、伊織くんの第一志望合格を祝して、かんぱーい!」

「おめでとう、やったな」

「ありがとうございます」


 一花の元気な音頭に合わせて、松岡がグラスを上げ、伊織は二人に頭を下げた。


 今日、伊織の大学受験の合格発表があった。

 伊織は常に成績上位だったし、模試もA判定が続いていたから心配はしていなかったが、それでも実際に『合格』の文字を見た時は心の底から喜びが溢れた。

 そして以前から予定していた通り、松岡の奢りで合格祝いの席となったのだった。


「これでお前は俺の後輩だな」

「失敗しましたよ……松岡さんがT大出身だなんて……」

「まあこの業界多いんだよ。この先あちこちで先輩に遭遇するだろうからあきらめろ」

「はい……」


 伊織は笑いながら松岡に頷く。これから出会うだろう先輩たちに対して不安はない。夢に一歩近づけた喜びのほうが松岡への鬱陶しさを上回った。


「四年間がっちり勉強してとっとと司法試験合格しろよ。じゃなきゃこいつとの結婚は許さんからな」

「けっ?! け、け、けけっ……」


 松岡の伊織への提案に一花が誰より動揺する。なんてこと言うんだ! と慌てたが、伊織は少しも動じない。


「何で松岡さんが決めるんですか。それを言うなら文哉おじさんでしょ」

「俺も一応親父なんだよ。まだ父親とは呼んでもらえてないけどな」


 伊織は、へえ、とつぶやいて一花を見る。同時に松岡も何かを期待するような目で一花を見た。二人から注目されて、一花は食事どころではなくなった。


「だ、だって、今更なんて言えばいいのか……」

「パパ? お父さん? お父様ってガラじゃないしなぁ、二人とも」

「どれでもいいぞ、呼んでくれるのか?」


 一花は更にテンパる。松岡が実の父親だということを拒否するつもりはない。むしろ全く知らない人が父親だと言われるよりはずっと良かったと思っている。けれど改まって呼び方を変えるのか、というと、それもまた気恥ずかしい。


「パ……、パ、パ……」

「……分かった、無理しなくていい」

「ち、違うの! 無理とかじゃなくて……」


 一花は一呼吸おいて松岡に向き直る。


「パパは……やっぱり一人だから。私のパパは、パパなの」


 なぜか一花は泣きそうな顔でそう告げる。育ての親で戸籍上の父、千堂文哉のことだ。血がつながらない父娘だと分かっても、一花にとって大きな存在であることは変わらないのだろう。松岡にはその気持ちはよくわかるし否定するつもりも割って入るつもりもない。何より文哉自身が松岡の立場を尊重してくれている。


「分かってるさ。ちょっとからかい過ぎたな、すまん」

「で、でもね、松岡さんが本当のお父さんで良かったって思ってるよ。だからそれは誤解しないでね?」


 上目づかいでお願いされれば松岡に為すすべはない。目尻を限界まで下げながらうんうんと頷く。


「俺の前で二人でいちゃつくの止めてくれませんか」

「いちゃついてっ?! そんなんじゃないじゃん!」

「いいよなお前、親父さんが二人もいて」


 大きなエビが入った点心に食いつきながらつぶやく伊織に、一花と松岡は顔を見合わせる。


「お前だって二人いるじゃないか」


 伊織は飲み込みかけたエビを詰まらせて、ぐっ、と呻く。そして自分を落ち着かせて嚥下し終わると、涙目になりながら松岡を睨む。


「俺にとって父親は一人です」

「でもお前が一花と結婚したら義理の父親でもあるんだぞ。お前たち二人が仲違いしていて一番辛いのは誰だろうな」


 伊織はハッとして息を飲む。そして一花を見る。一花はぶんぶん首を振った。


「わ、私のことは気にしないで。だって、伊織くんの事情は私とは全然違うし……」

「そうだよな、ごめん……」


 松岡は、内緒だぞ、と言って新しいグラスに半分ビールを注いで伊織に渡す。


「俺が言えた義理じゃねえけどな、無理に許す必要もないが、無理に憎む必要もないんだぞ。その時その時で自分が本当にしたいことは何か、をしっかり考えろ」


 伊織は黙ってグラスの中身を飲み干す。今までも何度か口にしたことがあるビールが、今日は殊の外苦かった。だがそれが今の伊織の気分にひどく相応しく感じて、なるほど酒を飲むとはこういうことなのか、と納得した。

 そしてポケットからスマホを取り出し、一枚の写真を表示する。


「俺なんかより、もっと大事な人を守れるようにならなきゃダメですよね」


 伊織が見ている画面を、一花と松岡が横から覗き込む。そこには赤ん坊を抱えて微笑む桐子が写っていた。


「え、これって……おばちゃん?」

「この赤ん坊……」

「俺の、妹です」


◇◆◇


 昨春に桐子と広瀬がロンドンへ移住し、その冬が来る前に桐子は女の子を出産した。伊織を生んでから大分経っているので母体への負担を広瀬は心配したが、現地の医師が驚くほどの安産だった。


