終章 恋焦がれて
12
「いよいよ明日ね」
キイ、と椅子を回し、緊張した面持ちで多辺は言った。春色のブラウスがよく似合う。
俺と多辺は支店最大の商談に臨む。このオフィスの運命が懸かっていると言っても過言ではない。
「商談が終わったら、結果に関係なく、ちょっと飲みに行かない? ……ふたりで」
「本気で言ってる?」
多辺は、やや言葉に迷って視線を泳がせ、それから気まずそうに笑った。
「てっきり君には嫌われたと思ってた」
「うん。まあね」
あっさり認められてしまい、俺は苦笑する。
「だって折原はあたしのこと嫌いでしょ」
「いや?」
「じゃあなんで一度も誘いに乗ってくれなかったの?」
「あの頃は付き合ってた相手がいたからさ」
「そうだったの? それならそうと言ってくれれば」
「悪かったよ。ま、終わった話だよ」
俺はもうドビュッシーは聴かない。順番も守らない。
津木野ヒカリがもたらしたものすべて、遠ざけてしまえばはじめからなかったように思えるくらい些細で、愚かで、日常には不必要な要素であった。
心の音楽が止まってしまったのは淋しいが、端から耳を傾けるべき旋律ではなかったのだ。
「コンニチハ、折原さん。えーっとね、もうお薬はやめてみてもいいでしょう。漢方薬だけしばらくつづけてくださいね」
「はい。ありがとうございます、先生」
「津木野さんはお元気ですか? 先日電話診療でお話ししましたけどね、チョイト様子が妙だったモンだから」
「あ~……」と言葉を濁しているうちに、医者は電子カルテを入力する。彼の日焼けは冬の間に薄くなるどころかますます濃くなった。
パソコンのデスクトップに、〈電話診療〉のフォルダがあるのを見つけた。
「――先生。ご予約の患者さんからお電話ですよ~」
「ああッ、もう、そんな時間か。あっちの部屋で話すから転送して。じゃあ折原さん、お大事に」
相変わらずばたばたと忙しない医者だ。
俺は診察室を出て、少し時間を置いて、もう一度診察室のドアを開ける。医者の姿はなかった。
空っぽの椅子が俺を手招く。
注意深く耳を澄ませ、看護師の気配もないことをたしかめ、まだロックのかかっていないパソコンのモニタを覗き込む。イヤホンは引き出しにあった。用意周到に整えられたかのような状況に抗えもせず。
〈電話診療――津木野ヒカリ〉
音声ファイルを開く。
イヤホンを耳の穴に詰める。
音量を低くして再生ボタンを押す。
『先生、お久しぶりです。以前、そちらに睡眠障害で通院していた津木野ヒカリと申します』
久しぶりに聞く声に、体の芯が震えた。
ヒカリ。かわいいヒカリ。
俺を騙したかわいい女の子。
『急にお電話を差し上げてご迷惑だとは思ったのですけど、電話診療ということでお金はお支払いしますから、どうか話を聞いてくださいませんか? 敵に包囲されて、戦況は悪化しています。ここにはわたしの話に耳を傾けてくれる人はいません。
……ありがとうございます。ふふっ……。
先生もご存知の通り、わたしは七歳のときに天啓に打たれました。忘れもしません――冬の日でした』
俺と出会ったのは秋だった。
津木野ヒカリの記憶に俺との思い出は残っているだろうか?
こんな風に、誰かに丁寧に話したいと思うだろうか?
それともどうでもいい記憶だろうか。
…………彼女にとって俺は何者だったんだ?
