番外編

Extra story Ⅰ

 今日、一花は学校帰りに、真っすぐ家に帰らずに植田の劇団の事務所前に来ていた。

 一人で、または剣に連れられて何度か来たことがある。中に入って団員の稽古を見学したり、一緒に発声練習をさせてもらったこともある。団長の植田も気さくな人柄で、すぐに緊張しないで話せるようになった。

 だが中々入ることが出来ず、かといって入り口でた佇み続けるのも不審で、ビルの入り口と駅の改札を行ったり来たりしてすでに三十分が経過していた。


 今日寄り道することを父には伝えていない。一花の父の千堂文哉は千堂家の財産管理をする会社の社長のため、特別な予定でもなければ夜も七時くらいには帰宅する。いつもはそのタイミングに合わせて一花が夕食を作る。それを考えればとっとと用事を済ませなければいけない。


 だが決心はつかない。

 それもそのはずだった。一花は今、自分の将来を、つまり人生を決定づけるような行動を前にしているからだった。


(今日来るって、誰にも言ってないし……、このことはまだパパにも伊織くんにも話してないし……、そ、そうだよね、一人で勝手に決めちゃだめだよね。また……今度にしよう、かな……)


 緊張しすぎて怖気づいた一花は、心の中で自分に対して言い訳しながらそっと踵を返した。と、その時、誰かと正面からぶつかって派手に道に転がってしまった。


「ご、ごめん! 大丈夫?」

「い、いえ、私こそ、ボーっとしてて……」


 ぶつかった相手が謝ってくるのを、一花は自分の不注意だからと謝り返す。が、相手が、あれ? とこちらを覗き込んだ。


「なんだ、一花ちゃんじゃないか」

「……た、田咲さん……」


 一花がぶつかった相手は、劇団のホープの田咲剣だった。


◇◆◇


 剣と会ってしまえば逃げるわけには行かない。どうぞどうぞ、と手を引かれるままビルに入る。丁度稽古の休憩時間に入ったタイミングだったようで、廊下はがやがやと賑やかだった。


「おつかれっすー」

「おう、剣、遅いぞ」

「すんません、撮影が延びちゃって……、あ、団長います?」

「おーい、だんちょー、剣が呼んでますよー」


 ベテランらしい劇団員が稽古場の中へ向かって叫ぶ。剣と手をつないでいなければ、一花は走って逃げたかもしれない。でもそんなことは当然出来なかった。


「俺を呼び出すたぁ、お前随分偉くなったもんだな」


 植田がダミ声と共に姿を現す。その軽口には反応せず、剣が一花を前に押し出した。


「丁度一花ちゃんに会ったんで。団長に用があったんでしょ?」


 至極当然のようにそう確認する剣に、もう一花は観念して頷いた。植田は途端に嬉しそうにニコニコし、奥の事務所を示した。


「なんだ、そっか。じゃあ少し休憩伸ばすか。こっちおいで一花ちゃん、ケーキあるぞ。ジュースがいい? 紅茶かな?」


 相好を崩す植田に、団長キモ、という声があちこちから聞こえる。一花はぶんぶんと首を縦に振りながら植田と一緒に事務所に入って、ソファに腰を下ろした。

 植田はケーキとジュースを用意して、自分は事務机とセットの椅子に座り一花のほうを向いた。


「どうしたんだ、何かあったのか?」

「えっと……、その、なんていうか……、今は団長さんにしか相談出来ないっていうか……」


 植田は少し考えて頷いた。

 おそらく演劇関係の何かだろう、と。

 一花は高校の演劇部に入っている。以前は叔母の香坂桐子に相談していたが、今は事情によりほぼ絶縁状態らしい。一花にとっては親戚で同性の桐子のほうが何かと相談しやすいのだろうが、今はそれが出来ないために苦肉の策でここへ来たのだと分かった。


「部活でなんかあったのか?」

「いえ、その……、その、私……」


 もじもじしていた一花が、よし! と自分で気合を入れると、急に立ち上がって植田に二つ折りになって頭を下げた。


「私、役者になりたいんです! どうしたらなれるか教えてください!」


(言っちゃった……)


 一花は自分で自分に驚きつつも、突然未来がパァっと明るく光り出したように感じた。


◇◆◇


 玄関が開いて足音が近づくのが分かる。一花はエプロンをつけたままぱたぱたとキッチンから走り出た。


「パパ、おかえり~」

「ただいま」


 父・文哉の帰宅をねぎらう。以前は大好きではあるがどこか壁を感じさせていた父が、あの一件以来急に身近に感じられるようになった。実際は実の父親ではないことが発覚した事件だったのに、逆に今までより遠慮がなくなったのは不思議な話だと思っている。


「初物が売ってたから筍ご飯にしたの」

「お、だからいい匂いなのか。着替えてくるからちょっと待っててくれ」


 文哉は得意げに笑う一花の頭を撫でると、カバンを持って二階の自室へ向かった。

 一日の疲れも、一花の顔を見ると吹っ飛ぶ気がした。




 食事を進めながら、一花が普段より饒舌な気がした。そうした変化に文哉は敏感な質だった。

 もしかして何かあったのか。学校で? 部活で? まさか伊織と? などと色々想定してみるが、娘とはいえ高校生になったのだからある程度は本人に任せるべきか、と思うと自分から切り出すこともためらわれた。