 生まれたばかりの赤ん坊を見ながら、気づけば広瀬はボロボロ涙を流していた。桐子はその手をしっかり握る。


「ありがとう、あなた」

「僕のほうこそ……嬉しいよ、本当に。ありがとう」


 まだ目もあいていない新生児が、一生懸命手足を動かす。看護師から『ママを探しているのよ』と言われて、桐子は赤ん坊を抱き上げる。乳房に吸い付く小さな顔が愛おしくてたまらなかった。


「名前、決めなきゃね。あなたがつけて欲しいな」


 おっかなびっくり赤ん坊に触れようとする広瀬に、桐子が問いかける。広瀬は少し考えてから、ずっと考えていた名前を告げた。桐子は満面の笑みで頷いて同意する。


「いいわね、この子にぴったりな名前ね」


 その時通りかかった看護師から『パパも抱っこしなさいよ!』と励まされて、広瀬は小さな体を持ち上げる。まだ三キロにも満たない軽くて儚げな生まれたばかりの娘が、どんなものよりも大きな存在に見えた。


◇◆◇


「つむぎ、だそうです」


 伊織は父から聞いた妹の名を二人に伝える。


「つむぎ?」

「うん。糸をつむぐ、の、つむぎ」


 伊織は糸へんの漢字を中空に指で書いた。


「バラバラになってる俺たち家族を、つむぎが一つにしてくれる、って。親父が考えたそうです」


 その名前も、由来も、この写真も、送ってくれたのは全て広瀬だった。日本を発ってから母桐子から伊織に直接何か連絡が来ることはない。伊織からも一度も連絡していない。ただ折に触れて送られてくる国際便の小包には、母しか知らない伊織の好物がぎゅうぎゅう詰めになっている。

 母と伯父の所業を知ってからほとんどまともに会話もしないままロンドンと東京に別れてしまった。それでも母は今も自分を大事に思ってくれている、そして自分の気持ちを尊重してくれているからこそ何も言ってこないのだ、と分かって、伊織は嬉しい反面辛かった。


「会いたいか」


 誰に、とはあえて言わず、松岡が問いかけてきた。伊織は自分で何度も繰り返したその質問をもう一度考える。だがやはり明確な答えは出ない。


「正直、前と同じように、っていうのは無理です。まだ……」

「分かってるさ。言っただろ、無理に許す必要はないってな」


 伊織は黙って頷いた。その頭を松岡がぐりぐり撫でた。


◇◆◇


 しつこく『送る』と言い張る松岡から一花を奪い取って、伊織と一花の二人は手をつないで家路をたどる。


「可愛いね、つむぎちゃん。伊織くんに似てる気がする」

「なんであんな写真で分かるんだよ。まだ分かんないじゃん」

「分かるよ。きっと似てる。女の子だから美人になるね」


 おばちゃんに似たら可愛いだろうなー、と、ごく普通に母の名を出す一花に、伊織は少し感謝していた。知らずに一花の手を握る力が強くなる。それに応えるように一花も握り返した。


「前から思ってたんだけどさ、どうしておじちゃんはおばちゃんを許せたんだろね」


 伊織は夜空を見上げながら頷いた。それは伊織もずっと感じていた疑問だった。

 自分はいまだにわだかまりがある。母は被害者だ、という見方にも同意するが、それでも伯父と一緒に父を傷つけたことは許せなかったし、何より自分自身が近親婚の結果生まれた人間だ、ということを、今でも完全に受け容れられているとは言い難かった。


「親父は……多分、まだ許してはいないと思う」

「……そうなの?」

「でも、いつか許せるって思ってるんじゃないかな。だから離婚じゃなくて伯父さんと絶縁させるほうを選んだんだと思う」


 なるほど、と、一花は頷いた。

 伊織は、父が取ったような代償を、自分は何に求めればいいのか、ずっと考えて、そしてまだ見つけていなかった。


「難しいね、人のこころって」


 普段の一花らしからぬ大人びた発言に驚いて、伊織は隣を見る。そしてそこに、自分の答えがあったことに気づいた。思わず抱きしめたくなる衝動を抑えて明るい口調に切り替える。


「ていうかさ、お前、なんであの時あんなにきょどったの?」

「きょどった? 私が?」

「松岡さんが、俺との結婚を許さんって言ったとき」


 一花は再び顔を真っ赤にし、伊織とつないでいた手も振り払ってぱたぱたする。


「だ、だって、あんな話題いきなり出てきたらびっくりするじゃん!」

「なんでだよ」

「な、なんで、って……」

「俺、前に言ったよな、結婚しようって」

「い、い、言った、けど……、でも電話だったし……」

「電話だから本気にしてないとか?」

「そんなことない! だけど、でも結婚なんてずっと先のことだし」

「なんでだよ」

「え、ええ? だって私たちまだ高校生だよ?!」

「別に十八になったら出来るじゃん」

「だけどーーー」

「そっか、言葉だけだから信じてないんだな。指輪か? じゃあ明日買いに行くか」

「そ、そういうことじゃ」


 物が欲しくて駄々をこねたと誤解された、と思った一花は焦って抗議しようとしたが、伊織に抱きしめられてそのまま深く口づけされ、もう何も言い返せなくなった。


 華奢な一花を抱きしめながら、伊織は今さっき見つけた答えを繰り返す。


(俺も、自分だけの家族が出来たら、きっとママを許せるかもしれない……)


 もしそんな日が来たら自分から三人に会いに行こう、と、一人胸の内で決意したのだった。

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