13

 今日はついに商談当日だ。

 験担ぎに新しいネクタイも買った。


「多辺さん。今朝は猿が出没したとかで、あの辺一帯が通行規制されているっぽいっスから国道は避けたほうがいいかもですよ」

「ありがと。折原、行くわよ」


 エレベーターが到着するのを待つ間、俺と多辺はなにを話すでもなく、ぼんやりと並んで佇んだ。


「俺、あいつらに煙たがられているんじゃないかな」

「あいつらって?」

「オフィスの全員。本社の奴らもさ……」


 はあ、と多辺が盛大に溜息を吐く。


「嫌ってなんかいないわ。自信を持って、堂々としていなさいよ」


 ぱしっと俺の背中を叩き、エレベーターに乗り込む。

 点灯するランプがだんだん地上階へ向かうのにつれ、俺の心は凪いでいき、両脚にしっかり力が入った。

 昨日からずっとヒカリの電話診療の内容が耳にこびりついていたのだが、徐々に剥がれ落ちつつあった。

 たしかに三年前の冬、小学生の女の子を助けたことがある。あの日俺がすっぽかした商談は他社に契約を取られ、八洲課長のいやがらせはますますひどくなった。

 だが彼女があのときの少女だなんてありえない話だ。三年前ならヒカリは十六歳。あのエピソードは、恐らく八洲課長から聞いて、妄想を膨らませ、物語に取り入れたのだろう。

 彼女の本当の過去に何があったのか、なぜ順番に固執するのか、どういう経緯で八洲課長と付き合ったのか……殺したとはどういう意味か……、いつから妄想世界の住人になってしまったのか――知る由もない。

 しかし彼女の中で、俺の存在が「子どもの頃に助けてくれた優しいヒーロー」になっている点は悪い気がしなかった。彼女は病人だ。浮気を責めても哀れなだけだ。もしかしたらヒカリの中では浮気をしているつもりも、罪の意識すらもないのかもしれない。彼女の自己認識は十歳の子どもで……俺に恩返しをしているつもりで……だとしたら俺は彼女にひどいことを……連絡先も消してしまって傷ついているかも……ああ……ばか。ばか野郎。またそうやって、自分の都合のいい部分をつぎはぎしようとして。いい加減にしないか。

 彼女の創世した世界は、俺にとっても心地よい場所だった。そこに彼女ひとり置き去りにするのか? ああ、そうだよ。〈津木野ヒカリの理解者〉の役目は俺じゃない。俺は――しっかり地に足を着けて生きよう。


「昨日、あれから八洲課長のことが気になって本社の知り合いに尋ねたんだけど、彼、退職直後からずっと音信不通なんですって」

「へえ。それはそうと、多辺。さっきは励ましてくれてありがとう」

「べつに励ましたつもりじゃないわ」


 多辺は照れ臭そうに目を逸らし、助手席のドアを閉めた。

 ラジオからは誰かがリクエストをしたクラシック音楽が流れる。ドビュッシーだが月の光ではない。『亜麻色の髪の乙女』だ。やわらかな旋律。ピアノの音と音のわずかな隙間から「ふふっ……るんっ」とヒカリが笑い出しそうな錯覚を覚え、周波数を変えた。


『交通情報です。規制中の国道■号線は、■■方面から西に5kmの区間――』


 赤信号。

 キイ、キイ。


「相変わらずうるさいブレーキだな」

「そうね。……あの、折原。こんな大事な商談の前に言うことじゃないと思うんだけど」

「なんだよ?」

「あたし、あなたが好きなの」


 多辺の濡れた眸が、俺を捉える。


「最初に会った、無花果を拾ってくれたときから。ずっと」

「それは……気づかなった」

「これでも態度で示していたつもりなのよ」


 発進した車のフロントガラスが熱気で曇る。ああ、もう。ほんとうに、こんなときに言うことじゃないだろ。どんな顔をしたらいいんだ?

 多辺は同僚であり、ライバルでもある。

 素敵な女性だ。

 好きになってもいいだろうか?

 彼女は敵ではないだろうな?

 かつて敵は新人薬剤師に化けた。そのあとはハローワークの職員に、警備員。もしかしたら多辺も、そうだよ、俺が目撃したヒカリと八洲課長だって敵が化けていた姿ではないと、どうして言い切れるんだ?

 俺が順番を誤るよう誘導するために……津木野ヒカリから味方を奪うための策略だとしたら?


