11
――殺してやる。
声に先導されて、バッグからおもむろに工具箱を取り出す。
マイナスドライバーを手に車から降りる。
子どもたちがはしゃぐ。
ブランコが軋む。
キイ、キイ――。
――殺してやる。
ふたりの入った寂れたホテルは、一室以外は空室だった。階段をのぼる。汗が流れる。出会った日のヒカリを思い出す。あの無垢な眸、やわらかなハミング、情熱的な正義、すべてが俺の心臓を軋ませる。愛していたのに。
――殺してやる。
ドライバーを握りしめた手でスマホを連打する。
〈今、なにしてる?〉
〈今、なにしてる?〉
〈今、なにしてる?〉
――殺してやる。
華やかなのはエントランスだけで、陰鬱な廊下に点々と仄暗い明かりが灯るだけ。俺の影が背伸びをする。殺意を尖らせる。
順番を誤ってはいけない。
それは君が俺に教えた世界のルール。
ドアから光が漏れている。あそこだ。一歩進むごとに赤い床が沈む。たわんだカーペットが歪む。
ああ。俺の心臓が泣く。俺の恋が死んでしまう。俺の。これから間もなく俺の手によって。
俺のヒカリが――
「やめてっ」
多辺が、俺のスーツを引っ張った。
鬱陶しい。
邪険にして押し返す。
「どけ」
「やめてよ」
「殺してやる」
「やめてったら!」
「殺さなきゃいけないんだ」
「これまでの頑張りを全部無駄にするってわけ!?」
多辺の絶叫があんまり大きいので、部屋まで届いたのではないかとひやりとする。中からふたりが出て来る気配はない。
「折原……短い間だけど、あなたの仕事ぶりを隣で見てきたからわかるの。最近ちょっと変よ」
「多辺には関係ない」
「そうよ。なにがあったのか知らないけど、だからって放っておけない。このままじゃせっかく積み上げてきた信用を失ってしまうわ。八洲課長が許せないのなら、殺すのではなくて訴えましょう。わたしも協力するから」
ささくれた指先が拳の中に侵入して、マイナスドライバーを抜き取った。
途端、さっきまで煮えたぎっていた殺意も、ふっと吹き消される。
……なにをやっていたんだ、俺は?
ラブホテルの階段を下り、社用車を停めたコンビニへと歩く間、俺と多辺は無言だった。子どもたちの声と、ブランコの音だけが、冷えた空気にこだまする。
「……疲れたよ」
「休んでから帰りましょう。車の中にコーヒーがあるわ。とっくに冷めてると思うけど」
ぬるいコーヒーに口の中を撫でられたら、八洲課長への憎悪も、津木野ヒカリへの愛情も、丸くなって溶けてなくなってしまった。
ヒカリははじめから俺を選んでなどいなかった。勝手に一目惚れした俺をちょっと相手してくれただけの話。たまたま俺の元上司の恋人だった。そういうこともあるだろう。あんなかわいい子が、俺なんかを本気で好きになってくれるなんて、都合のいい展開があるはずもなかったんだ。
寒いなあ。それもそのはずだ。見てみろ。雪が降りはじめた。
電話番号や住所はもとより知らない。メッセージアプリが唯一の連絡手段だ。なんて軽薄な関係性だろう? 最初から順番を間違えていたのだ。あはは……恋は盲目とはこのことだ。ろくに相手のことも知らぬ間にひと目惚れをして、人となりも知らないくせに入れ込んで、無条件に信用して、心を捧げてしまった。
戻ろう。
神様も天使も、津木野ヒカリもいない、まともな世界に。
「――さようなら」
津木野ヒカリのアカウントを削除する。
雪化粧の赤い七竈がぽろりと落ちて、俺の恋も醒めた。
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