津木野ヒカリは語る。
あの頃、わたしの母は仕事がいそがしくってあまり家に帰ってくれませんでした。父は最初からいません。外には意地悪な子どもと冷たいおとなしかいません。わたしは家でずっと退屈していました。暖を取るのに毛布では足らず、すごく寒かったけれど、外にいる野良猫よりはましでした。
先生。七歳の子どもは学校に通うんですよ。わたしは母の前では知らない振りをしていましたがもちろん知っていました。わたしはランドセルを持たなかったし、いつもお腹が空いていました。
それで祖母のお見舞いに行こうと思い立ったのです。気難しい祖母ではなくやさしい看護師さんを当てにして。
祖母は長らく入院しており、まだ生きているかも知りませんでしたが、当時のわたしは祖母がまだ病院にいると信じて疑わず、自分の発案に自信満々で出掛けたのです。
病院への道順はおぼろげでした。どの電車に乗ればいいのか見当もつきませんでした。とりあえず駅に行こうと、初乗り運賃を握りしめて歩きました。
ちらちらと雪が降っていました。
はずむ心とは裏腹に、冷えのせいか、あるいは緊張のせいか、わたしは急激な腹痛に襲われました。
このとき我慢せずに引き返せばよかったのに、ひとりで焦っていた私は、なんとか這いつくばって駅前まで辿り着いたのです。しかしロータリーでもう立っていられなくなり、呻きながらしゃがみ込みました。
――駅員さんに助けて貰おう。
そう思ったのですが、運悪く、大雪で電車は運休しており、ちいさな駅舎には無情にもシャッターが下ろされていました。
絶望の淵に立たされた気分でした。
周りには誰もいませんでした。空腹のあまり、胃が痛いのか、苦しいのか、よくわかりませんでした。パンツがじっとりと湿り、大便を漏らしてしまったとわかりましたが、このところなにも食べていないのでそんなに臭くありませんでした。わたしはそのことに一種の感動を覚えました。
体にしんしんと雪が降り積もります。
わたしは死にかけているのに、世界はまるで何ともないように適応して回っていく。
悔しさや悲しみを通り越し、崇拝にも似た気持ちが心に広がりました。
そのときです。
天に輪になった虹が出現し、その中央から〈神様〉が顔を覗かせたのです。
「こんにちハ、津木野ヒカリ」
巨大な顔は、にこやかにそう喋りました。
「貴方は地球担当の天使に任命さレました。これからたくさん頑張ってくださイ!」
応援を合図に、つめたい銀世界が赤く弾けました。
先生。幻覚ではないのですよ。たしかに熱く、燃える火花が空気を焦がしたのですから。
着弾した炎に、知らない国の人々が巻かれて踊ります。匂いだって覚えています。わたしは怖かった……絵本でしか見たことのない恐ろしい光景が、東京の、ちいさな町で、なぜ繰り広げられたのか。先生、わかりますか?
ふふっ。頭のいい先生でもおわかりにならないことがあるんですね。
簡単です。神様はわたしの魂を高次元まで一時的に引き上げたんですよ。はい、上からはどこまでも見渡せました。どこまでも、どこまでも――。
炎が消えると、つづいてどこからともなく行列が現れました。わたしみたいに手足の細い子どもが自分の身体より大きな水甕を抱えています。意地悪なおとなによって水甕を取り上げられるのを、わたしは黙って眺めていました。腹痛がぶり返した気がしました。
行列がどこかへ行ってしまい、今度は代わりにきらびやかなお城……いえあれは貴族のお屋敷です。羨ましいほどあたたかそうな衣服に身を包んだその男の人は家族に別れを告げています。
「神様。あの人はどうしてお金持ちなのに泣いているの?」
「彼はあとから生まれたのデ、いつまでもお屋敷にはいらレないのです。この世はあまねく順番通りなのでス」
一方、お兄さんのほうは若くうつくしい女性の腰を抱いてしあわせそうに笑っていました。泣く泣く馬車に乗るおとうととは対照的に、お姫様と王子様のようでした。
なるほど。ようやくわたしは理解しました。一番目がお兄さん、二番目はおとうと。だから一番目がえらいのだ。
しかしこの世が順番通りに回るなんて有り得ないことだと子どもでもわかることです。あの水の行列のようにずるをする人間もいるし、戦争のように秩序を破壊する人間もいます。
「神様は間違ってる。わたしはお母さんの一番目の子どもだけど、えらくも強くもない。今日は駅に一番乗りだけど、誰も助けてくれない。順番なんて意味ないよ」
「一番目と唯一の存在は違イます。他者がいなければ順番もナい。そして一番目がえらいノでもありません。順番ソのものが尊いのデす」
「わかんない……」
「手の届く範囲でいいのでス、津木野ヒカリ。その小さな中心点が、やがて大きな波紋になって、ズうっと勝手に広がってゆくのですから。修正しマしょう、ヒカリ。これから、あなたが天使の候補生だと聞キつけた〈敵〉が手駒ノ人間を使役して、あなたが順番通リに物事を運べないようありとあらゆる手を使って妨害をしてくるでしょう」