「あー、スッキリした。これでモヤモヤもなくなったし、ばっちし契約を決めようじゃないの!」

「おいおい。勝手にひとりでスッキリするなよ」

「だって返事はわかりきってるから。信号、青よ」


 からだが内側から煮え立った。

 やめろ、考えるのは。それは妄想だ。付き合っていた頃も薄々わかっていたじゃないか。ヒカリに好かれたいがために信じようと無理をしていたんじゃないか。

 俺は多辺を好きになるべきだ。彼女みたいに真っ直ぐで、健全で、嘘がなくて誠実な。

そしてヒカリのことはもっと――もっと強く――だめだ、忘れろ。彼女の話した設定そのものが嘘だったんだ。敵なんていない。順番を守る必要もなかったんだ。

 ぐ、と痛いほどハンドルを握る。


「いいの。返事は。恋人と別れたばかりで、そんな気分にはなれないでしょ? あたしの片思いだったのに何度もしつこく誘ったりして、ごめんなさい」

「俺こそ……」


 ……心のどこかで、君を信じきれなかった。


「俺は前の恋人が忘れられないんだ。今は、まだ……」

「……待ってもいい?」


 うなずいたとき、錆びた間接人形みたいにキイと首の骨が鳴った。

 俺はきっと彼女を好きになれる。そのときにようやく八洲課長から受けた傷も、津木野ヒカリに渡した心も、世界も、すべて取り戻せる。そんな予感がした。

 ラジオが耳障りにハウリングする。


『規制中の国道■号線は、■■方面から西に5kmの区間から、10kmに拡大されて、渋滞が発生しています。また、周辺住民には家から出ないよう指示が出されました。猿による被害は死者2名、負傷者56名。繰り返します。規制中の国道――』


「――参ったな。迂回して行こう」

「時間に余裕を持って出て来てよかったわね。SNSでも動画が拡散されているわ。新種の猿なんですって」

「新種?」

「顔が二つあったり、人間みたいに喋ったり……」

「そりゃ焦げつきはじめているのかもしれないな」

「焦げ?」


 多辺が訊き返した。


「ああ。正規の手順から大きく外れたレールは今に脱輪して、円は歪み、地球は低次元に落とされるんだ」


 やまびこのように声が車中に残留した。


「なに言ってんの?」


 ルージュを引いた多辺のくちびるが引き攣る。

 その怯えた表情に俺は我に返った。


 今、俺はなんと言った?


 恐ろしい。震えが止まらない。俺はまだ津木野ヒカリの創世した御伽噺から脱出してなどいなかったらしい。彼女の撒いた狂気が渦巻く。自分が発した叫び声が脳味噌にこだまして聞こえる。

 だめだ。これから大事な商談なのだから。成功させて、職場での信頼を取り戻して、多辺と付き合って幸福になると決めたばかりじゃないか。しっかりしろ。しっかりするんだ。

 ヒカリは戦況が悪化していると言った。やっぱり俺が見たヒカリと八洲課長は偽物だったんだ。くそっ、俺はまんまと敵の術中に嵌って、津木野ヒカリの言い分を虚言だと思い込み、彼女との約束を反故にして、順番を正すのをやめてしまった。だから彼女は今、焦げつきの恐怖に怯えながら独りで窮地に立たされている筈だ。俺だけが彼女を守れた筈なのに……ばかだよ……俺は、俺のせいで……違う!


「話は戻るんだけど、昨日見たのって八洲課長本人だったのかしら。あたしは面識がほとんどないから、ただの似た人だったのかも……ってだんだん自信がなくなってきたの。折原はどう思う?」

「知らない」

「折原?」

「知らないって。黙れよ!」

「ごめんなさい」


 ここでへまをしたら、一生自信が持てなくなる。いやだ。やめてくれ。俺は、俺の奪われたものを取り戻したいだけなんだ。

 仕事。

 成績。

 生活。

 貯蓄。

 自信。

 ――現実。

 なあ。俺を現実に戻してくれ。俺はまっとうな社会生活へ戻りたいんだ。ほんとうは天使も神様もいないんだろ? 敵だなんて嘘なんだろ? 君は普通の十九の女の子なんだろ?

 なあ。

 頼むよ。許してくれ、津木野ヒカリ。

 ……もう君のことは忘れたいんだ……忘れなければ………

 通りの向こうを四足歩行の動物がよたよたと駆けてゆき、その後から網を構えた警察官が「待てー!」と追いかける。

 取引先のビルはちょうどその並びにある。

 猿は街路樹を上り、ビルの看板を伝って信号機に飛び乗り、道路を渡って真っ直ぐに俺達のいる方向へと向かって来た。多辺がぎゃあっと身をよじった。

 猿は多辺に飛び掛かり、俺は、パソコンの入った鞄を思いっきり振りかざして、猿の頭を殴った。鈍い音と同時にぎいっと悲鳴をあげて道路にぺちゃっと落ちる。たいした重さではなかったはずだが、打ちどころがわるかったのか頭から血を流して猿は死んだ。


