10
多辺の誘いを断りつづけたために、俺たちの関係性はぎくしゃくしていた。最悪と言ってもよかった。
この女に関しては、ほんとうはもっと言いたいことがあるのだが、スタートを切ったばかりの新オフィスの人員は十人にも満たず、人間関係を拗らせた場合の面倒を考慮して、不服のすべてを飲み込んだ。
ここでの営業成績は俺が一番、多辺は二番。それにも関わらず、本社の人間は俺よりも彼女を重宝しようとするきらいがある。
話しかけやすいだとか、人柄がいいとか、そういう数値化できない要素を理由に、些細な相談案件を俺ではなく彼女に振る。先日なんかは彼女がプロジェクトリーダーに任命されていたくらいだ。ふざけんじゃねえぞ。リーダーはうちの会社では出世に欠かせない経験であり、俺は復職時に社歴は継続カウントするものの出世に関わる経歴はすべてリセットと考えて欲しいと言われているので、次の支店長が俺になるか彼女になるか、その一騎打ちにおいて俺はすでに遅れを取ってしまっている。
多辺が俺より先に出世するなんてあってはならない。かつては管理職なんか面倒なばかりで何の得もなく、平社員のほうがましだと思っていたが、順番の混乱を何とも思わずに許していた過去の自分が信じられない。
一着に金メダル、二着に銀メダル、三着に銅メダルだ。一着に銀メダル、二着に銅メダル、三着に金メダルを許容してはなるまい。そういうことだ。
「違うだろう、順番がッ!」
怒鳴り声が店内に響き渡り、かったるそうに「……どうぞぉ」を繰り返していた茶髪のコンビニ店員は肩を竦め、珍獣を見る目を俺に向ける。
「あのぉ……?」
「俺はちゃんと、床のライン上に並んでいたんだ。見ろ。レジから、こっちに向かって矢印が引いてある。そうだろ? そいつは割り込みじゃないか」
「あぁ……すみません……ついうっかりぃ……」
「うっかりじゃねえよ! こういう混乱を招かないための導線なんじゃないのか。あんたらがその通りに案内しないのなら線の意味がないじゃないか。おかしいだろ」
「ごもっともです……以後気を付けますから、あの、会計しましょうか」
「おかしいだろおかしいおかしいおかしいおかしい!」
「店長ぉ~」
頭をぺこぺこと下げる店長を見下し、どうだ、やってやったぞと自信たっぷりに後方を見たら、しーんと音がするくらいに白けた空気が俺の全身を刺した。誰もがスマホをいじって、俺と目を合わさぬように注意を払っているのがはっきりと伝わり、正直、困惑した。
――どうして賞賛しない?
コンビニ弁当を手に、落胆して帰宅した俺は、すぐにメッセージアプリを開いた。
〈今なにしてる?〉
俺が津木野ヒカリに送ったメッセージはまだ既読になっていない。連絡はかれこれ一週間も無い。
――なぜだ。なぜ返事をしない。俺は、君が誰より優先すべき、君の恋人なのに。優先順位が違うじゃないか!
苛立ってリモコンを壁に投げつける。
ぱっと変わったチャンネルは、お笑い芸人が双頭のワニを捕獲しに網ひとつでアマゾンへ突入するところだった。
世間は相変わらず鈍感だ。バラエティーのネタにしていい話題じゃないのに。これじゃ先行き不安だな、ヒカリ……。
ぴぴ、とスマホが鳴った。
〈すみません。敵の妨害が悪化してメッセージが何度も消されてしまったんです。折原さんはお元気ですか?〉
小さな画面に飛びついて文字を叩く。
ヒカリ。ヒカリ。ヒカリ!
久しぶりのメッセージに、肺に滞留していたもやもやが一気に排出されてスッキリする。
〈大変だったね。俺は元気だよ。こっちは物わかりが悪い人間ばかりで苦労するよ。でも俺ががんばらなくっちゃな。ヒカリは最近どう? いつ会える?〉
〈なんとかやっています。せ せせせせせせせせせせせせせせせせ 〉
どうやらメッセージは妨害されてしまったらしく、またしばらく連絡は途絶えた。
彼女と連絡が取れない期間は不安だ。世界中でひとりぼっちだという気がする。津木野ヒカリはずっとこんな孤独を味わっていたのだろうか?