「だから、わかんないって。それより神様。わたし、とても寒いの。お腹が痛い。お腹が空いた。助けて」
「私の天使。それはできまセん。宇宙の掟なのです。あなたが、あなた自身を守ラねばなりません。ヒいては世界のために。わカリますね? 死んだらそこでおしまいです。頑張っテください」
そんな――。
引き留める隙もなく、神様は消滅しました。
寒さはたちまち熱を持ち、やがて虚無になって、自分の身体がまだあるのか、はたまた、もしばらばらになってしまっても気づかないだろうと思いました。
ええ、先生。慰めのお言葉、嬉しく頂戴いたします。
もうだめだと死を覚悟しました。
なにが神様だ。
なにが天使だ。
お母さんなんか嫌い。
みんな死んでしまえ。
キイ……と音を立てて一台のタクシーがロータリーに停まりました。
誰かくる。でも、雪に埋もれていては気づいてもらえない。死にたくない。最後の力を振り絞って立ち上がった、そのとき――
「どけっ!」
――大きな男の人にぶつかられて、わたしはアスファルトに叩きつけられ、背骨に激痛が走り、声も出ませんでした。先生。この世の中ってほんとうにひどいですね。
「オリハラ、とっとと乗れ!」と大きな男の人が、あとから走ってきた若い男の人に怒鳴りました。
「か、カチョウ。子どもが」
「ほっとけ。ショウダンのほうが大事だ。このタクシーを乗り逃がしたら遅刻だ」
「で、でも。すぐに追いかけるので先に行っていただけませんか」
「……ムノウめ。帰ったらユウセン順位を身体に叩き込んでやるからな」
タクシーのドアは閉まり、白い排気を吐きました。
「大丈夫? 痛かったよね?」
「えと……」
「ごめんね、ごめん。あいつは悪い奴なんだ。立てる?」
差し出された手があんまりあたたかいので、わたしは涙がこぼれました。
世界は敵だらけだと思っていたのに、その男の人は、お腹が痛いと言ったらお薬をくれました。
なにも食べていないと言ったらチョコレートをくれました。
壊れたわたしの靴底をくっつけてくれました。
汚れた服をいやな顔せずに着替えさせてくれました。
ほんものの神様よりも神様みたいでした。
病院に連れて行ってくれて、おまわりさんがきて、わたしはお母さんとべつべつに暮らすことになって、親戚のうちに引き取られても、わたしはあの男の人についてずっと考えていました。
――あの人はどうして見ず知らずのわたしに、あんなに優しくしてくれたのだろう? あんなに優しいのに、どうして悪い奴に怒られていたのだろう?
あの悪い奴。許せない……。
「えエ。その通り。すべテは悪い〈敵〉のせいなのでスよ。津木野ヒカリ――」
――いつの間にかわたしの中にいる神様がささやきました。
「あなタが順番を守り、地球を守ルことが、彼への恩返しニなるでシょう」
だからわたしも天使としてがんばってみようと思えたんです。
先生。それが三年前のことです。
それからわたしは何度もへまをして、円を乱しては、修正を加え、騙し騙し手順を進めてきましたが、本当はもうすでに結構やばいところまできていて……へへっ。
八洲さんのことは残念でした。
殺すつもりはなかったんです。
いえ先生。妄想とかじゃなくって。
順番通り辞めてもらおうと思った通りだけなのに、手順を間違えて、焦げついちゃって。
焦げつきの影響は、一番にわたし自身に及びました。ただでさえミスで修正を繰り返し過ぎたせいで、わたしは十歳の精神のままに十九歳まで一気に成長してしまったのです。
いきなり肉体年齢が老いてしまいましたから、戸籍や何もかもの辻褄を合わせるには相当のエネルギーを要しました。とても大変でした。とくに苦労したのは大学の勉強です。出来心で、経歴をいじって、大学生の設定にしてしまったもので……女子大生って何か格好いいと思って……でも授業についていけなくって中退しちゃいました。
わたしには荷が重かったんです。
最近は神様もすっかり呆れて顔も出してくれません。
地球のありとあらゆる生命体はわたしなんかが天使になったせいで焦げつきはじめてしまって。……人面瘡の患者さん、増えていませんか?
いえ、なんでもありません……先生、整形外科医じゃありませんもんね。ご存知でないのならそれでいいんです。
先生、長々と話を聞いてくださってありがとうございました。話しているうちにわたしがなにをすべきなのかようやくまとまってきた気がします。
敵が油断している今がチャンスだと思うんです。地球担当の天使の底力を見せてやりますよ。
え? 東京では通院しているのかって?
いえ、いそがしくって。市販の導眠剤で何とかやりくりしていますけど。
妄想?
先生。さっきから妄想って何のことですか?
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