「大丈夫か、多辺」

「う、うん」


 その猿の右腕は、皮膚疾患なのか毛が抜け落ちてつるんとしており、まるで女性の細腕のようである。その脇の辺りから、三本目の腕がちょこんとぶら下がっていた。

 何かの病気に罹っているだけではないか? 背中には大きな瘤が盛り上がっていたが、うつ伏せになった人間の後頭部にも見える。

 もう一匹、別の猿が駆け寄って来た。仲間を悼むように鳴き、長い両手で顔を覆う。腕の付け根からは人間の顔が生えていた。男の顔だ。


「ぎいい。おりは、ぎいい」


 知った声が。

 見覚えのあるぎょろりとした両目で。

 こちらを見た。見た気がする。


「……この猿、折原を呼んでない?」

「まさか。空耳だろ。急ごう」


 ――気のせいだ。八洲課長に似ている気がするのも。


「おり、おれ、なぜころした。なぜ。くるじい。ぎいいいい!」

「そ、そうよね、聞き間違いよね」


 混乱の人ごみを掻き分けてオフィスビルに逃げ込み、受付の内線電話の受話器をあげる。


「本日二時からお約束しております――多辺と申しますが――ご担当の――」


 ポケットでスマホが震えた。



〈津木野ヒカリ からメッセージが届いています。〉



 画面に表示された文字に目を疑う。彼女の連絡先は消したはずなのに。


〈折原さん。順番を守ってくれていますか?〉


 胃のあたりが凍りついた。


〈実は、ぎりぎりのところで敵に負けてしまいました。もう全部駄目です。人も動物も死者も全部ごった煮です。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。折原さん、わたしあ〉


 途中まで読んだところで着信が入った。


「――区警察署ですが、折原基樹さんのお電話でお間違いないでしょうか。八洲雄大さんについてお伺いしたいことが」

「何も知りません」

「折原さん。彼が遺体で発見されたことはご存知ですか?」

「知りません」


 ぶつ、と通話を切る。

 自分を呼ぶ声に振り向く。

 本日の商談相手だ。

 よく肥えている。


「多辺さぁん。困りますよ。弊社は遅刻にうるさいんですから。なんですかねぇ、この騒ぎは。猿ごときで」

「え、ええ……」

「会議室に取締役も揃っています。御社の提案を楽しみに――ええっあ、喉が熱……うう? なんか体が、へ、へん、熱いよ。く、くるし……た、たすけ」

「どうしたんですか? ちょっ……」

「た、たす……ぎ、ぎいい、キイ」


 じゅっと焦げつく音がした。

 臭い。焼ける肉の臭いがする。

 男は近くにいたべつの男におぶさって、背中とお腹でくっついて、たったひとつのいきものになる。


「きゃあああっ。なにこれ。どうしよう、折原!」

「だ、大丈夫だ」


 大丈夫。大丈夫。大丈夫。念仏のように唱える。大丈夫だ。あれはヒカリの妄想だ。俺はなにもしていない。地球が危ないなんて嘘だ。生命が焦げつくなんて――

 多辺の手を掴んでビルから飛び出すと、肩に白いかけらが付着した。雪だ。春は目前だというのに雪が降っている。俺にはもがれた羽根の和毛に思えてならなかった。

 大丈夫、天使なんかいない。神様も敵も。大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だ。


「折原。ひとりで逃げて」

「なに言ってんだよ。車まで戻ろう」

「だめ。あたし、い、ぎ……」


 多辺の足首に五、六匹の猿やヒトや野良猫の集合体がまとわりついて、ぶすぶすとのぼる煙が多辺の肌を黒く汚していく。


「さヨな、ら、おりいギキイイイイイ」

「多辺!」


 キイ、キイ。

 キイ――――――――――。


 ロビーに鳴き声が、悲鳴が反響する。

 ――もう、なにも大丈夫なんかじゃない。


 わかったよ。俺にだけはわかる。

 ヒカリ。君の言葉は真実だったんだ。俺は最後まで君を信じるべきだったのに。約束をしたのに。

 最後は彼女の傍にいると。間に合わなくても……あっ。連絡がほしいとヒカリは言った!

