第302話 -終-
桐子は一人で植田の劇団を訪れていた。
年末公演は無事成功した。結局桐子は一度も観ることが出来なかったことが、少し心残りだった。
広瀬と一緒にロンドンへ移住すること、今後は脚本家業から退くことを伝えると、植田は何かを心得ているような顔で何度も頷いた。
「そっか……。残念だけど、お前が決めたことなら、仕方ないな」
「散々お世話になったのに、申し訳ありません」
「それはこっちもだ。これまでありがとうな。お前が書いてくれた作品はうちの財産だ。再演含めて、活用させてもらうよ」
桐子は笑顔で頷いた。ほんの少しでも、自分が正の財産を残せたことが嬉しかった。
「あいつ……剣には、話したのか」
「彼は……もう全部知っていますので」
「テレビドラマのほうは?」
「脚本は全部仕上げて渡してあります。家庭の事情ということで、当初言われていた番宣活動には参加しないことで納得いただきました。あとは……他の皆さんにお任せします」
「なんかお前、変わったな」
突然関係なさそうなことを言われて、桐子は驚く。
「なんか、人間に見えるよ」
「……え?」
「時々、お前は精巧に作られた人形なんじゃないかって思うことがあったよ。でも今は、ちゃんと血が通ってる顔してるよ」
桐子は思わず自分の顔に手をやる。だが植田に、顔は変わってねえよ、と笑われて手を引っ込めた。
「ちっと遠くなるけど、元気で頑張れ。万が一うちがロンドン公演出来るほど出世したら見に来てくれや」
ポン、と肩を叩かれ、桐子はもう一度笑顔で頭を下げ、稽古場を後にした。
◇◆◇
予定よりひと月ほど遅れて、広瀬と桐子が出立する日が来た。
空港へ向かうタクシーの窓から、早い蝋梅の花が見えた。
見送りのため、伊織と一花がターミナルまでついてきた。
「じゃあ、元気で」
「お前もたまには遊びにおいで」
「えー、だって遠いじゃん、俺、これでも受験生だよ?」
「伊織くん、今よりガリ勉するつもり?」
名残惜し気に言葉を交わす広瀬たちを、桐子は一歩引いて眺めていた。
ふと、桐子のスマホが鳴る。取り出すと、環からだった。
叱責と、励ましと、茶化しに溢れた環らしい文面に、桐子は微笑む。
散々心配をかけて、何度も怒られて、でも絶対に桐子を見捨てなかった、たった一人の友人。
ああ、そうか。そうだった。
桐子の愚かな素顔を見ても離れていかなかった人は、ここにもいたのだ。
それに気づかずに、環に甘えてばかりで、ちっとも言うことを聞かなかった。
その結果として彼女が忠告していた未来を迎えることになった。でも、こうして勇気づけてくれた。
本当に自分は、何も分かっていなかったのだ、と、もう何回目か分からない反省を繰り返す。
「どうしたの?」
広瀬が桐子に声をかける。環がね、と言いかけたところでアナウンスが入った。
『皆様、日本航空ロンドンヒースロー空港行き358便は搭乗を開始いたします』
「あ、もう行かなきゃ」
広瀬の言葉に、三人が頷いた。
手を振って、広瀬と桐子は日本を後にした。
◇◆◇
ベルト着用ランプが消え、機内がにぎやかに動き始める。
窓際の席の桐子は外を見るが、すでに雲の上のため地上をうかがい知ることは出来ない。
「お飲み物は如何ですか?」
キャビンアテンダントがにこやかに話しかけてくる。桐子はオレンジジュースを、広瀬はミネラルウォーターをリクエストした。
飲み物を受け取り終わった後、広瀬がキャビンアテンダントに声をかける。
「すみませんが、これ、捨てておいてもらえますか?」
広瀬が手渡したのは、桐子が千堂本家の、亡き母の私室から持ち出した、あの小瓶だった。
桐子は声にならない悲鳴をあげそうになったが、広瀬がその手を握り返す。
「かしこまりました」
キャビンアテンダントは受け取ってカートの最下部へ仕舞い、後方の座席へ移動していく。
「大丈夫だよ」
広瀬はもう一度、桐子の手を握った。
「君があれを使う日が来るんじゃないかって、ずっとひやひやしていた。でも、僕がこっそり持ち出していたことも気づいていなかった、ということは、一度も考えなかった、って、そういうことだよね?」
「どうして……知ってたの?」
小瓶の中身は、母・志津子が隠し持っていた毒薬だった。
「君が考えそうなことくらい想像がつく。本当は、もっと早くに捨ててしまおうかと思ったんだけどね。君を試した。……ごめんね」
桐子は、小さく首を振った。
「もうこれから先は隠し事は出来ないよ。……もう、無いよね?」
おどけたように、しかし半分は不安げな目で覗き込んでくる広瀬に、桐子はくすりと笑う。一気に広瀬の顔に不安が広がるのを見て、桐子は笑った。
「え、ちょっと待って、まさかまだ……」
「ううん、違うの。まだ確認してないけどね」
桐子は最後の秘密を、広瀬に耳打ちした。
広瀬はこれまでで一番驚いて、そして喜んで桐子を抱きしめた。
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