声を聞きたかったが、音声通話は順番が決められていて、少しでも順番を間違うと敵の妨害に遭うらしく、順番的に心療内科の電話診療が一番なので、個人的な通話はなかなかむずかしいのだそうだ。よくわからないが、そうなんだそうだ。
不満は言えない。彼女の負傷に比べれば俺が受けた屈辱なんかかわいいものだ。今この瞬間も、彼女は敵の危険に晒されているに違いない。しかも、かつて大損害を被った忌ま忌ましい東京で、彼女は俺という味方から離れ、単身戦っている。
会いたい。
津木野ヒカリの眸に映りたい。
やわらかな肉体を抱きしめたい。
軋むような細い躯を
キイ、と。
折れるほどに。
キイ、キイ。
キイ、キイ、キイ――
「赤信号よ!」
――キイ――――――――…………
急ブレーキの反動で、おえっと胃腸が圧迫される。
「ごめん」
「気をつけてよ。寝不足なら運転代わるわ」
「大丈夫」
「折原と死ぬなんていやだからね」
「わかった。悪いけど運転を代わってくれ」
途中、コンビニに寄って社有車を降りた。
完全に寝不足だ。
こんなことじゃ成績は伸びない。
拗ねた気持ちで助手席に座った途端、多辺が「ちょっと……」と声をかけた。
「なんだよ。車のキーならそこに」
「違うわ。あそこにいるの、八洲課長じゃない?」
我が目を疑った。
コンビニの裏路地を歩いて行くのは間違いない――数ヶ月ぶりに見る、あの、猛々しい後ろ姿。彼だ。
「八洲課長は死んだはず……」
「縁起でもないわね。彼は転職しただけよ。てっきり東京に住んでいると思ってたけど」
悠々と闊歩する彼の隣に――
「――ヒカリ?」
ふたりがホテルへ入ってゆくのを、俺は唖然として見つめた。
――どういうことだ。
八洲課長とヒカリの残像を、俺は不幸の手紙でも受け取った気分で眺めた。影を目で追っているうちにだんだん八洲課長の生存について信憑性が生まれ、それが一体どこから生じたのかわからないが――つまり――そもそも、亡くなっているという情報自体に信憑性がなかったのだという簡単な論理であると思い至ると同時に、ではなぜヒカリは嘘をついたのだろう?
簡単だ。
彼女は二股をかけていた。
あるいは俺から彼へと乗り換えた。
見て見ぬ振りをしてきた違和感が、雲の合間から顔をのぞかせる。
津木野ヒカリは八洲課長の名前を知っていた。ふたりははじめから彼の知り合いだった。違う。ばかめ。現実を見ろ。知り合いとホテルには入らない。恋人同士なんだろ。
つまり――考えたくない、胃液が臭い、汗が冷たい、ぐるぐると目が回る――俺の順番が後なんだ。俺のほうが浮気相手だったんだ。
……ふと、なぜ人事担当者までもが八洲が死んだと出鱈目を言ったのだろうかと疑問を抱いた。
いや。
死亡したというのは、聞き間違いだったのかもしれない。俺の願望が聴覚にフィルターを掛け、「退職をキボウされましたよ」と言ったのを「シボウされましたよ」と変換してしまったというのは十分に有り得る空耳ではないか?
だって美人とビッチを聞き間違えたくらいのぽんこつだ。
だから……だから……ああ……頭がぼんやりとしてきた……。
「折原。顔色が悪いわ」
「…………平気だよ」
「これ、使って」
多辺がハンカチを差し出す。
知らぬ間に涙が流れていた。
「コーヒーでも買ってくるわ。折原はブラックでいい?」
「ああ……」
隣接する公園から、子どもたちの笑い声が響く。
なにが天使だ。なにが地球を高次元に連れて行くだ。ばかばかしい。津木野ヒカリは誇大妄想に取り憑かれた、ただの精神病患者じゃないか。危なかった。俺はいつの間にか境界を超えて、妄想の世界に引きずり込まれていたのだ。悪意だ。彼女こそ俺の敵だった。
でも……もしかしたら……事情があるのかもしれない。
〈ヒカリ。今、なにしてる?〉
言い訳のメッセージが届くのを待った。しかし、いつまで経っても返事はなかった。音声通話を呼び出してもやっぱり応じない。
嘘だったのだ。すべて。
信じたいことしか耳にしようとしなかった。
――殺してやる。
俺の中の俺がささやいた。
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