 しかしこのまま『ごちそうさま』になると、それはそれで気になってしまいそうでもあった。


「そうだ、パパ、お隣さんからイチゴもらったの。食べる?」


 自分の食事も終わっていないのに、落ち着かない様子で立ち上がり冷蔵庫へ向かおうとするのを文哉が止めた。


「どうした、今日は落ち着かないな。デザートはお前が食べ終わってからでいいんだぞ」

「あ、うん、そうだね……」


 そして自分の席へ戻った一花は、先ほどまでのお喋りはどうした、というくらい今度は静かになり、箸も止まった。これはやはりちゃんと聞くべきだろうと文哉は判断し、自分も持っていたグラスを置く。


「何かあったのか? 俺でいいなら話聞くぞ」

「うん……」

「お小遣いが足らないのか?」

「ち、違うよ、それは全然大丈夫。てかあまり使わないし」


 それもそうだろう、と文哉も納得する。恋人の伊織も小遣いは十分もらっている身だし、一花は学校と部活だけでも忙しい。それに自分には言わないが、実父である松岡がしょっちゅう理由を作っては一花に贈り物や小遣いを押し付けているらしい。戸籍上の親子でしかない自分が口を出す話ではない、と思っているが、限度を超えるようなら苦情を入れようかと悩むくらいだった。


「あのね、パパ。私今日、おばちゃんが脚本書いてた劇団に行って来たの」


 唐突に出てきた桐子の名に、文哉の全身の血が逆流しそうになった。一花を動揺させたくなくて必死で堪えたが、敏い一花には何かしら伝わってしまったかもしれない。


「……何か用事があったのか?」

「あのね、私、……将来役者になりたい」


 思ってもいなかった一花の発言に、今度は正真正銘驚いた文哉は目も口も開いて無言で見つめ返してしまった。その顔を見て一花が吹き出す。


「どしたのパパ、埴輪みたいな顔になってる」

「あ、いや、すまない……。役者?」

「うん、少し前から考えてて……今日、団長さんにお願いしに行って来た」


 一花は植田と交わした会話を思い出しながら、文哉に伝えた。


◇◆◇


「役者? 一花ちゃんが?」

「はいっ!」

「そうか、いいんじゃないか」

「……え?」


 そういうと、植田はにこにこして自分のカップから麦茶を飲んだ。


「いいんじゃないか、って……」

「学校で演劇部に入ってるんだよな。それで面白くなった?」

「はい」

「うんうん、いいよな、そういうの。頑張れ! 応援するぞ」

「えっと……、私になれるかなぁ、って思ってるんですが」

「やってみるしかないだろ、そんなのは」


 植田は相変わらずにこやかな表情だが、目つきが変わった気がした。


「何もしないうちからなれるかなれないかを考えたって仕方ない。剣が役者になったいきさつ知ってるか?」

「少しだけ聞きました」

「うん。あいつは一花ちゃんより経験も知識もない状態で、道場破りみたいにうちに押しかけて来た。最初はまともに声も出ないし、台本の漢字も読めないし酷かったよ。でも今じゃうちの看板で、全国区のスターになっちまった」

「はい」


 一花は緊張半分、嬉しさ半分で頷いた。一花も剣のファンだったからだ。


「あいつは最初の動機は不純だったけどな。でも今もまだ踏ん張ってるところを見ると、本気で役者やってく覚悟が出来たんだろ。そういうもんだと、俺も思う」

「そういう、もん?」

「やってくうちに分かってくるんだ。だから一花ちゃんも、今の時点で決めなくていい。やりたいことをやれ。演劇部で出来ること全部やれ。それだけで物足りなかったらうちに来い。裏方でも稽古でも体力づくりでも何でもやらせてやる。子役が足らない時は出演してもらってもいいしな」

「子役って……」

「あはは、悪い悪い。けど、俺は応援するよ、一花ちゃんが本気でやりたいならな」


 一花は植田の言葉を最初からもう一度心の中で反芻する。そしてやっと、すとん、とどこかに落ちた気がして、大きく頷いた。


「はい! 私、がんばります!」

「おう、頑張れ!」

「はい! 主役は大変だけど頑張ります!」

「ん? 主役?」


 植田の問い返しに、一花はハッと自分の口を押えた。


◇◆◇


「主役、って……」

「今度、都内の高校演劇部のコンクールがあって、それにうちの高校が参加することになったの。で、私が主役、ってことで……」

「すごいじゃないか、何で黙ってたんだ」

「だ、だって、私だよ? 主役だよ? ジュリエットってガラじゃないもん!」


 両手と、何故か足までパタパタさせながら否定しようとする一花を、文哉は微笑まし気に見つめる。


「でも、部長が、千堂さんなら、って言ってくれて、加奈もめっちゃ応援してくれるし……。やってみようって思って。で、色々考えているうちに、将来演劇に携わる仕事が出来たらな、って思って、どうせなら役者かな、って」

「それで、今日行って来たのか」


 うん、と一花が頷いた。


「お前には無理だ、って言われたらどうしようとか色々考えて、本当は中に入らないで帰っちゃおうかとも思ったんだけどね。でも、話せてよかった」


 そうか、と頷きつつ、文哉は一花の成長が嬉しい反面、一番に聞かせてもらえなかった寂しさもかみしめていた。


「でも団長さんに怒られちゃった。誰にも相談してない、って言ったら」

「誰にも?」

「うん。なんか、誰かに言って、無理だろって言われたら、今回の主役も出来なくなりそうで怖くて。加奈にも伊織くんにも言ってない」


 だからね、と言いながら、一花は立ち上がって文哉の隣の椅子に座る。


「だったら、パパに最初に言いたかった。パパなら応援してくれるかなって思って」

「……もちろん、応援する。頑張れ、一花」

「うんっ! パパありがとう!」


 子どものように飛びついてきた一花を抱きとめながら、心の中で松岡に対して『勝った』と思ったことは、文哉だけの秘密である。

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