第301話
「もう、体のほうはいいのか?」
「お蔭様で。過労に気を付けるよう医師から指導がありましたが、僕には当てはまらないかなって」
文哉は表情を変えず、静かに何かを待っていた。
「前置きはいいですよね。本題だけ。桐子とは離婚しないことになりました」
「どうして……」
「桐子は離婚したかったでしょう。でも、だからです」
「だが」
「勘違いしないでいただきたい。これが僕なりのあなた達への報復です」
広瀬はじっと文哉を見返した。
「桐子はあなたにすがって生きてきた。それ自体は当然だと思います。今もきっと……彼女が一番頼りにしているのはあなただ」
耐え難い感情を、両手を握りしめることで堪える。
「でも、だからこそあなたと桐子を引き離さなければいけない。あなたのそばにいる限り、桐子は子どもの頃からの可哀そうな娘のまま、生きていかなければいけない」
桐子の悲鳴が耳から離れない。自分で自分が大嫌いだと。
「あなたと決別して、一からやり直させます。そのために、桐子が僕から離れられないように、僕に逆らえないように、自由を奪って縛り付けることにしました。鎖なんて必要ない、桐子は甘やかしてくれる人が必要なんです。我儘を言っても嫌わない、見下さない、怒らない人がね。今まで僕は……そういう存在になれていなかった。桐子と、あなたへの遠慮がそれを許さなかった。でももう、止めます」
もう一度文哉に向き直った。
「来年、予定通り桐子を連れてロンドンへ行きます。そしてもう帰ってくることはないでしょう。伊織は、一花ちゃんのそばにいたいらしいので、日本に置いていきます」
ホッとしたように微かに頬を緩ませた文哉に、広瀬は続けた。
「そして桐子には、あなたとの絶縁を求めました。あなたも、受け入れてください」
文哉は顔をこわばらせた。
「もう二度とあなたに会わせません。直接連絡を取ることも控えてください。もし千堂家関連で何かある時は、必ず僕を通してください。……桐子の人生から、あなたを抹消します」
そして鞄の中から一通の文書を取り出した。
「念書です。破った場合に損害賠償を請求したところで、あなたには意味がない。だからその時は、ストーカーとして警察に通報します。桐子の名で」
文哉は文書をじっと見つめる。
頭の中では、桐子が生まれた時からの様々な思い出が駆け巡る。そうか、これが走馬灯なのか、じゃあ自分は死ぬのだろうか、などと考えて、苦笑が漏れた。
この期に及んで桐子を手放したくない、あわよくば自分の手元に、と考えていたらしい本心に嫌気がさした。
どれくらいそうしていただろうか。文哉は静かに立ち上がり、印鑑とペンを持ってきて、サインと捺印をして広瀬に返した。広瀬は確認をして、一通を仕舞う。
「……そちらも、色々大変だと思いますが、頑張ってください」
「ああ……」
「では、お元気で」
広瀬は静かに席を立って、部屋から出ていった。
文哉はしばらく、その場から動くことが出来なかった。
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