 彼女に返事を送るため、俺はメッセージの続きを読もうとした。それは敵の妨害によってすでに消去されており、くそっ、なにもかもが手遅れだ。


〈…津木野ヒカリ を呼び出しています…〉

〈応答がありませんでした〉

〈…津木野ヒカリ を呼び出しています…〉

〈応答がありませんでした〉


 ――ああ。俺のかわいい恋人よ。

 赤いセーターがよく似合う白い肌にぽつんと膨らんだニキビの桃色、スカートから覗いた細い足首の引っ掻き傷に交差して貼られた水玉模様の絆創膏。

 殺風景な俺の世界に、うつくしい旋律を連れてきてくれたひと。

 狂人扱いを受けて、ただひとりの恋人にも信じてもらえず、それでも人類を守護しようとして地球担当の天使よ。


〈ヒカリ。今なにしてる?〉


 返事はない。

 世界が焦げつきはじめる。

 狂気が境界線を超えて侵略する。

 断末魔の旋律が街中を覆い尽くす。

 それは津木野ヒカリの音楽だ。彼女が孤独に奏で続けた哀しみだ。

 君は、俺になにを伝えようとしてくれたのだろう。


「ヒカリ……俺はてっきり君と八洲課長が……そんなことはどうでもいい。会いたかったよ。さみしかった。愛しているんだ。ヒカリ――」


 手を伸ばした。

 そこに彼女はいない。あるのは俺の願望だけだ。なぜなら俺も焦げついている。追いついた八洲課長が腕にまとわりついてじゅうじゅうおいしく焼ける。視界が、眸が、世界が赤く朱く紅く色づきはじめる。秋だ。秋が戻ってきた。うつろいゆく若き青春のように短い秋よ。

 体があつく燃える。

 心臓がきゅんと絞られる。

 痛みで思考が麻痺してゆく。

 そうか。低次元に落とされるとは、

 死とは、恋の果てなのだ。


 さよなら地球。俺の信じたくだらない世界。


 キイ――ぱたん、と命の扉が閉じた。








 ……キイ。

 ふたたび扉が開く。

 ふたたび? ふたたびって何だ?

 瞼を開けると多辺がにやにやと笑っている。


「多辺。無事だったのか。よかった!」

「なに寝ぼけてんのよ」

「え?」


 日焼けした医師が、俺にハンカチをさしだした。


「怖い夢でも見たんですか?」


 ハンカチを受け取る指先が安堵で震えた。なぜだろう。薬品臭い病室の――いやオフィスの掛け時計は終業時刻をとうに過ぎている。

 そうだった。

 残業中にうたた寝してしまっていたらしい。


「先生。まだプレゼン資料の作成が途中ですから、診察はのちほどでもよろしいでしょうか」

「折原さん。ここがどこかおわかりですか?」

「オフィスですよ」

「……では、なぜあなたがここにいるのか、覚えていらっしゃいますか?」

「再雇用されたからです。先生。どうしてそんな当たり前のことをお尋ねになるのですか?」


 頭の悪い医者はすごすごとオフィスから出て行った。

 そのわずかに開いた扉から、ランドセルを背負った小学生がこちらをじいっと見つめている。

 ピンク色のセーターがよく似合う白い肌に、膝小僧に交差して貼られた水玉模様の絆創膏。


「津木野部長のお子さんよ。お通夜が終わるまで会社で預かることになったの」といつの間にか戻っていた多辺が教える。


「部長が参列するんだったか。亡くなった……あの……誰だっけ?」

「さあ。誰だったかしら。折原もどうせ残業でしょ? 居眠りするくらいなら宿題でも見てあげてよね」


 その女の子が脚をパタパタとさせるたび、からだに合わない椅子がキイ、キイと軋む。誰もいなくなった無人のオフィスにおいて、彼女は桃色の存在感をはなっていた。


「絵日記の宿題? 上手だなあ。パパとママかな」


 赤いセーターを着た女性と、スーツ姿の男性の絵。男女を黒いクレヨンでぐるぐる、ぐるぐる…………締めくくりに『わたし』、『オリハラさん』と書き加えられる。


「俺? ああ、社員証を見たんだね。どうして俺を描いてくれたの?」

「だって折原さんはわたしの一番だから」


 子どもとは思えない虚ろにかがやいた眸が、俺の心臓を見透かした。


「折原さんが心変わりをしたせいで、円の秩序が乱れて、わたし失敗しちゃったんですよ。だけど神様がやり直していいって」

「は……? ごめん、なんの話なのかまったく……」

「いいんです。折原さん。つらいことはぜーんぶ、忘れていいんです。わたしはあなたに会いたくて天使になったのですから」

「天使? たしかに君は天使みたいに愛らしいね」

「ふふっ。わたしがんばります。大好きな折原さん、今度こそちゃんと順番を守ってくださいねっ。るんっ……」


 春風が俺の背中にふうと吹く。あっと思う隙も無く、俺の心は恋の底へと落ちる。

 ――聞き覚えのあるような、まだ知らぬような、耳障りな動悸がした。






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